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日本の公鋳貨幣3「万年通宝」「開基勝宝」「太平元宝」

前回はこちら

前回解説した和同開珎は、日本史の教科書で必ず習ううえ、その滑稽な名称の響き(わどうかいちん説が近年は有力)のためどれだけ勉強が嫌いだったという方でも結構覚えているのではないでしょうか?

ですが、それ以降朝廷が発行した古代の貨幣については、ほとんどの人が知らないかと思います。現在の日本だって、偽造防止や素材の節約等様々な観点から数十年で貨幣のデザインを切り替えるのですから、奈良時代から平安時代末まで、約300年間も和同開珎ばかり使っていたわけがありません

奈良・平安時代の朝廷が発行した貨幣を、古銭収集界隈では「皇朝銭」といいます。「皇朝十二銭」という言い方もありますが、この場合は、銅銭のことを指します(和同開珎銀銭も和同開珎として一種にカウントされますが)。朝廷は、約300年間で12種類もの銅銭とその他の金銀銭をつくっているのです。

第三回は和同開珎の跡を継いで発行された三種類の貨幣を紹介します。


1.天皇の詔により3種の新貨幣が発行される


天平宝字4(760)年3月16日、淳仁天皇により詔が出され、あらたに3つの貨幣が鋳造されました。それが、銅銭の「万年通宝」、金銭の「開基勝宝」、そして銀銭の「太平元宝」です。

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↑万年通宝

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↑開基勝宝(東京国立博物館蔵)


『続日本紀』にはその時の勅令(天皇の命令)が事細かに記されています。ざっくりと翻訳致しますと

「和同開珎が発行されてからすでに久しく、その間鋳造された贋金は大量にのぼる。すでに通貨流通高の半ばに達するありさまだ。そこでこの際、新たな貨幣を鋳造して旧銭は一切禁止しようと思う。その場合、損失を被る者が騒動を起こす恐もがあるだろう。だから一挙にこれを行わず漸進的な措置として当面新銭と和同銭との併行通用を認める

というものでした。この勅令には続きがあります。「併行通用の際の新銅銭の名称は万年通宝とし、1枚を以て旧銭10枚に当たる。新銀銭の名称は太平元宝といい、その価値は1枚を以て新銭10枚に当たる。新金銭の名称は開基勝宝といい、一枚で新銀銭10枚に当たる。」というものでした。すなわち

開基勝宝1枚=太平元宝10枚=万年通宝100枚=和同開珎1000枚

というレートで併行使用せよと伝えたのですね。淳仁天皇の言によると、和同開珎は長い間の流通により偽造が増えており、世の中に出回っている貨幣の半分が偽造貨だったということです。和同開珎は、流通の間にさまざまな要因でその価値が下落していったことは前回説明しました。

貨幣の価値が下落していくと何が起こるかというと、同じ物を購入するのに大量の銭が必要になり市民生活が困ります。それ以上に深刻なのが、国庫に入るシニョリッジが減ってしまう事です。1万円札1枚の製造費は25円なので、シニョリッジはおよそ9975円だろうという話を前回しましたが、もし、1万円札の価値が下がり1枚5000円でしか通用しなくなると、シニョリッジは4475円になってしまい、国の財政が苦しくなります。

かといって、これを補うために市場が必要とする以上の貨幣を発行でもしようものなら、1枚当たりの価値は3000円、2000円とさらに下がっていくでしょう。需要を超えた以上の量が市場に出ると価値が暴落する事は、現在のマスク相場の値崩れを見れば明らかです。

まして、奈良時代の朝廷が発行していたような硬貨は、金属を素材に用いますので紙幣以上に製造費がかかります。有名な話ですが、現在の1円硬貨は製造に2円かかります。そのため、現在はキャッシュレス決済の普及もあり、1円玉はほとんど製造されなくなってしまいました。和同開珎も価格の下落によりこの問題に直面していました。

当時の朝廷も1円玉のように、和同開珎の発行を取りやめればよかったのですが、それは、経済学が発展していない古代のことですから何ともいえません。また淳仁天皇の言葉を信じるなら、偽造がものすごく多かったわけですから、たとえ朝廷が和同開珎の鋳造を中止したとしても、世の中の需要を超えた偽造和同開珎により、貨幣価値の下落は止められなかったでしょう。

