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大河ドラマから見る日本貨幣史17『欠銭と明』

しばらく、投稿をさぼっておりました。コロナ禍にあって、仕事が増えるのはいいことなのでしょうが、個人的にはここで自由に文章を書く時間が唯一の癒しなので本当に……。

さて、今回は欠銭のお話です。

劇中で三好一党が朝廷への献上金として用意した銭は質が悪いと近衛前久が愚痴るシーンがありました。あの時、前久が手にしていた銭は欠けてしまっていました。そう、ちょうどこんな風に。

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このような銭を欠銭(かけぜに)と言います。

以前ちらりと、戦国時代は鐚銭を用いていたという話はしたかと思います。もう一度ざっくりとおさらいすると、戦国時代には日本国内に貨幣を鋳造・発行する機関は存在しませんでした。そのため、当時の人々は

①=中国から輸入した中古の銭(種類は何でもいい)

②=奈良・平安時代に朝廷が発行した銭(和同開珎など)

③=①②を国内の業者が模造した銭

の3種類を、ごちゃ混ぜにして使っていました。当時の日本の商取引のルールでは、銭の形をしていれば「例え文字が書いていなくても」1文という価格設定でしたので、これで問題はありませんでした。

が、当然中古の銭や、民間人が質の悪い銅をつかって模造した銭ですので、品質は非常に悪いです。やがて、元の銭が何だったのかも判然としないような銭が流通するようになっていきます。いわゆる鐚銭というやつです。心情的な問題もあって鐚銭は1文以下の価値として嫌われていきます。

鐚銭はまだましなほうです。新品の銭は決して入ってこないため、銭はさらにボロボロとなり、やがて劇中で登場したような欠銭が混じるようになります。こうなると、当時の日本国内の貨幣の大前提である「銭の形」をしているすら守られていないわけですから、本来は流通すらしなさそうなものですが……。実際の所これらはさらに価格の低い銭として流通をしていました。

ちなみに、このように銭貨の流通状況が悪化し、商取引に支障をきたす状態を「銭荒」と言ったりします。なぜ、ここまで国内で銭荒がすすんだのでしょうか。

それは①の中国の事情が大きく関与しています。

室町時代から戦国時代にかけての中国の王朝は「明」と言います。初代皇帝は朱元璋。またの名を洪武帝と言います。

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中国本土からモンゴル人帝国の「元」を追放した朱元璋ですが、貨幣制度は元の制度を模倣しました。銀本位制です。

元は人類史上最大の国土を誇った国家・モンゴル帝国の東域です。なので、東アジアのみではなく、アラブや東ヨーロッパまでを国土と考えても問題はありませんでした。

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↑モンゴル帝国の最大領域

そのため、帝国内で暮らす人は、言葉や文化がまるで異なりました。モンゴル人は、これら広大な領域であらゆる人種が納得する交易の媒介として、銀を貨幣とすることを考えました。ですが、中国から東ヨーロッパまで銀を持ち運ぶ負担は並大抵のことではありません。そこで、「これを銀行に持ち込めば銀●gと交換します」と書かれた紙を発行しました。いわゆる「兌換紙幣」です。

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↑元の紙幣「至元通行交鈔」と原版。額面は2貫(銭2000枚と同額)。漢字以外にパスパ文字も記されているほか、2貫文の銭のイラストで様々な人種がみても価値がわかるようになっている。。

兌換紙幣が面白いのは、取引実績さえ積み上げれば、人々はやがて紙幣をいちいち銀に交換しなくなるということです。銀行に行くのがめんどくさいのは今も昔も一緒ですから。こうして交換されることなく蓄積されていく銀の地金が、元及びモンゴル帝国の財政を支えました。やがて元は、銭のような小額の貨幣も紙幣で補うようになります。いや、むしろ、小額であればあるほど紙幣を用いたのが元の特徴でした。

この制度を受け継いだということですから、明も当然、小額貨幣含めた兌換紙幣の発行に力を入れました。すなわち、銭をあまり発行していなかったのです。中古の銭を輸入しようにも、そもそも中国で銭をつくっていないということは、当時の日本にとって大きな痛手となりました。

明の手法が優れていたのは、納税には銀が指定されていたことです。建国当初、当座の資金工面のために大量に発行した紙幣はやがて価値が下落し機能しなくなります。ですがその時点で、明の国庫には徴税により全国から集められた銀が大量にたまっていました。明は紙幣の通用の限界をみた15世紀半ばの時点で、ようやく銭を発行し始めたのです。とはいえ、やはり銭の生産数は歴代王朝と比較しても極端に少ないです。

こうなると何が起こるかというと、中国国内では貴重品となった銭の価格が上昇し、溢れかえった銀の価格が下落します。中国は当時、東アジア全域の造幣工場の役割もありましたので、銭を海外へ輸出することも産業でした。なので、どれだけ国内で銭が使えないとなっても、輸出業者の間で銭への需要はありました。

これは、日本の輸入業者にとっては大きな問題です。銭価格が高ければ利益率は下がります。輸入業者たちは、利益率の低い銭を輸入するより、利益率の高い唐物と呼ばれるような茶器の輸入に腐心しました。むしろ、日本からは銭を輸出までしています。

さらにもうひとつ、明国内の政治的な事情も銭不足に拍車をかけます。初代皇帝の朱元璋は、中国の豊臣秀吉とでもいうような人物で、貧農から軍事力でなりあがってきました。そのため、政治的な基盤など持ち合わせておらず、帝国と自らの一族の安定のためかなり大規模な粛清を行いました。このことが方々で恨みを買ったのか、頻繁に明の内部では反乱が発生していました。

反乱鎮圧には当然費用がかかります。この費用をどこから捻出するかという話になったとき、目をつけられたのが貿易でした。東アジアの伝統貿易では、貿易の際必ず周辺国は中国の皇帝に贈り物を献上し、皇帝はこれに対して自腹で送られた品以上の金額の返礼品を下賜しなければなりませんでした。(朝貢貿易)。この行為には、中国が世界の中心であることを周辺国に見せつける意味合いがありました。が、この額がかなり大きい。もちろん下賜する以外に、朝貢使節の派遣と同時に民間人が行う貿易により明としてもメリットはあったのですが、民間人は直接軍事費を払ってくれません。

ついに明は、財政支出を抑えるため、貿易の回数を制限しはじめます。日本でいう勘合貿易というやつです。ただでさえ貿易の回数が限られているのに、巨大な利益を生む唐物を買わずに、わざわざ儲けの少ない銭を輸入する商人はいません。こうして日本国内の銭はどんどん不足していき、ついには「欠銭」のような破棄するべき品まで使わなければならなくなったのです。

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