見出し画像

日本の公鋳貨幣4『神功開宝』

前回はこちら

利益を度外視で急造された奈良時代3番目の銅銭

天平神護元(765)年、絶対権力者として君臨した藤原仲麻呂が発行した「万年通宝」「開基勝宝」「太平元宝」は突如廃止され、新たな貨幣「神功開宝」が発行されました。奈良時代を代表する仲麻呂肝いりの3貨幣はわずか5年間で廃止されることとなったわけです。

「神功開宝」は、直径や銅の質などは殆ど「万年通宝」と同じであり、価格も万年通宝と同額。そのためわざわざ銭銘を変えて新銭を発行することに朝廷としてのメリットがありませんでした。むしろ、せっかくつくった万年通宝の型を使用できなくなる訳ですから、余分なコスト増であったはずです。

画像1

この貨幣切り替えを理解する為には、敢えて第3で触れなかった藤原仲麻呂の権力を得るまでの過程を知る必要があります。今回は、藤原仲麻呂という男の成り上がりと、その没落を眺めながら神功開宝発行のよもやまを解説していきたいと思います。

不幸が重なり政争に敗れた藤原仲麻呂

学校で習う歴史では、突然朝廷を牛耳る貴族として藤原氏という名前が登場したという印象をもっている人も多いでしょう。これは、中大兄皇子とともに乙巳の変を起こし蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足が、突然藤原に改姓したことによる混乱です。奈良・平安時代を代表する貴族藤原氏とは、中臣鎌足の直系の子孫に当たる一族です。仲麻呂は慶雲3(706)年に、後に藤原南家始祖と呼ばれる事になる藤原武智麻呂の息子として生まれました。血統的には、中臣鎌足のひ孫に当たります。

幼い頃より聡明で知られた仲麻呂は、左大臣を務める父の跡を継ぎ朝廷の中心人物となることを期待されていました。順調に昇進を重ねた仲麻呂でしたが、天平9(737)年、朝廷内で天然痘が流行しその前途に暗雲が立ちこめます。当時、朝廷を動かしていたのは父の武智麻呂ならびに、叔父の藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂の藤原四兄弟でした。この四人が、相次いで天然痘に罹患し死んでしまったのです。朝廷内における藤原氏の権力は大きく後退しました。

代わりに勢力を伸ばしたのが橘諸兄でした。諸兄は、聖武天皇の妻である光明皇后の異父兄でした。この光明皇后という人物は藤原氏の一族です。仲麻呂にとっては叔母に当たる人物でしたが、政治経験の差で仲麻呂ではなく諸兄に政権を担わせたのでしょう。こうして政務を司る貴族に藤原直径の血筋がほぼいなくなりました。仲麻呂は諸兄に強いライバル心を抱く事となったのです。


画像2

↑『前賢故実』より橘諸兄

諸兄政権下で着実に力をつける

仲麻呂の暗い嫉妬心の事を知ってか知らずか、諸兄は有能な仲麻呂を重用しました。仲麻呂は経営や財務で順調に成果を上げ出世をし続けました。そして天平18(746)年、式部卿の就任をきっかけに行動を起こし始めます。式部卿は官吏の選叙と考課を握る官職でした。仲麻呂はこの役職を利用して、自らの息のかかったものを優先して叙勲することで派閥を形成し諸兄政権に対抗しはじめました。

聖武天皇は諸兄と仲麻呂双方の才能をうまく使いこなしていましたが、このころ光明皇后は兄である諸兄よりも甥の仲麻呂をかわいがるようになったようです。これはやむを得ないかと思う所もあります。彼女と聖武天皇の間には男子が生まれませんでした。折悪く有力な皇族男子もいなかった為、皇太子には二人の娘である阿部内親王が選ばれました。ただでさえ、女帝ということで即位後は苦労も多いはずですから、光明皇后はなるべく年の近い相談役をつけようとしました。諸兄より若い仲麻呂を重用するのは自然な流れだったのでしょう。

そして、仲麻呂はこの光明皇后の寵愛を最大限に活用しました。

天平勝宝元(749)年、聖武天皇は阿部内親王に譲位をし自らは出家して東大寺大仏の建立に注力するようになりました。内政は新たに即位した孝謙天皇(阿部内親王)と彼女の後見人である光明皇后が行いました。親子が頼ったのは、仲麻呂でした。仲麻呂は橘諸兄を差し置いて政治の中心へと躍り出ました。

天平勝宝8(756)年、橘諸兄が朝廷を誹謗したという密告がされました。誰が密告したのかは不明のままでしたが、この密告を恥じて諸兄は左大臣を辞職しました。密告は仲麻呂の謀略であったとの説もあります。時を同じくして、聖武上皇が亡くなりました。光明皇后と孝謙天皇は仲麻呂を信頼しています。彼の政敵たる存在はいなくなりました。

