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日本の公鋳貨幣37『三貨制度』

江戸時代の貨幣制度を一言で表すとなると「三貨制度」に尽きると思います。制度じたいは江戸時代初期から完成していましたが、実際に「三貨」という名称が使用されたのは、文化12(1815)年に出版された『三貨図彙』です。執筆したのは両替屋兼貨幣収集家であった草間直方でした。

三貨制度を簡単に説明しますと、日本国内で全く価値体系の異なる3種類の貨幣を流通させたということです。現在、日本では「円」という単位の貨幣体系を用いていますが、江戸時代は「円」のほか、「$」と「元」も日本国内で使えていた状況でした。徳川幕府における三貨とは、「円」が金貨、「$」が銀貨、「元」が銅貨(銭貨)のことです。

厳密にはここに「米」が含まれますので四貨だったりするのですが……。まあ、米は江戸時代に貨幣のようには使われていないので抜いておきましょう。

3つの貨幣は異なる価値体系で流通していますので、当然為替差が生まれます。この3つの貨幣をやりくりすることで、鎖国をしながらも為替取引が行え金融業がどんどんと成長していったというのが江戸時代の特徴です。刻々と3種類の貨幣の相場は変動していくので、昨日10両で買えた商品が、翌日は買えなくなるなんてことも起こりえます。こんな面倒くさい貨幣制度を採用していた国は、世界のどこを見ても日本くらいでしょう。

一体、どのような理由で徳川家康は、3種類もの貨幣を、別々に流通させようと思い至ったのでしょうか。

天才・大久保長安の登用

徳川家康は、信長・秀吉らを間近で見ていたという経験もあってか、自らの権力基盤を構築する時に、政治力の確保よりも経済的な支配権の確保を優先していたきらいがあります。

そのため、五大老として関八州を任されたのちは、江戸の河川付け替え工事やら町割り整備、日比谷入江の埋め立てなどにばかり力を注いでいます。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに勝利し実質的な天下人となると、さらに経済的な支配を強めるべく五街道の整備や関所管理の徹底。長崎などの国際貿易港を直轄領に編入し、主要鉱山も豊臣家の支配から徳川家の支配に組み込みました。

あたかも符丁をあわせたの如く、このころが、日本における貴金属の産出ピークとなります。

この大増産の立役者とされるのが大久保長安という鉱山技師です。家康がどこでこの人物を発掘したのかについてはよくわかっていませんが、甲州金が用いられていた甲斐出身であることは間違いないようです。武田家が滅亡し、甲斐が徳川領に組み込まれた際に家康に登用されたと考えるのが自然でしょう。その後、町奉行として資金の差配や開拓の人員の管理などで才覚を発揮したようです。彼が家康政権下で実績をあげたことにより、武田家の遺臣は幕府で重宝されるようになっています。

大久保長安は、鉱山経営と採掘に関する多くの知見を持っていました。そのため、家康が関ヶ原の合戦で勝利し全国の鉱山を直轄すると、長安は各地の鉱山へ派遣されています。慶長5年の10月には石見銀山検分役、11月には佐渡金山接収役へ任命されています。

長安が派遣された鉱山は瞬く間に大量の金銀が湧くが如く産出したと伝わっています。

慶長8(1603)年、ついに家康が征夷大将軍に任命されると、長安も同時に従五位下石見守に叙任され、貴族の一員となります。家康の六男・松平忠輝附家老となり、12月には所務奉行(初代勘定奉行)兼年寄(後の老中)に列せられました。

そう、この大久保長安、あまり知られていませんが、家康政権の中心に上り詰めた人物だったのです。

長安は慶長11(1606)年に最後の大型鉱山であった伊豆奉行にも任じられました。これにより、全国の金銀山の統轄権限が長安の手に一手に集まりました。日本中の鉱山は長安の指導により、金銀の産出が激増しました。

長安は自らの手に転がり込んできた絶大な権力を、徳川幕府内での地固めに使い始めます。息子たちを徳川家の有力同心らの娘と結婚させ、徳川忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ちまとめあげます。

