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大河ドラマから見る日本貨幣史21『比叡山は三度も欲をかいて焼き討ちされている』

出版系のお仕事あるあるですが、年末進行が気が狂っている。とはいえ、一回目の佳境はとりあえず超えたのであとは、今週末から来る2回目の地獄に備えます。

さて、比叡山を焼き討ちしたことにより、ドラマ内では信長や明智家が不倶戴天の仏敵という扱いにされてしまいました。さらに言うなら、光秀も相当心を病んでいるご様子。ですが、延暦寺を焼いたのは信長が初めてではありません。実はそれ以前、延暦寺は武士との対立で二回も大炎上しているのです。そのいずれもが、延暦寺が欲張った結果でした。

延暦寺の財力は絶大であったため、経済全体の金詰まりの元凶となり時の権力者と対立してしまうのは避けられない事でした。特に延暦寺は琵琶湖のほとりを治めていたため、京都へ流入する物資を恣意的にコントロールする事が出来るという優位性ももっていました。金とモノのボトルネックが延暦寺だったのです。

かつては、この立場を利用し、朝廷や院に対し圧力をかけて自分たちに有利な政策を引き出していた延暦寺でしたが、中世になると武士政権に対しても同様のことを行います。朝廷と違い武士政権は軍事力を持っているため、その政権のトップが神仏を恐れない人物だった場合、比叡山は焼かれることとなったのです。

延暦寺炎上の一回目は永享7(1435)年。攻撃したのは室町幕府第六代将軍・足利義教です。

義教は三代将軍・足利義満の子で10歳の時に、天台宗の青蓮院に預けられ、そこで才覚を発揮。応永26(1419)年に153代天台座主となっています。つまり、元々比叡山のトップだった人なのです。義教さん、くじ引きで次期将軍へと決まったからなのか、将軍としてばりばり活躍しようと躍起になっていた感じがあります。父親が、室町時代の基盤を作った義満であったということもプレッシャーとなっていたのかもしれません。

義満時代の儀礼を復活し、積極的に朝廷の政にも関与。また、家柄を問わない政務機関である「御前沙汰」の設立や、将軍自ら諸大名への詰問を行うなど、僧出身ならではのしきたりに囚われない政策を実施していきます。特に義満の死後、急激に悪化した財務の再建には力を入れています。勘合貿易も再開しますし、自ら日明貿易船を視察します。ですが、何より力を入れていたのが寺社勢力の削減でした。自身が天台座主であったこともあり、義教は寺社勢力がどれだけ経済を牛耳り権力をもっているかを理解していました。なので、積極的に人事から寺社の財政にまで介入していきます。

ちなみに『麒麟がくる』の時代に京都の金融を支配していたのは間違いなく比叡山延暦寺なのですが、15世紀までは別のお寺が栄華を極めています。それが、洛中に建っていた京都五山と呼ばれる臨済宗のお寺です。

第19回で政所という役職について解説しましたが、そもそも伊勢家が政所執事という財務長官を世襲し独占できたのには、幕府の人材が不足していたという問題もありました。切った張ったの世界を生きていた室町武士にとって、財務というのは苦手分野でしたので、それをこなせる人間の絶対数が足りません。それを補ったのが、京に寺を構えていた五山の僧たちでした。

奈良時代から荘園の出納管理をこなし続けた僧侶にとっては、財務管理も修行の一環でしかありません。このように寺社の経済を扱った僧侶のことを「東班衆」といいます(西班衆は経文の解釈や詩文を取り扱っていました)。臨済宗は平安末期から鎌倉時代初頭にかけて成立した比較的新興の宗教でしたので、延暦寺や興福寺のように朝廷と結びつく事はできませんでした。なので、同じく新興の権力者である武士と結びつく事にしました。

五山は積極的に幕府に東班衆を貸し出す事で、武士の苦手とする領地経営を補佐し、代わりに税の優遇や、寺領への不入の権を勝ち取っていったわけです。こうして、京の臨済宗五山と室町幕府は持ちつ持たれつの関係となっていました。

当初、義教は比叡山の勢力も同様に東班衆として取り込みを図りました。元天台座主の自分が言えばうまく行くだろうと思っていたのかもしれません。念のため、弟を自分のあとの天台座主へ据えたりもしています。ですが、古代からの寺社勢力である延暦寺にとって、臨済宗の伸張は面白くないことでした。一番の経済都市であり年貢の売り先である京が臨済宗勢力に抑えられていると、比叡山が売る年貢米にも運上金がかけられてしまうからです。

