日本の公鋳貨幣14「渡来銭時代2」
前回はこちら
しれっとnoteも本名で始めましたので、いくつか仕事を宣伝しておこうと思います。こちらの漫画サイト「lomico」。ライター陣が数名集まって、昔の名作から最近の話題作まで手広く漫画を紹介するサイトなのですが、ここの編集をお手伝いしております。
時々サイトの色を増やすため他のライター陣と違う形で、少し古めの漫画の真面目な読み解き方をアップさせてもらっています。今回はセーラームーンネタで書きました。
ということで、宣伝終わり。以下本編になります。
平安末期の日本に訪れた世界滅亡ブーム
前回、中国の巨大商業国家・北宋が滅亡した事により使えなくなった大量の銭を日本人が輸入したことを書きました。今回はその続き。
どうして日本人は、中国で価値を失った中古銭を欲しがったかという疑問に対する回答です。
皇朝十二銭解説の後半、日本ではほとんど貨幣が用いられなくなったことは、皆さんが聞き飽きる程noteでも書かせていただきました。なので、いくら北宋の滅亡により中古の銭が大量に余り安く手に入ったとしても、日本で貨幣の需要がないのですから商人がこれらの銭を輸入する理由もないはずでした。
ですが、現実として日本は平安時代末期に大量に銭を輸入し始めます。
話は変わりますが、みなさんは1999年に世界が終わると信じていらっしゃいましたか? 私はノストラダムスの大予言ブームの世代とは少し離れているのですが、小さい頃は少し信じていました。今の若い方には信じられないかもしれませんが、「1999年に地球が滅亡する」というノストラダムスの大予言についての本が、ベストセラーになった時代がかつてあったのです。
実は平安時代末期も、この世界滅亡ブームが訪れています。しかもそれは、ノストラダムスの比ではないくらい、本気で信じられていたのです。そしてこの世界滅亡ブームが、日本の貨幣の輸入量の増加に大きく関係しているのです。
当時最先端の学問がもたらした大混乱
日本で起こった世界滅亡ブームの原因は何だったのでしょう。
すべては、仏教が日本全国へ広まりきったことが原因でした。実は仏教には、「釈迦の入滅後およそ1000年経つと、修行を行うものがいなくなり正しい教えが世から失われ混乱のときを迎える末法の世になる」という教えがありました(末法思想)。
そもそも釈迦が入滅した年がはっきりしていないので、いつから1000年間のカウントをするべきなのかもわからない適当な予言なのですが、平安時代末、日本の仏教寺院は釈尊入滅を壬申の年 (前 949) とし、この末法が始まる年を永承7 (1052) 年であるとしたのです。
そもそも末法思想というものは、末法の世にならないように気を引き締めて修行をしようというための教えと言う側面があります。当時、腐敗が始まっていた仏教界において具体的な末法年の数値目標を出して、修行に喝を入れようとしたのかもしれません。
が、この末法年と世の中の事象が数々の偶然の一致を生み出していきます。
末法年とされた1052 年のおよそ100年前の931〜947年。東日本と西日本でほとんど同時に承平天慶の乱という、武士による大規模な反乱が起こりました。平将門の乱と藤原純友の乱と言った方が通りがいいでしょうか。この事件は朝廷の権力の低下を人びとに見せつけることとなり、乱を皮切りに全国各地でさまざまな反乱が起こりました。朝廷での政治力に武士の武力が加わるようになり、日本全土で治安が急速に悪化していきます。
またこの混乱の中、独自の軍事力を持ち始めていた仏教寺院は全国へ荘園を拡大。金と権力にまみれた生臭坊主が増え始めます。それはまさに、修行を行う僧がいなくなる末法の世の訪れを予感するような出来事でした。
元々の末法思想では、世界の滅亡のことまでは語られておりません。ですが、末法思想の予言が語るような出来事が起きた後、日本では連日のように血が流れる日々がはじまったのです。
末法の年が近づくにつれ平安時代の人びとは「地獄」の到来を予感してしまったのでしょう。いまでこそ仏教は宗教ですが、当時の人びとの感覚で言うなら世界の真理を伝える最先端の学問です。その最先端の学問が予測した末法の世が、目に見える形で現れたのですから当時の人びとの絶望は大変なものとなりました。
来世での平穏を託すため必要となった貨幣
だからといって、権力を失った朝廷にこの世の中を安定させることができないということもまた、平安時代の人びとは知っていました。そこで彼らが願ったのが、来世での幸せで安全な生活でした。
↑Wikipedia…経筒より
上記の画像は、経筒と呼ばれているものになります。華道などをやっている方は花瓶の一種として認識されている方もいらっしゃるかもしれませんが、これは元々末法思想の流行した平安末期に流行した、お経を入れる入れ物でした。末法の到来を予感した平安時代の人びとは、自らの功徳を証明する写経を行い、末法の世が過ぎ去った後も残るよう装飾を施した経筒に納め地中に埋めることで、釈迦によりよい来世を願いました。
経筒の素材には陶製や石製もありますが、これらの素材では劣化してしまったり中に水が入るため、未来永劫まで自らの功徳を伝えることができないと考えられていました。そこで、できることなら金属製が好ましいとされました。ですが、金や銀をふんだんに使える人は限られますし鉄ではすぐ劣化してしまいます。目を付けられた金属が銅でした。
ところが皇朝十二銭の後半で解説した通り、日本国内では平安時代中期以降、深刻な銅不足に見舞われています。国家として貨幣の鋳造事業が終わったため、新規の銅山の開発もほとんど行われていませんでした。来世に希望を託すため経筒を作りたい人は山のようにいるのに、肝心の銅がなかったのです。
……いや、ありました。
中国大陸に、北宋の滅亡によって余っていた大量の銅銭があったのです! 経筒の成分分析は全国各地で行われておりますが、その結果かなりの割合で宋銭の銅組成に近いことが判明しています。日本人は、末法の世を乗り越える経筒をつくるために銅銭を輸入し始めたのと考えられるです。
これは私感ですが、北宋銭に対して南宋銭の出土量が日本で極端に少ないことも、経筒のための銅銭輸入説を後押しする証拠になると考えております。南宋は常に戦時体制にあったため、紙幣に頼り始めたことは前回触れましたが、銭も一応発行しています。とはいえ、北宋ほど銅銭の大量発行は行えておらず、その多くは品位の下がった折二銭(大型の1枚2文相当の銭)となっていましたし、結果として南宋のメインとなる一文銭は鉄製となっていました。熔解して経筒としてに再鋳造することが中国銭輸入の理由ならば、南宋銭の需要が低くなるのは当然の流れではないでしょうか。
仏教と北宋銭の関連を示す話題はことかきません。時代は少し下りますが建長4(1252)年、現在の鎌倉市に金属製の大仏、いわゆる「鎌倉大仏」が建立されました。
この大仏も金属組成分析の結果、北宋銭に極めて近い銅が用いられていることが判明しており、現在の定説では、北宋銭を熔解して作ったものであるとされています。
全国的な銅需要と末法思想ブームに、利に聡い貿易商人が目を付けないわけがありません。こうして平安時代末、具体的に言うならば11世紀ごろから急激に日本への北宋銭の輸入が増えていったのです。
そして、国内の銅銭需要に目をつけた人物がもう一名いました。
次回は、その人物の話と、その人物の手により再び日本に貨幣経済が定着していった様子を紹介します。
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