大河ドラマからみる日本貨幣史外伝『比叡山の身分構造と覚恕様の立場』

延暦寺の記事は本当に閲覧数が伸びる……。

京都側からものぼる事が出来ますのでコロナが落ち着いたら皆さん是非もっと延暦寺へ行ってみてください。1000年以上も続いてきた聖地のあの雰囲気は、登る事でしか感じる事ができないですよ。

今回も延暦寺関係のネタです。まあ、日本の中世貨幣史・金融史を語る上では絶対に外せない存在なので仕方がないです。決して閲覧数のためではありません。

『麒麟がくる』の劇中で、覚恕様が務めていた天台座主という役職は、天台宗のトップであり、比叡山すべての堂宇のトップであることを示す称号です。同時代に急激に勢力を伸ばした浄土真宗は、宗主が世襲だったのに対して、延暦寺は一応選挙制でした。一応というのは、家柄など、最初から座主になるために寺へ送り込まれたような人も多くいるからです。

仏様が悟りを開くまでの段階によって名前や位が変わるのですから、僧侶にも当然修行の段階によって階級があります。延暦寺の僧侶にも古くから階級制度が敷かれていました。

そもそも延暦寺といいますが、実際に延暦寺という名前の寺はありません。比叡山の山中にあつまった寺を大きく東塔、西塔、横川の三地域に所属するものでわけ、これを「三塔十六谷」というひとつの団体とみなしたものが、延暦寺です。この三塔十六谷の制が確立したのは十世紀末ころと言われています。

11世紀には、家督継承争いの火種となりそうな皇族や貴族の子弟が延暦寺内のいずれかの寺に預けられ、院坊を構えて居住するようになります。京の権力争いからは外された身とはいえ、高貴な血筋の方がたですので、彼らは延暦寺内に厚待遇をもって迎え入れられ、やがて、比叡山の中には彼らの院坊を中心とした門跡(派閥と考えてOK)が形成されました。『麒麟がくる』が描く時代には、おもに五つの大門跡に小寺がそれぞれ属して、山内で派閥争いをしています。

浅井・朝倉連合軍が頭を下げて援軍を求める位ですから、比叡山は相当の軍勢を保有しています。『源平盛衰記』によると、平安末には、比叡山全体で学生2000人、堂衆(寺で働く下級僧侶)3000人の僧侶の在籍が記録されており。彼らの護衛として加えて3000〜4000人の僧兵が、山内にこもっていたと考えられています。麓の一般人も含めると実際の総兵力は数万とも言われています。比叡山全体が、室町時代にはすでに要塞化しておりますので、単純に、浅井朝倉連合軍+比叡山の僧兵を相手にするのは、大変だったのでしょう。

これだけの数の僧侶を秩序立てていたのが、比叡山内でのみ通用する身分制度です。比叡山の僧侶はおおざっぱに、上方>中方>下僧の三階級に分けられていました。

「上方」は、学生や学匠、学侶で構成されています。上方もさらに衆徒・山徒・寺家執当・四至内に区分されておりますが、まあ、細かい職責はそれほど覚えなくても大丈夫です。衆徒とそれ以外くらいだけ覚えておきましょう。上方の身分の人びとは、本来すべて比叡山の山上の僧房で暮らしており仏教研究と修行に明け暮れる「清僧」たちでした。ですが、鎌倉時代以降、上方のなかでも仏教研究を行わない人が出てきましたので、学問を専門に行う衆徒と、それ以外の山徒・寺家執当・四至内と分けられました。

衆徒に属する僧のほとんどは貴族・皇族の子弟で、幼くして山へ預けられた人です。覚恕様も、4歳のころに山へ預けられています。ドラマでは金にがめつく醜い男のように描かれていますが、彼は本来「清僧」に分類される人ですので、政治的なことにはあまり口を出すことはなかったはずです。

衆徒の人たちの最大の特徴は、実績や器量に応じて、昇進していく道があったことでした。この昇進で最上位の位まで上り詰める事ができれば、天台座主への途が開けます。座主になれば、寝てるだけで食っていけますが、座主は細かい規定や、最終的に天皇と将軍による認可が必要となるため、朝廷政治力勝負となってきます。

衆徒よりも身分が下とされた山徒はといいますと、中世以降、堕落して妻帯するようになった破戒僧のことを指します。座主へは基本的になれません。彼らは破戒僧ではあるのですが、衆徒の生活を守ることを第一目標として生活しておりますので、まだ坊主としての矜持は守っております。

