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日本の公鋳貨幣26「京経済の崩壊」

前回はこちら

「嘉吉の乱」により守護が将軍に疑問を抱く

「撰銭」文化の解説のため、中国の状況に多く紙幅を割いてしまいました。
話は一度日本に戻ります。日本で撰銭が始まる15世紀後半というと、第23回で解説した、徳政令を求める徳政一揆が頻発するようになった時代です。為政者である幕府にとって徳政の実施は、自らの権威のアピールと、一揆鎮圧軍の出動費倹約という一石二鳥の政策でした。このことは裏を返すと、軍事的に金をかけて一揆を鎮圧するだけの財力が室町幕府になくなっていたということでもありました。

今回は、京経済の破綻によって、幕府が失墜した話を書こうと思います。この流れを把握すると、この後延々と細かくなっていく日本の「撰銭」の理由がわかるようになるかと思います。

嘉吉元(1441)年、室町幕府を震撼させた「嘉吉の乱」が起こりました。播磨・備前・美作の三国の守護であった赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺したのです。

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↑暗殺された足利義教

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↑江戸時代に市川團十郎が演じた赤松満祐(東京都立中央図書館 蔵)

4代将軍・足利義持は、足利義満が整備した幕府の財政基盤を壊すだけ壊して、応永35(1428)年に後継者を定めず死去しました。嫡男である第5代将軍・義量は早世したため、出家していた義持の4人の弟のなかから、籤引きによって第6代将軍を決めようということになりました。籤引きの結果、天台座主の義円が将軍と決まり、以後は義宣(後に義教)と名乗ることになります。義教は後世、「籤引き将軍」と陰口で呼ばれることになるかわいそうな将軍です。

何の後ろ盾もない義教は、自らの政治力を必死で周囲にアピールします。そりゃ、籤引き将軍だからと後ろ指さされたくはないですものね。対立しそうな守護に対しては家督を挿げ替えさせるなど強引な介入を進め、公家に対しても所領没収、自分の古巣である比叡山の焼き討ちも行いました詳細はこちらの記事で)。「万人恐怖」と記録される時代の始まりです。

義教は、再度祖父の義満のような時代に戻そうとしていたのでしょう。足利義持が中止していた日明貿易も再開させています。

そんな、独裁改革派であった義教政権の中にあって、赤松満祐はいつ家督を挿げ替えられてもおかしくない前政権からの古株であり、危うい立場にいました。義教は、有力な守護を次々と誅殺していったため、命の危機を感じた満祐も病気という理由で出仕をやめ、実質的な家督を満祐の子の教康に譲ったのです。

が、うるさがたがいなくなったと感じた義教は、お気に入りであった赤松氏の庶流である赤松貞村に、満祐の弟・義雅の所領を没収して与えてしまったのです。せっかく静かに身を引いた赤松満祐は怒りました。

足利義教は、足利義持の時代に起こりぐちゃぐちゃになっていた関東情勢にも積極的に介入していました。幕府に反抗的な態度を取り続け、関東管領上杉氏と争い続けていた鎌倉公方・足利持氏を討ち果たすと、自らの子どもを新たな鎌倉公方に挿げようとしました。しかし、この専横に関東の武士団が反対。結城氏を中心に持氏の遺児を擁立し、永享12(1440)年、幕府に対し反乱を起こしました。これを「結城合戦」と言います。争いは半年以上続き、幕府軍の勝利に終わりました。

義教は上機嫌でした。

満祐の息子である教康は、この戦の祝勝会を開くとして義教を京の邸宅に招待します。そして、参加者が宴席で披露されている能に夢中になっている隙に、武装した赤松満祐らが突入。義教を殺害したのです。これが「嘉吉の乱」の始まりです。

主君を殺害したことで恨みを晴らした赤松一族は、将軍を殺した責任をとりそのまま一族郎党で切腹をする腹づもりでした。ところが、「万人恐怖」の時代でしたので京にいる他の守護も、幕府の奉公衆も「これだけ大それたことを行ったのなら、誰かが赤松軍に味方しているはず」と疑心暗鬼に駆られ、牽制しあって軍を動かすことができません。