比叡山は同じ古代からの寺社勢力である大和の興福寺と手を組み、寺領での臨済宗の布教を禁じたり、臨済宗寺院へ朝廷から圧力をかけるなど対立が始まっていました。なので、義教の融和政策は当然の如く頓挫しました。延暦寺は、朝廷を使って幕府の奉行が不正をしたとして訴訟を起こし、義教のメンツを潰しました。この時は管領の細川持之が将軍と延暦寺双方をなだめ、延暦寺側の勝訴と言う形で事件は収まりました。

が、この勝訴により延暦寺は調子に乗ります。

比叡山延暦寺とひとまとめに言いますが、実際は数百の天台宗の寺が集合した宗教団体ですので、一枚岩というわけにはいきません。訴訟に同調しない寺もいくつかありました。延暦寺の僧兵は勝訴後、なんと同調しなかった比叡山の寺を焼き討ちし、見せしめとします。これは、義教だけでなく天台座主にいる義教の弟への宣戦布告でもありました。当然、義教は激怒し、比叡山を包囲します。いくら僧兵がいるとはいえ、幕府が本腰を入れて編成した軍に敵うはずもなく、延暦寺側は降伏におい込まれます。

このとき一旦は和睦しますが、義教の怒りは収まりませんでした。翌年、室町幕府と対立していた鎌倉公方の足利持氏が、比叡山に依頼し義教を呪っているという噂が流れました。これ幸いとばかり、義教は延暦寺を再び包囲。今度は、近江にある延暦寺の寺領を次々と差し押さえます。延暦寺はこれに対し、得意の日吉神社の神輿を担いだ強訴(神威を用いた軍事的な脅し)へと打って出ますが、強訴軍は幕府軍と衝突し、撃退されてしまいました。謝罪するならまだしも強訴に打って出たという延暦寺の行動は、義教の怒りに油を注ぎました。

義教は坂本の町に火を着け住民もろとも焼き払いました。

義教は、延暦寺側が降伏を申し出ても決して受け入れなかったため、細川持之ら幕府の宿老陣が、自らの進退をかけ赦免を要請し、ようやく騒動は鎮火しました。が、この後義教は比叡山の山門使節(延暦寺と朝廷や幕府との連絡を行う役)4名を捕え首をはねます。延暦寺はこの行為に抗議し根本中堂(延暦寺の総本堂)に火を放ち24人がかりの焼身自殺を行っています。

騒動により、延暦寺の寺領は削減し、五山の力がさらに増しました。金貸しの出先機関だった酒屋・土倉のかなりの部分の支配を臨済宗系へ持っていかれました。

五山別格として臨済宗トップでもあった南禅寺は、現在油揚げが名物として知られていますが、この油揚げにも五山による京の経済支配が関係しています。

南禅寺は、自前の収入源として油座を支配しました。京都に集まる油はすべて南禅寺の座の管轄下にあり、この寺には大量の食用油があったのてす。贅沢品の油をふんだんに使った油揚げが名物にできるほど、油と財政に余裕があったのです。

さて、激情的な性格であった足利義教は方々で恨みを買い、暗殺されてしまいました。義教亡き後、延暦寺は再び武装を始め、幕府や五山と対立し始めます。これが、延暦寺史上最も苛烈だった二回目の焼き討ちに繋がっていきます。

応仁元(1467)年に起こった応仁の乱は寺社勢力による権力と経済力の争いを大きく動かしました。京都が主戦場になった事により、五山の臨済宗寺が戦渦に巻き込まれ没落してしまったのです。臨済宗の衰退は、比叡山にとっての大きな転機となりました。

京での金策先であった五山寺院が機能しなくなったため、武家も延暦寺から金を借りるようになりました。当然、五山が支配していた座や、金貸し業者も比叡山の保護を求めるようになり、京内の金融の流れが大きく変わりました。

しかし五山の衰退により、ひとつの大きな問題も生まれました。それが、浄土真宗(一向宗)の隆盛です。先述の義教の預けられた天台宗青蓮院は、天台宗のほかもう1つの宗教の聖地として知られています。それが、浄土真宗です。浄土真宗の開祖である親鸞、親鸞の師匠で浄土宗の祖である法然は、それぞれ延暦寺出身の僧でした。そのため、独自の宗派を起こしたとき延暦寺より弾圧を受けています。このとき、二人を庇護したのが青蓮院だったのです。青蓮院は天台宗寺院でありながら浄土系の宗派とも関連の深い寺となりました。

浄土宗・浄土真宗は、天台宗や臨済宗と比較し、より貧しい人びとへと広まりました。ですが、そうなるとお布施の額も他の宗派と比べると非常に少ない。結局、室町時代には財政難に陥り宗派自体が滅亡の危機に瀕していました。親鸞の子孫である第八代宗主・蓮如は、実家である本願寺が困窮していたため、永享3(1431)年、公家の広橋兼郷の猶子となって青蓮院で出家させてもらっています。