もっとも、あくまで淳仁天皇の言を信じればですが……。


2.天皇より王の権限を譲渡された藤原仲麻呂


『続日本紀』の詔の記述が信用できないというのは、この貨幣発行を行ったのが、先代天皇・皇后の厚い信任を得て淳仁天皇をさしおき国政を恣にしていた貴族・恵美押勝こと藤原仲麻呂だったからです。恵美押勝は稀代の儒学者で、中国かぶれの政治家でした。朝廷の役職名を大和言葉から中国・唐風に代えたり、天皇・皇后への尊称も中国式に代えてしまいました。政敵であった橘諸兄・奈良麻呂親子の勢力を追放したのちは天皇より、出挙(種籾を民へ貸付け、収穫時に利息を取る行為)と鋳銭とという、本来に王しか許されない権利を認められています。

そんな中国かぶれが和同開珎からの切り替えを実行するわけですが、貨幣切り替えに際して彼が参考にしたのも、当然、中国の制度であった可能性が高いのです。

まず新貨幣の価格設定です。

和同開珎は銀銭1文につき和同開珎25文という、25進数で計算を行っていました。ですが、藤原仲麻呂はこれを突然10進数に替えています。これは666年に唐の高宗が「乾封泉宝」を鋳造した際に、乾封泉宝1文を旧銭である開元通宝10文と等価と定めた事に倣った可能性があります。

次に、私鋳銭の増加という理由も怪しいです。実は漢代以降、中国では貨幣を改鋳するときは私鋳銭の増加を理由にするという定型文ができています。これをそのまま模倣した可能性が非常に高い。そもそも、まだまだ銅が貴重な金属であった時代に、日本国内で発行された和同開珎の半数が銅製の私鋳銭になったというのはさすがに無理があります。


3.新貨幣は何故必要だったか


万年通宝は和同開珎と比較して直径が1mmほど大型になっておりますので、金属としての価値は当然和同開珎より高いです。ですがだからといって万年通宝1枚で和同開珎の10倍の価値には到底とどきません。当然、このめちゃくちゃな価格設定には朝廷による発行差益(シニョリッジ)の獲得という大きな目的があったと考えられます。そのシニョリッジを何に使おうとしていたのでしょう。

この時代の藤原仲麻呂政権が行っていた大きな政策というと、東大寺の造営事業と、征韓軍の編成が考えられます。

まず東大寺です。天平勝宝4年(752年)に奈良の大仏が東大寺に建立されますが、この工事は大仏の建立だけで終わるはずもなく周辺の伽藍建設や堂宇の建設はまだまだ終わっていませんでした。東大寺の建立は、国家を安寧にしたいという設立者・聖武天皇の願いとは裏腹に、莫大な負担を国民にかけ平城京内ですら浮浪者や餓死者が溢れる始末となりました。この状況を憂い、東大寺造営事業を辞めさせようと立ち上がったのが、藤原仲麻呂の政治的ライバルであった橘奈良麻呂です。天平勝宝8(756)年に、奈良麻呂の訴えを反乱として武力で押さえつけ権力を一手にした仲麻呂が、舌の根も乾かぬうちに東大寺の造営事業は経費の無駄であるという事はできませんでした。なので彼は、積極的に東大寺の造営にかかわっています。仲麻呂の政治的な後ろ盾となった光明皇后は東大寺を創建した聖武天皇の妻で、彼の地位を盤石にした先代の孝謙天皇は、聖武天皇の娘だった事も、彼が東大寺に力を入れざるを得なかった理由でしょう。

二つ目の征韓軍です。仲麻呂の権力が絶頂に達した天平宝字2(758)年に、唐の国内で安史の乱という大規模な内乱が起きているという情報がもたらされます。その内乱の規模の大きさを知り、日本へ飛び火する事を恐れた仲麻呂は慌てて、九州沿岸を中心に防衛の兵士を4万人以上配置します。が、同時にこれが失われた朝鮮半島での利権回復への契機になるかもという事を考えていたようです。白村江の戦いで日本が敗れたのは、新羅が唐と手を結んだからです。その唐が混乱しているならば、朝鮮半島に兵を派遣しても援軍を送る事が出来ないのでは?