しかし、慶長17(1612)年ごろになると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下が報告され始めます。

掘り過ぎたんです。

金銀の減産は、家康・秀忠政権内での長安の立場を不安定にしました。家柄が良かったわけでもなく、一介の浪人にすぎなかった長安の地位をねたんでいた者も沢山いたことでしょう。長安は、金銀の減産を理由に次々と代官職を罷免させられていきました。

慶長18(1613)年、中風の悪化により長安が死去すると、降ってわいたように生前に鉱山からの上りを不正に蓄財していたという疑いがかけられ強制調査を命じられています。長安の子らが幕府の調査を拒否したところ、慶長18年(1613年)7月9日、子どもら一族全員は切腹となり、縁戚関係を結んだ諸大名も改易させられました(大久保長安事件)

大久保長安の名は、こうして幕府の記録から消されていきました。

ですが大久保長安の力により全国から集められた金の地金は、間違いなく江戸幕府に引き継がれました。この他にも、家康は諸外国から金を大量に輸入していましたので、初期江戸幕府は、大量の金銀を備蓄できたのです。

この金銀を用いて作られたのが、「慶長金銀」という江戸幕府の公式貨幣でした。

豊臣政権に配慮して金貨/銀貨の仕組みを分ける

家康が貨幣を整備するにあたりまず取り掛かったのは金貨の整備でした。この金貨は、甲斐武田家の甲州金の制度をほぼ丸パクリしていると言ってもよいでしょう。

小判1枚(1両)=一分金4枚(4分)=1朱金16枚(16朱)

という、四進法を用いた比率で交換されていました。このように、金属そのものの価値ではなく、定型に揃えた金属の地金に、為政者が額面を記すことで、その額面相当として扱う貨幣を「定位貨幣」と言います。(ちなみに、大判は10両でした。また、制度開始当初一朱にあたる金貨は鋳造されていません。)

慶長小判


慶長一分金

家康は、金を重要視していました。理由として、武田家の方針に感銘を受けていたということがよく言われていますが、それとは別に、銭貨不足が関係しているという説もあります。

江戸時代の始まりの時代は、中国大陸で明が没落を始め、満洲人の愛新覚羅氏が台頭を始めたころです。中国大陸が混乱し始めたため明との直接交易が減少し、朱印船を用いた東南アジアとの貿易が増大しました。

そのため、ただでさえ流入量が激減していた渡来銭の輸入が途絶えてしまいました。この問題は、古くからの銭貨が比較的多く残っていた西日本よりも、貨幣文化の定着が遅くそもそもの銭貨の流通量が少ないた東日本で深刻になっています。

銭貨に変わる形で、安定して供給できる貨幣の需要が東日本で高まりました。この当時世界的に貨幣として使用されていた金属は銀でした。銀を使用した貨幣は、貿易で国外へ流出する可能性がかなり高いため、すぐにでも貨幣の総量を増やしたい東日本のソリューションにはなりえませんでした。そこで東日本では金を用い始めたというのです。重さにより価値を確定する秤量貨幣ではなく、とりあえず表面に記載した額面で価値を確定する定位貨幣としたのも、地金価格よりも少ない量の金で、それ以上の価格として流通できたからだと伝わります。

江戸へ本拠を移した家康も、現地での貨幣流通の実態を見て、金貨に頼る形を採用せざるを得なかったというのは、ありえることだと思います。

慶長13(1608)年には、金と銭貨の交換比率も策定。全国的にまともな銭貨が残っていなかったことから、通用銭を鐚銭に限定したうえで金1両=鐚銭4貫文(4000枚)と公定しました。この公定により、高額の買い物をするときに4000枚もの銭を用意せずとも、小判1枚で済むようになり、社会の貨幣ニーズとうまく合致しました。

一方銀貨は従来通り、取引のたびに重さを計って切断して使う秤量貨幣としました。これは、すでに東日本よりも商圏の大きかった関西での取引慣習を、東国出身の徳川家康が改めよと言ったところで聞かれるわけがないことや、海外、特に東アジアとの貿易港が集まる西日本において、銀貨の秤量払いは必ず必要となることなどからであったと言われています。