この時代、浄土真宗の本願寺は、宗派の中心寺院という格を失っており天台宗青蓮院の末寺でした。中世の延暦寺は、仏教の大学であるという理念を失い、金の亡者となっておりますから、コレ幸いにと本願寺と、宗主である蓮如に宗旨替えの圧力をかけました。が、蓮如はこれを退け、天台宗への上納金も拒否し続けました。

長禄2(1458)年、ついに延暦寺は蓮如を仏敵に指定し、京を追放します。本願寺も破却しました。結果として蓮如は文正2(1467)年に延暦寺と和議を結ぶまでの10年間、浄土真宗の教えを説きながら各地を放浪することになるのです。文正2(1467)年とは、皆さんご存知の通り、応仁の乱が発生する年であり、五山勢力が失墜する年でもありました。

放浪中の蓮如を援助していたのは、奈良興福寺大乗院のトップで蓮如の親戚兼師であった経覚という僧侶でした。経覚は、延暦寺との諍いが解けた同年、北陸の興福寺大乗院の荘園に近い越前吉崎へ蓮如に布教ついでの下向を頼みます。応仁の乱により、臨済宗の勢力が衰退したことで、五山寺は地方荘園の管理を行えなくなりました。空白地帯となった五山寺の荘園には現地の守護が進出し、略奪を開始します。ついでのように、既存寺社や貴族の荘園も侵攻の危機にさらされたので、牽制の意味を込め蓮如を派遣したと言われています。ところが、この権力の空白地帯で、蓮如は浄土真宗の布教に大成功します。猛烈な勢いで宗徒は増加し、やがて一向一揆を起こし、武士勢力を脅かすほどの勢力へと育っていきました。

師であり蓮如の苦労を知っていた経覚は、この成功を喜んでいたようですが、延暦寺としては頭を悩ませる事になります。蓮如が広めた形の浄土真宗は、堺の例を見ても分かる通り、身分や権威に囚われず公助を教義の中心としていたため、延暦寺の古い権威によった関銭や金貸しなどの金策を否定しました。延暦寺の宗徒たちのなかからも宗旨替えを行うものが多く現れ、顧客という名の信者が奪われていく形になったのです。

北陸地方の浄土真宗勢力は延暦寺の天敵となりました。

応仁の乱終結後に幕政を指導した、第九代将軍の足利義尚は、若くして亡くなりました。次なる将軍に選ばれたのは、第八代将軍足利義政と対立し、西軍総大将を引き受けたため京を追放されていた足利義視の一子・足利義材でした。延徳2(1490)年、義材は将軍へと就任しました。義材は当初、管領の細川政元ともうまくやっていたのですが、やがてかつて応仁の乱のきっかけとなった前管領の畠山政長と手を組み、新たな権力の確立を画策し始めます。延徳3(1491)年の義視の死後は、幕府運営の障害となりそうな勢力に積極的に軍事介入を行い始め、穏健派の細川政元の方針と齟齬を生じていったのです。

明応2(1493)年、義材は畠山政長の政敵である畠山義豊を討伐するべく河内へ出陣します。が、このタイミングを見計らい細川政元が蜂起。11代将軍足利義澄を擁立し、義材は廃位されたのです。捕えられた義材は、流罪となる前に京都を脱出。越中(現在の富山)へと逃れ、そこで室町幕府とは異なる政権を樹立し、打倒・細川政元を掲げました。

明応7(1498)年に足利義尹と改名した義材は、越前の朝倉貞景の元へ移り、細川政元と足利義澄の排除を目指した軍事行動を起こします。これに呼応するように延暦寺も足利義尹軍へ参陣。幕府軍と戦端を開きます。

こうして管領・細川政元軍により延暦寺二度目の焼き討ちは実行されました。

この焼き討ちの規模は大きく、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍は全て失われています。信長の時代に山上が攻撃されていないのは、この時の攻撃により、山上に焼くべき寺がほとんど残っていなかったからという説もあります。何故、延暦寺がこの将軍の後継争いに参加したのかは、いまいち良く分かっていません。が、朝倉氏を始め足利義尹軍の陣容の多くが、北陸の一向一揆勢力と戦っている者で、細川政元側の軍が北陸政策に無頓着であったということは見逃してはならない要素だと思います。

ともすれば、失われた臨済宗五山領地の一部を恩賞として手にし、延暦寺領として組み込もうという狙いがあったのかもしれません。

ドラマの中で過剰に光秀は後悔していましたが、彼の尊敬する公方様や、幕府の安定の象徴の管領は、もっと積極的に延暦寺を焼いていますよという、そんなお話でした。

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