聖武上皇は遺詔として道祖王の立太子を指示していました。ですが、道祖王は素行に問題があるとして孝謙天皇により廃嫡され、大炊王が皇太子に推薦されました。この人選にも、深く仲麻呂が関与していたと言われています。道祖王は仲麻呂と結びつきがありませんでしたが、大炊王は仲麻呂の亡くなった長男の妻を娶っており、彼の影響下にある人物でした。

天平宝字2(758)年、孝謙天皇は予定通り皇位を大炊王へ譲り、大炊王は淳仁天皇となります。もちろん若い天皇に代わって政治の実権を握ったのは仲麻呂でした。このときの仲麻呂がどれだけ強大な権勢を誇っていたかについては、第3回を見ていただければ分かるかと思います。こうして藤原氏は再び朝廷の中心勢力へと躍り出ました。

孝謙上皇と対立しあっけなく滅亡する


ですが、仲麻呂の権勢は思いもよらない所から現れたライバルによってあっけなく瓦解しました。仲麻呂の権力の裏付けとなっていたのは、光明皇后と孝謙上皇という母娘でした。ですが、この母娘の仲が悪化していったのです。

若い頃から皇后として、聖武天皇の補佐をする事をよしとしていた光明皇太后と、自ら天皇として仲麻呂とともに政務を指揮した孝謙上皇では政治に対する熱意が異なりました。なので孝謙上皇は淳仁天皇へ皇位を譲った後も、政治に口を出すようになっていきました。

それでも光明が生きている間は、光明の顔を立てつつ、淳仁・仲麻呂政権の補助となるように立ち居振る舞っていたのですが、天平宝字4(760)年に光明皇太后が亡くなるとたがが外れてしまいました。淳仁政権と明確に対立姿勢を示すようになったのです

仲麻呂にとって、光明亡き後自らの権力の社会的な後ろ盾は孝謙上皇でしたが、立場上は淳仁天皇の臣下であるため両者の対立には頭を痛めました。そこで、孝謙と淳仁双方に顔が利いた自らの妻・藤原宇比良古を派遣し再三、両者の仲を取り持とうと工作しました。が、うまくはいきませんでした。

極めつけは天平宝字5(761)年の孝謙の病でした。床に臥せった孝謙は、彼女の枕元で病気平癒を願い、看病と祈祷を行った僧・弓削道鏡を寵愛し始めたのです。道鏡の登場により淳仁の下にいる仲麻呂は軽視されるようになりました。やがて孝謙上皇は道鏡に政治的な権限も与え始め、孝謙派の中で仲麻呂の立つ瀬は浸食されていきました。孝謙上皇の道鏡の重用は度が過ぎた所もあり、両者は恋愛関係にあったという説が囁かれるほどです。

仲麻呂は焦り始めます。後ろ盾である孝謙上皇の信任が、ぽっと出の僧侶に奪われてしまったのです。「僧侶が政に携わる等前例がない、すぐに道鏡を排除するように」と淳仁天皇を通じて孝謙上皇を諌めますが、孝謙はすでに道鏡に絶大な信頼を置いており、この諌訴を行った淳仁天皇・仲麻呂に対して激しい怒りをぶつけました。彼女はついには

「今の帝(淳仁天皇)は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕(孝謙上皇)が行う」

と宣告し、近江の保良宮に立てこもると別の朝廷を立ててしまったのです。タイミングの悪い事に仲麻呂が彼女の機嫌を取ろうにもパイプ役となっていた宇比良古は天平宝字6(762)年に急死してしまっていました。そうこうしているうちに道鏡は孝謙上皇の独断により少僧都という日本仏教の人事権を握る朝廷の役職へ任命されてしまったのです。人事権の恐ろしさを、自身がそれで成り上がってきた仲麻呂がよく知っていました。仲麻呂はついに、軍事力をもって孝謙上皇と道鏡を排除しようと考えるようになりました。

ところがこの軍事クーデターは、密告者により実行前に孝謙の耳に入ってしまいます。天平宝字8(764)年、孝謙は逆賊として仲麻呂の討伐を命じ、栄華を誇った仲麻呂の一族は悉く殺されました。天皇にも迫らんとしていた藤原仲麻呂のあまりにもあっけない最期でした。(恵美押勝の乱)

この乱ののち孝謙上皇暗殺計画を後押ししたとされた淳仁天皇も廃位されました。彼の跡は孝謙天皇が重祚(一度退位した天皇が再び皇位に就く事)し、称徳天皇を名乗ることで継ぎました。称徳天皇と道鏡による独裁政権が始まりました。