京・大坂地方では1590年頃から急速に銀遣いが浸透しています。理由としては、豊臣秀吉による天下統一で、石見や但馬、摂津といった関西圏にあった銀山の銀が一度に集まったからであろうと考えられています。天正19(1591)年には、蘇我理右衛門という男が、堺において外国人技術者から、銀銅吹分の技法を習得し、銀の大量生産を実現しました。理右衛門は現在の住友グループの業祖とされています。

住友家の理右衛門は、この技術を独占することなく大坂中の銅吹仲間へと公開し、大坂全体で景気を良くすることによって、住友家が儲かるという手法を取りました。そのため、畿内は銀であふれかえることとなりました。

晩年、あれだけ暴虐を繰り返したにもかかわらず、太閤秀吉が関西で人気が高いのは、彼が天下人となったタイミングに理右衛門が広めた技術の広がりが重なり、銀が溢れ未曽有の好景気が始まったことが大きいです。この時代関西における秀吉の庶民人気はめちゃくちゃ高かったのです。

一方の徳川家康は、慶長5(1600)年に関ヶ原の合戦で石田三成を破り、実質的な天下人となっていますが、立ち場としては、豊臣政権内の有力者でしかありません。

家康が征夷大将軍となり、石高で豊臣家を上回ろうとも、その序列はあくまで武家のしきたりの中での話。右大臣まで務めた豊臣秀頼の公家としての権威に比べれば大した意味を持ちませんでした。

関西圏での豊臣家に対する圧倒的な人気に対して、所詮家康は東日本の田舎侍。銀遣いにより大きく盛り上がっている関西の好景気に、金貨を無理やり押し付けることによって水を差すだけの力が、家康にはなかったのです。

そこで、家康が考えたのが公鋳銀貨の流通です。豊臣秀頼のお膝元である機内に、江戸幕府がつくった銀貨を流すことによって、大坂城内に備蓄された金銀を使えなくさせつつ、天下が徳川のものであると一般庶民にまでアピールしようという狙いとされています。

当然、関西の庶民に違和感なく使ってもらわなければならないですし、新たな貨幣に切り替わることによって生じる大坂経済圏の混乱も防ぐ必要が有ります。そこで家康は、新たな定位貨幣を使わせることを諦め、あえて秤量貨幣の銀貨「慶長銀」を発行しました。


慶長丁銀。江戸時代初期は実際に重さを計り、必要な分だけ切って使用していた。そのため、どこで切断しても幕府が発行した本物と証明できるよう、表面の至る所に紋様が打刻されている。

こうして金貨と、銀貨、そして鐚銭という3種類の貨幣が流通するという奇妙な貨幣制度の元が出来上がりました。

とはいえ当初、幕府発行の銀貨はそれほど歓迎されていなかったようです。というのも、関西で流通していた銀の鋳塊の品位がとても高かったからです。

慶長銀は幕府としても採算分岐点ぎりぎりで作った高品質の銀貨でしたので、これ以上品位は上げられませんでした。それなのに、慶長銀より高品質の銀が流通していると、外国人は幕府の銀貨以外ばかりを求めるようになります。

なかなか流通しない慶長銀にしびれを切らした幕府は、慶長14(1609)年、ついに外国貿易の決済に、灰吹銀(銀の鋳塊)を用いることをを禁じました。慶長銀の使用を強制することで、ようやく銀貨は普及を始めます。

最後に回された銭貨の統一

このように、徳川家康は、関西と海外を意識した状態で貨幣統一を行わなければならなりませんでした。そのため、家康の当初の思惑とは異なり、きわめていびつな形で全国共通の貨幣制度を始めざるをえませんでした。慶長15年の大坂の陣で、ようやく厄介ごとのひとつ豊臣家を滅ぼした江戸幕府は、今度は、貨幣の統一に奔走することになります。

