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大河ドラマから見る日本貨幣史14『室町幕府の困窮』

麒麟がくる第23話「義輝、夏の終わりに」。現在は剣豪将軍として、異様な人気を誇る義輝の、侘しさ、無念さを描いた回でした。義輝という将軍にここまでスポットを当てたドラマは、よくよく考えると珍しいのではないでしょうか? アニメや漫画、パチンコなんかではありましたけれどね。

実際の義輝は、この時代もう少し若いのですが、まあ、それは置いておいて。何故、室町幕府はこれほどまでに弱体化したのかという話を。

ぶっちゃけて言うなら、室町幕府にはお金がないからなのです。

鎌倉幕府と室町幕府の決定的な違いは、固定収入です。鎌倉幕府は、朝廷からきちんと任命される形で関東に知行国を与えられた政権です。そのため、関東の多くを幕府直轄地として手にしており、そこから莫大な固定収入を得ています。

鎌倉幕府が認められた知行国は「越後(現在の新潟県)」・「信濃(現在の長野県)」・「武蔵(現在の東京都、埼玉県、川崎市、横浜市を含める関東の大部分)」・「上総・下総(現在の千葉県の南端を除く全域)」・「相模(現在の神奈川県西部)」・「伊豆(現在の伊豆半島全域)」・「駿河(現在の静岡県中央部)」です。広大過ぎて目がくらみます。

さらに、「関東御領」と呼ばれる土地が加わります。鎌倉幕府は、朝廷で権勢を誇った平家を滅ぼすという名目で権力を認められ、朝廷内での地位を確立した政権です。なので、滅ぼした平家が持っていた荘園は褒美としてそのまま与えられました。全国500か所以上あったと伝わる平家の荘園は一部は御家人に褒美として与えられましたが、そのほとんどは幕府の収入源として手元におかれました。

さらに、1221年の承久の乱により、幕府に反抗を企てた西国の後鳥羽上皇勢力を一掃したことで、彼の土地も鎌倉幕府の勢力圏内に入ります。幕府は、朝廷を監視する意味で六波羅探題を京に設置するとともに、後鳥羽上皇側についた土地の守護を、北条一門に近い人間に変えることで、西国の土地の多くも幕府のものとしました。

鎌倉幕府の経済基盤はかなり盤石だったのです。実は、鎌倉幕府が滅びた理由というのは、いまだに中世史の学者の間でも「謎」とされています。元寇があったとしても、これだけの財力と権力、そして軍事力を持っていたならそうそう滅びるはずがないのです。

が、鎌倉幕府は後醍醐天皇と足利尊氏の軍により滅ぼされました。そして、この鎌倉幕府攻撃を指揮したのが、朝廷の後醍醐天皇であったことが、室町幕府弱体化のそもそもの原因となります。

後醍醐天皇は建武の新政という、新たな天皇中心の政治を開始します。ですが、この政治では、実際に血を流して鎌倉幕府を討ち倒した武士がないがしろにされていました。建武2(1335)年、関東で鎌倉幕府残党が反乱を起こします。この鎮圧のため後醍醐天皇に命じられ軍を率いた足利尊氏は、乱の鎮圧後、報われない武士のために後醍醐天皇に内密で、論功行賞を行い、このことがきっかけで朝廷への反乱者とされてしまいます。

その後は、皆さまご存知の通りです。一度は後醍醐天皇の討伐軍に敗れ、九州へ落ち延びた足利尊氏でしたが、すぐに現地で軍を再編し京を制圧。後醍醐天皇を追放し、代わりに光明天皇を擁立して征夷大将軍として室町幕府をつくるのです。

つまり、鎌倉幕府は、朝廷直々に命令されてできた政権であったのに対して、室町幕府は朝廷への反乱から生まれた幕府でした。当然、鎌倉幕府が設立した時に与えられたような広大な直轄地は与えられませんでした。

おまけに、吉野に流れた後醍醐天皇は、自分こそが正当な天皇であると主張し、南朝を設立。京の北朝と争いを始めます。教科書では南北朝時代としか書かれていませんが、この争いは60年間も続き、全国の武士が南朝、北朝に分かれて争う大規模な内戦へと発展しました。昨日まで幕府の味方だった守護が突如、南朝に味方するといった裏切りが多発しました。室町幕府は焦ります。そこで解決策としてただでさえ少ない直轄地を、裏切りそうな味方に与えたり、あるいは「味方をしてくれたらそれぞれの領地から納めるべき年貢の半分を、自分のものにしていいよ」という「半済令」で武士を懐柔していきました。