山徒の頭目を「使節」と呼びます。文字通り公家や武家との間を往来し、比叡山代表として実際に外交交渉を行うことを主な業務としていました。護正院、南岸坊、金輪院、杉生坊、円明院が代々その役割を世襲しています。使節と言えば聞こえはいいですが、この中には、仏の権威を笠に着た要するに強訴も含まれています。つまり山徒寺院が僧兵を実際に集めてかこっていた寺であり、中世以降の山徒は、比叡山の中にいた国衆や大名のようなものとみて間違いありません。基本的に、中世日本のネックとなっていたのは、この山徒階層の僧侶です。

『多聞院日記』には「修学を怠り、一山相果てるような有様であった」と記され、『信長公記』には「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」と書かれています。

上方の階層に入れなかった中方階層の僧侶は「堂衆」ともいいます。彼らは衆徒に召使いや侍として仕えていた人が起こした一団です。元々衆徒に仕えていた一族とはいえ、階層差が大きくなった中世以降は、衆徒の僧侶と直接やりとりを行うことはありません。彼らの主な役割は、山徒の行う軍事行動や貸金業務の実働部隊です。どちらも宗教的な修行とはかけ離れていますので、僧侶としての体裁はなしていないのですが、元々祖先が上方直属の召使いであったことを誇りに生きているため、山に入りたての学生僧などには威丈高に振る舞い、度々比叡山内で刀傷沙汰を起こしました。

上方層がヤクザの組長身分なら、中方の「堂衆」は、構成員です。最後の下方ですが、これは俗に「法師」などと言われる、仏法をかじった程度の人びとで、基本的に皆妻帯者です。寺の修理や掃除から、暴力沙汰の鉄砲玉までこなす、要はチンピラです。法師などと読んでおりますが、ほとんど経典を読むことも出来ないレベルでした。というのも、下方身分の人というのは、辿っていけば農家が口減らしのため寺に預けた子どもや、拾ってきた捨て子などから派生していく一族だからです。

以上が、中世の比叡山延暦寺の構成員の実態です。こうして見れば分かる通り、比叡山は、市井の人びとよりも厳しい身分区別にさらされていました。彼らはいみじくも僧を名乗っており出家した体をとっているため、比叡山を遠くはなれての活動は行えません。そこで、利用していたのが、前回も紹介した日吉神社の神人です。彼らは比叡山延暦寺のために、京や地方の都市へ行き、借金の営業やら、商売を行っていました。

さてさて、ドラマでは典型的な悪役として描かれていた覚恕様ですが、彼は中世延暦寺において数少ない清僧です。良くも悪くも古い延暦寺のシステムのなかで担がれた人間であり、座主として下々の生活を護ることは意識されていたでしょう。が、それほど能動的に銭金のことを考えていたかというと、疑問が残ります。

例えば、同じ巨大寺社勢力のひとつである興福寺多門院では、「多門院日記」という寺の雑務をトップ自らが記録した日記が残っているのですが、これ、読んでいるとかなり銭金のことばかり書かれており……。対して覚恕様が現代に残した史料といえば「真如堂供養弥陀表白」「金曼表白」といった仏教ものや、和歌・連歌集である「覚恕百首」など、文化的なものばかり。

やはり、延暦寺の清僧というのは、浮世離れしていたと考えた方が自然なように思います。

さらにいうなら、覚恕様は、本来政治的な理由でなれるはずのなかった天台座主の座に、兄と将軍の口添えで就いており、延暦寺焼き討ちの当日も、兄・正親町天皇に相談しに訪れています。どうも、ドラマのように兄弟仲が険悪であったということもなく、とてもできた人間であった可能性が高い……。

もし、覚恕様が理想的な天台座主だとしたら……。山徒から比叡山の荘園が侵略されていると連絡を受ければ、山に暮らす僧侶の暮らしを護るために、座主として信長に楯突くでしょう。足利義教の時代には、座主としての態度をきめかねた結果山徒からそっぽを向かれた先達もいたわけですし、信長への回答を行わない(清僧は下界・政界の出来事に極力関わらない)、山で修行する僧侶の暮らしを護るというふたつは、覚恕様の取るべき手段として極めて正しいのです。

覚恕様は、しっかり焼き討ちを受けた責任を取っての座主辞任を宣言しておりますし、私は、彼は立派な天台座主だったのではと思っているのですが皆さんはどう、思われますか?

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