大河ドラマから見る日本貨幣史18『戦国時代の金・銀貨』
謎の多い人物明智光秀。ですが、「麒麟がくる」第二十七回で描かれた時代から、実際の史料上に彼の名前は登場してきます。ちなみに越前時代の光秀は、医者であったという説が近年は強いようですね。(当時の光秀が医術に詳しかったといいう話を伝える手紙が発見されています。)
さてさて、第二十七回の冒頭、織田信長は足利義昭上洛に際して、金銀貨幣を1000貫文用意したと述べていました。
NHKの公式サイト https://www.nhk.or.jp/kirin/story/27.html ではこの金額を1億5000万円と計算しています。つまりNHKの時代考証班も当時の1文は約150円という認識であり、私がこれまでnoteで書いてきた金額の基準計算と同じということですね!!
俄然自信がわいてきました!w
それでは今回は、劇中で積み上げられている金貨や銀貨について、それぞれ紹介していきたいと思います。
まず、上段左右に積み重ねられている袋は、以前にもドラマ内に登場していますね。帰蝶様が伊呂波太夫に傭兵の用意を依頼したときに支払っていた砂金を詰めた袋で、平安時代から続く由緒正しい日本の高額決済手段です。
次に、上段中央に積まれた銀貨。これはおそらく石州銀でしょうね。
石州とは現在の島根県石見のことです。この時代の石見銀山は、現在の南米ボリビアにあるポトシ銀山と並び世界に知られる超巨大銀山でした。この銀山では灰吹法と呼ばれる精製法が伝わってきたことにより、非常に品位の高い銀の精製が大量に効率よく行えるようになっていました。なので、鋳造された鋳銀が世界各地へ輸出されていました。当時の石見の産出した銀は、世界産出量の25〜30%を占めていたと言われています。
画像の石州銀は、下部が真っすぐに切断されており、さらにその上にノミを入れた傷がついています。これは、支払いの度に切断して使っていたからです。当時の金や銀は重さが支払いの単位になるため、切断して秤で量って使っていました。このような貨幣を秤量貨幣といいます。
次に、中央下段に積み上げられ、義昭が手に取って眺めていた金貨です。これは、碁石金や露金がモデルかと思われます。武田信玄がつくらせていた甲州金の、最初期のものがこの形状になります。
銀座コインより画像を借用しました。
戦国時代は、金属の精錬技術が飛躍的に進歩した時代です。そのため、それまで砂金でしか採取出来なかった金も、「山金」と呼ばれる鉱脈の状態から採取が可能となりました。なお、金も称量貨幣ですので基本は切断して使います。が、露金や碁石金は切断しません。これらは、もともと重量の端数調整に使われていたと考えられています。甲州金に関しては制度が整備された後は一粒あたりの重量を揃えてつくられるようになり、額面を固定して用いられるようになりました。
露金とは別にもうひとつ、小判型の𣜿葉金も積まれていました。実は劇中の𣜿葉金は、とても珍しい波模様入りでした。私は実物をとある所で見た事があるのですが、あのような装飾が入っているものはむしろ超珍しいので、小道具さんはどこで参考画像を見たのでしょう?通常の譲葉金は、上記の写真のように鏨目で装飾されるのみです。
譲葉金は切断して使用する事をあまり想定しなかったようですが、まだこの時代の金貨は称量貨幣ですので、譲葉金以外は基本切断して使うものでした。金は柔らかく、装飾をしてもすぐに摩耗してしまいます。どうせ切断するのですから、この時代の金貨はいちいち磨いて光沢を出すようなことも行われず、表面に鏨目など入れないことが多かったようです。そのため、どうやら今の我々には馴染みの薄い、四角形の貨幣が主流だったようです。
ですが、四角い金貨はそのほとんどが江戸時代に回収され小判へと改鋳されてしまったため、現存数が非常に少ないです。東洋経済新報発行の『図説 日本の貨幣1』にはカラーでこの希少な貨幣の画像が掲載されていますね。
そうそう、下の漆塗りの首桶みたいな入れ物ですが、あそこには以前紹介した銭緡が入っていたと思われます。
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