赤松満祐・教康親子は、これ幸いにと、義教の首を掲げながら悠々と備前へ凱旋し、幕府に対して堂々と宣戦布告したのです。

この事件は、将軍権力が形骸化していたことを京にいたすべての人々へ見せつけました。なんといったって総大将を殺された室町幕府が赤松討伐軍を用意したのは事件の1ヶ月後のことであり、実際に赤松満祐が討伐されたのはさらに1ヶ月もかかったのです。

有力守護の多くが、室町幕府を見限りはじめました。幕府の固定収入のなかには守護出銭という、いわゆる献上銭があったのですが、わざわざ幕府なんぞのために金を用意するのは馬鹿らしいとこれが不定期化していきました。幕府はますます、京の商人や銭貸しからの献上銭で運営する組織になっていきました。

足利義政の政治スタンスに見捨てられた民衆

ここに登場したのが、室町幕府第8代将軍の足利義政です。

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↑足利義政

義政は、嘉吉の乱により殺害された足利義教の息子です。弟で第7代将軍・足利義勝は彼の同母弟にあたります。義政は嫡男ではないため、幼い頃に出家させられておりましたが、兄・義勝が早逝してしまったため、8歳の時に寺から呼び戻され、急遽将軍を継ぐことになりました。つまり殺された父・義教と似たような経歴です。

嘉吉の乱の失態は、幕府にもそして息子である義政にも苦い記憶として染み付いていたのでしょう。義政は将軍として親政を開始してからも、父のように専横に走ることなく、恨みを買わないように、側近たちの意見に従いながら政治を行いました。そのため、義政が自らの政策として大々的に何かを打ち出すことはほとんどありませんでした。

彼が積極的に行っていたのは家督相続で内紛を抱える守護家に対して、将軍の家督相続任命下知という形での介入でした。といってもこれも有力な側近の守護の言う通りに家督継承者を指名していたきらいがあります。政治の状況を見て、強くなりそうな方がどちらかを管領や政所と相談しながら決めているようで、義政の政治的な意思はあまり感じられません。

もっとも、芯の通った政治思想がない家督争いへの介入は、朝令暮改となりがちであり、これが様々な守護から恨みを買い応仁の乱の遠因となっていきます。

そんな義政政権の功績とあげて差し支えないのが幕府の財政改革です。徳政一揆が頻発するなか、一揆軍にも良い顔をしつつ、室町幕府のスポンサーでもある酒屋・土倉などの機嫌も窺わなければならない義政は、新たな税を構築しました。「分一銭徳政」です。

「分一銭徳政」とは、債権額ないし債務額の10分の1を幕府に納入すれば、債権の確認と保護、または債務の破棄を認めるものです。つまるところ、金を幕府に払ってくれたほうの味方をするよという宣言でした。当時の庶民は借金漬けでしたので、借金額の10%とはいえ積もると莫大な額となりました。さらに義政は寺院や諸大名の館への「御成」を頻繁に行います。「御成」とは、将軍が直に足を運ぶことを指します。将軍が訪れるわけですから、訪れられた先は贈答品を用意する必要があり、この際に受け取る贈答品を幕府財政に当てることで幕府財政を回復させようという戦略でした。この2つの収入により、義政政権は潤沢な資金を手にしました。

ですが義政はこうして手にしたお金を、内裏の修正や自らの屋敷の改築、文化事業への投資や、あるいは朝廷工作に使用します。あくまで将軍の暮らしや権威の強化が財政出動理由の上位にあり、幕府体制の強化や民政には目が向けられていませんでした。

こうなると悲惨なのが、一般民衆です。15世紀から16世紀というのは、地球環境が寒冷になった時期に当たっています。当然、農作物の収穫量が世界的に減少していたので、農村で餓死者が大量に発生していた時代です。農村が悲惨な状況だと、人々は食と職を求め都市に殺到しました。