仲麻呂の功績を物理的に排除しようとした称徳政権

孝謙改め称徳天皇は、即位すると同時に自らに反逆した仲麻呂の政策を悉く否定し廃止しました。この一環で、発行されたばかりの「万年通宝」「太平元宝」「開基勝宝」の3銭は廃止されたとされています。とはいえ、古くぼろぼろになっていた和同開珎にかわる新銭は必要でした。そこで急造されたのが「神功開宝」です。

新銭ではありましたが、万年通宝の代わりに発行したため価格設定は万年通宝と同じ和同開珎の10倍でした。朝廷、とくに貨幣の鋳造を担当する役所である鋳銭司としては万年通宝のままでいてほしかったでしょうが、称徳天皇は万年通宝の廃止にこだわりました。彼女の仲麻呂に対する憎悪がこの銭銘変更から透けて見えてきます。

本貨は急遽の発行であったため、「万年通宝を回収する」あるいは「三価を併行通用する場合の価格を設定する」といった手順を踏んでいません。結果、この時代は「和同開珎」「万年通宝」「神功開宝」の三種類の銅銭が併用され、銅銭の価値を巡る混乱が生じました。朝廷が、改めてこの三種類の銅銭の使用方法を「万年通宝1枚=神功開宝1枚=和同開珎10枚」に設定したのは宝亀3(772)年のことで仲麻呂の死から8年後です。いかに政情が不安定だったかがわかります。

不安定の理由は、もちろん称徳天皇と道鏡の独裁政権です。

仲麻呂を排除した称徳は、元号を天平神護と改元します。彼女はその政権運営のなかで、最も大事な次期皇太子の指名を行わず道鏡の身分を上げることに執心しました。当然、古くからの貴族はこれに反発をもちますが、仲麻呂の殺害を見たばかりですからこの異例の出世に誰も文句を言えませんでした。

天平神護2(766)年、称徳は「法王」という日本仏教の最高位という新身分をつくります。もちろん初代法王として就任したのは道鏡です。こうして称徳・道鏡の二頭政治体制が完成しました。この政権の特徴は、予算を気にせず全国に寺社を造営し、神仏習合を推し進めたことでした。僧である道鏡の意図が入ったものなのか、称徳天皇の独断なのかは分かりません。もし称徳天皇に意見しようものなら、たとえ皇族であってもその身分を剥奪され、場合によっては殺されました。誰もこの二人に意見する事が出来なくなったのです。

天平神護3(767)年、称徳天皇はついに一線を超えようとします。道鏡を天皇の位につけようとしたのです。もちろん天皇家と血縁関係のない道鏡は皇位を継ぐ資格等ありません。そこで称徳天皇が利用したのが神託でした。

同年、現在の大分県にある宇佐八幡宮より「道鏡が皇位に就くべしとの神託があった」と突然朝廷に報告があがりました。もちろん称徳天皇の工作です。一応形式を整えるため称徳は、この神託が本当かどうかを側近の尼僧・和気広虫に確認にいくよう命じました。今で言う第三者委員です。最も広虫は自らの息のかかった人物ですので第三者たりえません。彼女には暗に、「神託は本物であり、道鏡が天皇にふさわしいという報告を上げること」が求められました。忖度の強要です。

ところが広虫は、自分の足では宇佐神宮までの旅に耐えられないとして、この命を弟である和気清麻呂へ譲ります。この清麻呂という人物。めっぽうまじめな方でした。なんと、称徳天皇の忖度の強要を拒絶し、「そのような神託はなかった」と報告したのです。称徳は激怒し清麻呂を穢麻呂(けがれまろ:悪口です)と改名させたうえで流罪に処しました。(宇佐八幡宮神託事件)

画像4

↑和気清麻呂の紙幣肖像

画像3

↑現在の宇佐八幡宮

この事件は、称徳・道鏡政権に反抗する貴族たちに大いなる勇気を与えました。神護景雲4(770)年、称徳天皇が崩御するとすぐ貴族たちは動き出します。まず道鏡を朝廷から追放すると、称徳政権下で息をひそめていた皇族の白壁王を光仁天皇として擁立し朝廷改革に取り組みました。この改革が奏功し政体が安定したことで、先述の通りようやく神功開宝の価格が法定できたのです。和気清麻呂は罪を許され光仁政権下で活躍しました。ヘッダーの写真でもある京都の護王神社は、天皇の忠臣である彼を顕彰するために明治政府が京都御所の西に建てた神社となります。

ちなみに追放された道鏡ですが、これだけめちゃくちゃな政変に関わっていたにもかかわらず、死刑等になっておらず穏やかな老後を過ごしたそうです。このことから彼の出世に熱を入れていたのは称徳天皇のみで、道鏡本人はあまり権力欲がなかったのではないかという説もあります。

さまざまな政変のなかでドタバタと発行された本貨ですが、その後は比較的安定して流通し、奈良時代が終わるまで発行が続きました。そのため全国で出土数も多い銭貨となっております。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?