天平宝字3(759)年、新羅に派遣した日本の使節がぞんざいな扱いを受けたという報告を聞いた仲麻呂は、これを口実に防衛軍の配置を転換し、新羅遠征計画を立案します。軍船394隻、兵士4万700人を動員した現実的な計画でしたが、これはとある事情により実行には移されませんでした。この軍事再編に莫大な予算が必要だったと思われます。


4.役割が異なった金・銀貨と銅貨


このように支出が重なっていたなかでの新貨幣発行ですので、事態は急を要していた訳です。が、金貨の開基勝宝と銀貨の太平元宝に関しては、流通銭であったとは考えられていません。

和同開珎は一応、

・布:1常=5文

・米:穀6升=1文

という公定価格が初期に設定されていました(どちらの単位も奈良時代の基準枡が不明のため、現在の値に換算するに当たって諸説あり)。こうして見た時に、銅貨ですら畿内を除き満足に普及していないような経済状況の中で、1枚が10文になる銀貨、100文になる金貨といった高額貨幣が果たして必要だったのかということです。実は、奈良時代中期の朝廷には金(Gold)の貯蔵量にかなりの余裕がありました。陸奥で見つかった砂金が安定して供給されたため、東大寺の大仏に金箔もすぐ塗る事が出来たわけです。今でこそすすけている奈良の大仏ですが、出来た当時は全身金で塗られていました。銀も、全国各地から献上が続いていたため大量に保有できていました。

ですが、和同開珎の時にちらりと触れましたが、朝廷は銀の市場での取引を禁止していました。さらに、この時代には金を貨幣として利用する習慣はまだ誕生していません。なので、ありあまった金銀の使い道として、一部の貴族や豪族への贈答品として用いるために加工したものが開基勝宝と太平元宝であったと見られています。

この金銀貨は『続日本紀』に記述があるものの、その存在は長い間確認されていませんでした。開基勝宝に関しては寛政6(1794)年に奈良の西大寺から1枚だけ発見されましたが、以降どこからも発見されていませんでした。そのため、150年近くこの金貨は贋作であるといわれていました。ですが、昭和12(1937)年、同じく奈良県の西大寺周囲の丘陵、かつての孝謙天皇宮殿跡から、31枚が一括出土しました。これにより開基勝宝は間違いなく存在したことが証明されました。

一方、太平元宝は現在もその存在が確認されていません。昭和3(1928)年に、奈良の唐招提寺から見つかったという記録と大阪の旧家の蔵に所蔵されていたという2枚の記録がありますが、現在はどちらも所在不明です。拓本のみが残っています。

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贈答品であったと考えられるため現存数が非常に少ないことが予測されるこれら2枚に対して、万年通宝は、和同開珎に代わる貨幣として大量発行されています。万年通宝を語るうえで外せないのはやはり、和同開珎10枚分という明らかに無謀な価格設定です。下がりに下がり切っていた和同開珎の価値を元に戻す事は当時の朝廷の力では不可能でした。そこで、和同開珎は下がったままで放っておいて新たな1文を発行したのです。

現在ですとデノミを行う場合には国民に事前に入念な告知が行われますが、古代にそのような優しさはありません。この改正は庶民に取って寝耳に水でした。想像してみてください。ある日突然「明日から1000円札を切り替えるわ。でも安心してね。今まで使ってた1000円札は100円玉になるから」と宣言されることを。貯金が10分の1になるのと同じ事ですから、間違いなく荒れます。というか、荒れました。

当然巷には怨嗟の声が溢れましたが、絶対権力者であった仲麻呂はその訴えを無視しました。正倉院文書に残された記録ではこのレートに従って売買を行っており、仲麻呂政権が強制的にこのレートを適用させていたことがわかります。しかしこの代償は高くつきました。それまで50年間なんとか信用を保っていた朝廷発行の銭貨でしたが、権力者が一方的に価格を改訂することができるという事実を突きつけられたことにより、その信用にヒビが入ったのです。庶民は朝廷の発行する銭貨に疑問を持つようになりました。

旧銭貨を10分の1の価値に切り替え新貨幣を発行するという方針が、仲麻呂政権の時だけのものだったらまだましでした。しかし我が国には古代から現代まで続く悪しき習慣があります。その名を「前例主義」と言います。万年通宝は藤原仲麻呂ほどの権力があったからこそこの価格を強制させることができましたが、そこまで権力がないものが前例にならっていったら貨幣に対する信用はどうなっていってしまうのでしょう?

その話はいずれまたにしましょう。

天皇を凌ぐ絶対権力者となった仲麻呂でしたが、その権勢は、実にしょうもない理由により崩壊し、「万年通宝」「開基勝宝」「太平元宝」の3つの貨幣はわずか5年で廃止されてしまいます。そのしょうもない理由が、非常に人間臭くて僕はこの三貨が大好きなのですが、それは、第4回「神功開宝」の解説へと回そうと思います。


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