が、京を治める幕府は機能不全を冒しており、貧民救済などを行える状態ではありませんでした。寛正2(1461)年に起きた寛正の大飢饉の際にも、足利義政が行ったことといえば流民に対し、粥をふるまったくらいでそれ以上の対策を行っていません。この飢饉では京だけで8万人を超える餓死者が出たと記録されています。埋葬しきれなかった遺体を鴨川のほとりに並べたところ、あまりにも数が多すぎて鴨川の水が堰き止められたという嘘か誠かわからない記録もあります。

民心は完全に、室町幕府から離れました。

応仁の乱の勃発により幕府が失ったものとは

その6年後、応仁元(1467)年。室町幕府の崩壊の始まりとなった「応仁の乱」が勃発します

この戦争は、義政がよく考えもせずに介入した畠山氏と斯波氏の家督争いに、細川家と山名家の権力争い、義政と弟・足利義視との仲違いから生じた将軍継嗣争いなど複雑怪奇な要素が絡み合った結果起こりました。

一応東軍と西軍に分かれて争っているのですが、情勢がころころ変わったため、総大将すら入れ替わる事態となっております。詳しくは、

こちらの本が、本当に!本当に!面白いので是非。

応仁の乱が、幕府に与えた衝撃は前期と後期で分けて考えるとわかりやすいかとおもいます。まず前期です。応仁の乱は11年間に及ぶ大戦ですが、京が主戦場となったのは最初の約2年だけです。ですが、この2年で京のほとんどが焼け落ちてしまいました。先述の通りこの頃の室町幕府の活動を支えていたのは、主に京の酒屋・土倉という貸金業者にかけられていた税および、これらの業者関係から上がってくる分一銭です。この酒屋・土倉が、戦によって焼け出されてしまいました。

つまり、幕府の収入源がなくなりました。

さらに第22回で解説しましたが、足利義満の時代に、圧力団体であった比叡山延暦寺の勢力を京から排除するため京五山寺制度が整備されました。それまで酒屋・土倉の背後にいたのは比叡山延暦寺の関連団体でしたが、京から比叡山延暦寺関連団体が追い出された後は、五山寺が金融業者の後ろ盾になっています。

この京五山寺も、当然のように焼失してしまいます。

幕府のもとへ派遣されていた五山の東班衆(経済官僚)も、物理的に本山が被害を受けたことにより各々の寺へと引き上げていき、幕府と五山寺の蜜月関係が自然と解消されてしまいました。間隙を突くように比叡山延暦寺の勢力が再度京へ進出してきます。足利義教の焼き討ちにより削がれた力を回復し、再び半独立国状態となりました。応仁の乱の終結後、酒屋・土倉の後ろ盾となったのは、比叡山延暦寺の勢力でした。

応仁の乱は最初こそ京を主戦場に行われていましたが、やがて市街戦で決着がつかないことがわかると京で陣を構えている守護の背後、すなわち領国を攻め落とし兵糧攻めを仕掛けることで京から撤収させる戦いへと変化していきます。これが応仁の乱の後期、すなわち戦の全国への拡大です。在京の守護は、領国の統治を室町幕府がその権威で保証してくれたからこそ、政治に集中していられたのですが、幕府が決して自分たちの領国を守ってくれないことがわかりました。そのため、戦後も領国に止まり自らの領地及びその一円を実力をもって統治しようとする動きが始まります。

守護大名から戦国大名への緩やかな変化の始まりです。

この動きにより、公家や寺社の荘園も守護大名の領国一円に組み込まれていき、荘園制度も崩壊していきます。領国を守るためなら、幕府の意思に背いてでも軍事行動を起こす守護が次々と現れたのです

こうして地方ごとや、あるいは寺領ごとの小さな独立国のようなものが日本全土に誕生しました。それぞれの領国では、経済状況も法律も守護によって異なります。となると、経済の状況も京阪神に合わせているわけにはいきませんでした。「撰銭」のルールも地方に合わせていく必要が生じます。日本の撰銭文化は、複雑化の一途を辿ることになったのです。


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