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大河ドラマから見る日本貨幣史20『矢銭2万貫で大もうけした今井宗久と大損した信長』

姉川の合戦を一週間で済ませ、いよいよ次回は延暦寺の焼き討ちへと入っていくわけですね……!しかし、三十二話『反撃の二百挺』で、今井宗久が開催した茶会の客人の大物っぷりが凄かったですね。千宗易(利休)・油屋常琢・津田宗及……堺の会合衆のトップがずらずらと並んでおりました。

駒ちゃんの浮きっぷりですよっw

堺の会合衆とは、堺の独立自治を主導する豪商からなる議会であることは、教科書などにも紹介されえているのでご存知の方も多いかと思います。が、本来の意味は寺の集会に集まる人びとを指し、ものすごくざっくりというならば、有力檀家さんの集まりなのです。

堺の会合衆が信仰していた寺とはどこなのでしょう?堺だから石山本願寺と思われるかもしれませんが、これは堺区甲斐町にかつて存在していた神仏習合の寺・開口神社(当時は三村社)です。会合衆は、この神社(寺)に集まり、堺の自治会議や茶会を開いていました。堺の人びとのこの社に対する信仰は非常に深く、天文4(1535)年に築地塀の修理の寄進を募った所、114貫文(約1710万円)があっという間に集まっています。

ちなみに、私が学生だった頃は会合衆は「えごうしゅう」と読んでいましたが、最近では「かいごうしゅう」と読むようになっています。また、かつては会合衆は36人と言われており、少し古い堺市関連のHPなどにはいまだにこの記載もありますが、このほとんどはインフラ工事などを請け負っていた業者で、実際に政治を動かしていた真の会合衆はトップ10人の豪商・即ち、織田政権成立後に呼び出されている紅屋宗陽・塩屋宗悦・今井宗久・茜屋宗左・山上宗二・松江隆仙・高三隆世・千宗易(利休)・油屋常琢・津田宗及であることが確定しています。

この10人のなかでもっとも有名なのは、やはり千宗易(利休)でしょう。が、彼はこのなかで最も若く、この時代ではまだまだペーぺーです。実はドラマ内の時代でもっとも力を持っていたのは……やはり今井宗久です。一介の鉄砲業者のような描かれ方をしていますが、この時代にまで来ると鉄砲は国友、根来、薩摩、豊後など各地で盛んに生産が開始されています。実は彼の財力の源は鉄砲ではありません。宗久の財力の源は、この時代国内では生産できなかった『硝石(鉄砲の火薬の原料)』の輸入独占に成功したことでした。おまけに、誰よりも早く堺での鉄砲の生産を行い火薬との抱き合わせ販売を成功させています。

独占販売なんてかましらたら、堺の他の商人から総スカンを暗いそうですが、宗久には堺の商人の中でトップを張れるだけの後ろ盾もありました。宗久は元々大和の生まれで、堺に出てきてからは一介の丁稚奉公にしか過ぎません。ですが、彼は丁稚奉公時代に「茶の湯」と出会います。戦国時代の茶の湯は今のような伝統的な茶道ではなく、まったく新しい文化・教養です。なので、身分の貴賤を問わず様々な人びとが興味本位に手を染め、茶を通じて交流していました。

宗久はこれを利用して、とんでもない人物に弟子入りして茶を習いました。その人物は武野紹鷗。元々は皮革製品を扱う商人、いわゆる賤民であったにもかかわらず、事業に成功し莫大な富を形成。さらに、学問に明るかったため、貴族である三条西実隆と和歌の交流まであったという人物です。当時の堺の会合衆トップであり、村田珠光の「侘び茶」思想を完成させた人物としても知られています。現在の茶道に連なる千利休だって、武野紹鷗の弟子のひとりに過ぎません。