少ない幕府の収入はさらに減少しました。

正平21年/貞治5年(1366年)、室町幕府は第三代将軍足利義満の時代となります。義満は、全国で戦闘を繰り返す有力な守護達をうまくおだてて味方に引き入れたり、あるいは挑発して反乱軍を起こさせ、それを討伐することで、一種の軍事的均衡を作り出し南北朝動乱を終結に導きました。

国内が安定した後、次に目指したのが幕府の財政基盤再建です。そこで、義満が目を付けたのが日明貿易でした。当時中国を治めていた明という国は、海禁策という鎖国政策をとっており、明が認めた王と限られた回数しか貿易を行っていませんでした。義満は征夷大将軍であり、あくまで天皇の臣下という立場ですので、明から相手にされません。そこで義満は、出家して仏門に入ることで天皇の臣下の立場を離れ「日王」という立場で明との貿易権を確保しました。

貿易から上がる利潤は莫大でした。幕府の財政は一時的に回復します。ですが問題もありました。それが、貿易船の確保です。永享6(1434)年の遣明船の記録では、船のチャーター費用に300貫文、船の修繕費で300貫文、船員など人件費が400貫文、航海中の食料などが500貫文となっています。この当時の1貫文(1000文)は、人件費や米価から逆算するとおよそ3万円程度と考えられています。つまり貿易船を1隻用意するだけで現在の価値で約4500万円も必要だったのです。さらに、ここに商品を仕入れて積み込みます。結局、1隻を用意するのに、1万貫(約3億円)以上の費用が必要となりました。

そして、現在と異なり東シナ海を船一隻だけで渡るのは大変危険です。なので5〜10隻ほどの船団を組んで明へ渡ることになります。これだけの船を集めると、一回の航海で、15億〜30億円が必要となったのです。これは、50万石を治めるような大守護の年収にあたります。義満は1年間100隻まで明へ公式に船を派遣できる権利を勝ち取っていましたが、100隻の貿易船を用意することは義満以降の室町幕府では無理でした。日明貿易の売上げは、準備金のおよそ3倍であったことが分かっており、1回の航海で45〜90億円も儲かっていたのにです。

貿易船団の準備を行えなくなった室町幕府は、結局手元に残った貿易手形「勘合符」100枚を、有力な守護や寺社に売る事で当座の収入を得る事にしました。この時の勘合符の値段は、1枚300貫文(約900万円)でした。90億円儲かる魔法の札と分かっていても900万円で売る事しか出来なかった室町幕府は、さぞ無念だったことでしょう。

さらにこの時、勘合符を買った大名や寺院は、貿易で財産形成に成功します。室町幕府と全国の守護の間の経済格差は決定的となりました。

「土地もない」、「貿易も出来ない」なか室町幕府の政権を維持したお金は何だったのかといと、これまた義満が明徳4(1395)年に制定した「酒屋土倉役」でした。酒屋も土倉も、室町時代に発達した貸金業者です。この貸金業者に高い税をかける事によって幕府の収入を安定させようというのが狙いでした。ですが、当時は現在の貸金法のような、利息の上限というものがありません。年の利息が40〜67%というのは当たり前。酒屋や土倉が多いと言う事はそれだけ、彼らから借金をした庶民がたくさんいたという事であり、町には生活に困窮した庶民が溢れていました。彼らは、生活の改善を求め大規模な一揆を頻繁に起こすようになります。

直轄地の少ない室町幕府には、軍事動員できる領民があまりいません。即ち直轄軍も脆弱です。頻発する一揆を鎮圧するために幕府ができたことは、有力大名に頭を下げるか、借金の帳消しである「徳政令」の発令しかありませんでした。ですが、徳政令は、酒屋・土倉に債権放棄を迫る政策です。酒屋・土倉が困窮すると、酒屋土倉役で運営している室町幕府もまた困窮するのです。

結局、室町時代も中期をすぎると、将軍家は財政破綻状態となり有力な大名に生活の面倒を見てもらうだけの傀儡と成り下がりったのです。

ちなみに、室町幕府と逆に琉球は15世紀を境に貿易立国に成功しています。国土が狭い琉球ですが、東アジア貿易の中継地点としての自国の強みを活かしました。ちょうど海禁策で自由に売買できなかった明から商品を持ち込み、明商人に代わる事で世界的な貿易都市を形成しました。

その影響力は日本にも及んでおり、南九州では、琉球王国の国王に使節を送り、頭を下げて交易を願い出ていました。幕府の弱体化もあり、室町時代の九州は非常に荒れていました。そのようななかで南の海に誕生した巨大な王国は九州の守護にとって大変な脅威でした。もし、ヨーロッパ人の東アジア進出がもう数十年遅れていたら、この時期の南九州は琉球王国に組み込まれていたのかもしれません。

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