実は幕府は、江戸時代を通じて定位の金貨と秤量の銀貨との交換比率を何度も公定しようと令を出しています。やはり異なる価値の貨幣が併用されている状況は不満だったようです。ですが、この公定価格がなかなか浸透しませんでした。

というのも、室町時代から戦国時代にかけて活躍した金屋や銀屋といった商人たちが、そのまま両替商として成立してしまったからです。


左が両替商

両替商とは、その名の通り、金貨や銀貨を、そのほかの貨幣に交換することを生業としていた人たちです。交換の際にはわずかばかりの手数料をもらいそれで儲けを増やしていました。

このような商売が成り立ったのは、関ヶ原の戦いから豊臣家の滅亡までの15年の間、関東と関西で完全に異なる貨幣体系が定着してしまったからです。関東の武士が関西に出張する際には、手持ちの金貨を銀貨に変えなければなりませんでしたし、その逆もまた然りでした。この15年で、両替商は莫大な富を築き上げます。

両替商に強制して公定交換比率を守らせるということも何度か行ってはいますが、そもそも、貨幣を庶民に流通させるのは、両替商でした。両替商の資本がないと幕府貨幣の流通は遅々として進まないという実態も事実としてあったため、結局、公定比率の強制はなあなあとなっていきました。

東日本に本拠を構える幕府としては、金貨である小判に有利な交換比率で金貨と銀貨を流通させたかったようですが、商人にとってそんな幕府の都合などしったことではありません。金貨と銀貨の交換比率は、世の中の需要に応じて変動する変動相場制をとるようになります。よく教科書などで

金1両=銀 50匁=銭 4000文

といった交換比率が記されていますが、これは幕府の希望公定価格であり、公の場を除いて実際にこの交換比率では三貨は流通していません。まあ、計算しやすいので現在と江戸時代の物価を比較といった場合の計算には僕もよく使いますけれどね……。

↑こちらのサイトでは三井家が日記として記録し続けていた、江戸時代の金銀相場表が公開されています。興味のある方は是非。

この変動相場制をとったことによって、両替商はより多くの幕府製金銀貨を流通させるようになりましたし、金融意識が高まり、従来では考えられないような額の民業への融資文化もできあがりました。

手元にある貨幣の価値尺度が2種類ありますと、庶民も支払いを金で行うか銀で行うかよく考える必要がありますので、江戸時代の一般人は、現在の我々よりもよほどしっかりお金について意識していたことでしょう。

こうして、ある程度幕府貨幣が流通し経済が発展すると、次なる問題が生じてきます。庶民のお金不足です。

家康が金銀貨の整備を優先したのは、有事の際の緊急財政出動には高額貨幣の方が都合が良かったからです。が家康の死後50年ほど経ちますと、経済活動の主体は大名や大商人から、庶民へとうつってきました。小額の取引ばかりとは言え、庶民と支配層では人数が桁違いです。

17世紀も中ごろを過ぎますと、家康が使用せよと命じていた鐚戦がいよいよぼろぼろとなってきました。生活に余裕ができてきた庶民は、年貢として取られる米とは別に、余剰作物をどんどん生産し売るようになってきます。江戸時代の人口の内8割は、何らかの形で農業に従事していたと試算されていますので、余剰作物の取引に必要とされる小額貨幣も大変な量が必要となってきました。

小額の銭貨がいよいよもって不足し、深刻なデフレーションが発生します。

寛文8(1668)年、幕府はついに、庶民のために銭貨を発行することとします。が、幕府だけの力では国民の8割以上が必要とするだけの銅銭を発行することはとてもじゃないができません。世の中の銭不足を解消するために億枚単位で大量に発行する必要があった銭貨「寛永通宝」は、だから幕府が鋳造するのではなく、銭貨鋳造を請け負った民間業者に委託するという形で発行されることとなりました。

なお、この銭貨も当然ですが変動相場で取引されています。銭は小額であるがゆえに需要の増減が激しく、特に相場の変動が大きい貨幣でした。

こうして、日本国内に、金貨、銀貨、銅貨の3種類の貨幣が、異なる価値基準で流通するという「三貨制度」という体制が誕生したのです。

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