宗久はこの武野紹鷗にいたく気に入られ、一番弟子となっただけではなく、なんと婿入りまでしてしまうのです。当然紹鷗の隠居後は彼の財産からその名声まで一切合切を引き継ぐ事となりました。これの何が凄いかというと、当代一の茶人である武野紹鷗の門弟には、三好家をはじめ有力大名が多数ひしめいているのです。婿入りによって茶の湯の世界において今井宗久は、大名を凌ぐ権威を手に入れた事になります。

紹鷗から商売を引き継いだ宗久は、仕事の手を抜く事なく、師匠から受け継いだ自分の権威を保持することに務めます。まず、賎業とされてきた皮革問屋からは足を荒い、薬種問屋の有徳人であろうと務めました。(薬種問屋を開いた伝手が、初期の火薬独占にも繋がっています。火薬も薬ですから……)。さらに手にした財貨を、惜しみなく寺社に寄進し、周囲にアピールしました。詫び茶の提唱者村田珠光が参禅し、紹鷗も参禅した京都の大徳院に一括で170貫(約2550万円)の銭を寄進し、自身もこの寺で剃髪します。ドラマの中で今井宗久はふさふさですが、あの時代はすでに坊主頭であったはずです!

永禄11(1568)年に信長が足利義昭を連れて上洛した際には、堺の誰よりも早く、信長の元を訪れ献金を行っています。この功績で足利義昭から直々には大蔵卿法印という、幕府の金蔵を預かる僧侶の位を得ています。政所執事の摂津晴門などより、よほど実質的な幕府の財政を預かる身分になっていたと考えられます。

さらにいうなら、三十二話劇中で木下藤吉郎から、「矢銭(軍事費)2万貫(約30億円)の徴収について恨んでいるのか?」と聞かれている場面がありましたが、恨むどころかむしろ宗久は喜んで応じていた可能性が高い。彼は信長に協力した事で、なんと堺に領地を与えられており、会合衆のなかで圧倒的な地位を得る事に成功しているのです。さらにこの後も信長に協力する事で、堺の魚介類取り扱いの特権や淀川水運の関税の免除、但馬銀山の開発権などを手に入れています。

彼の堺での天下は、秀吉政権になって千利休が重用されるまで続く事になります。

ところで信長は、どうして上洛してすぐに堺に2万貫もの矢銭を課したのでしょう?実はこの事について作家の橋場日月さんがかつて面白い計算をしております。

岐阜を平定してすぐに行われた信長の上洛戦は、約6万人の軍勢を率い50日間かかっています。当時、戦争に参加する兵は、最初の3日分の食料は持参するという決まりがあるため、信長が用意した兵糧は47日分です。

江戸時代初期に書かれた『雑兵物語』によると、一日当たり兵に渡される食料は米6合となっているため、

60000人×47日×6合=1692万合=1万6920石

の兵糧を最低でも用意する必要がありました。この年の12月の奈良の米価は記録によると、1石が丁度500文。即ち、兵糧を購入するのに必要なお金が8460貫(約12億7000万円)です。さらに、これは米だけの価格ですので、味噌や塩など副菜を用意するとなると、少なくとも食料だけで1万貫は費やしたでしょう。さらに、上洛後、信長は義昭のために二条城を改修していますがこの建築費がざっと2万貫以上と言われております。

元々、織田家の本拠地である尾張は、湊のおかげで莫大な蓄財がありましたが、総力戦となった美濃攻めは足かけ6年もかかっている大遠征でした。当然、莫大な出費だったでしょう。もしかしたら蓄財がほとんど無くなる程度には……。しかも、一回目の収穫期を迎えないまま上洛戦を始めてしまっています。

つまり、京都について3万貫支払った段階で、織田家の金蔵は空っぽになっている可能性があるというのです。堺への2万貫は、二条城の建築費と合致するのは偶然ではない、と仰るのです。

実際それを裏付けるようなエピソードはあります。上洛後信長は、正親町天皇の子・誠仁親王の元服費用300貫を立て替えていますが、これが「すべて鐚銭」であったため、300貫に足りずに、費用が支払えず誠仁親王が困っているのです。

もしかしたら、織田信長の天下統一事業は、我々が予想する以上に自転車操業だったのかもしれません。

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