富の功罪 〈明治からの贈り物〉展

静嘉堂文庫美術館で、〈ー明治150年記念ー 明治からの贈り物〉展

http://www.seikado.or.jp/exhibition/2018003.html

先日の神奈川歴博の展示が非常に密度が濃かったので、こちらへも。最終日ぎりぎり。明治150年云々のタイトルに食指が動かなかったのだが、やはり一応。

結論から言えば、神奈川歴博の前にこちらを見ておくべきだった。セットで見るに越したことはないが、歴博のほうがより庶民の視点を含んでいるのに対して(歴博は、《小学習画帖》《小学画手本》など明治の学校教育における美術の教科書なども複数展示していた)、こちらはいかにも明治の財閥の途方もなさを感じ取るのに適した内容とも。先日の子規や漱石たちが見に行ったり展示物の噂をしたであろう勧業博覧会に出品された屏風絵などが展示されていて、それはそれで圧巻なのだが、博覧会出品のために岩崎の富が作らせたと知ってしまうと。たしかにこれだけのものを金に糸目をつけず製作させ、現代まで残した功績はあるが、どうだ!感が先だってしまって純粋に作品に没頭できない気も。

たしかに、河鍋暁斎の<地獄極楽めぐり図>だって、娘を亡くした富裕な町人の家の要望で描かれたものだし、美術とパトロンの在り方としては理想的なのかもしれないが、暁斎の地獄も極楽もどこか鬼気迫る趣きに欠けることともあいまって、複雑な感情の残る展示だった。

岩崎家のビリヤードルームに飾られていた黒田清輝《裸体夫人像》も、その肌の質感などたしかに間近に見られるのは素晴らしいが、当時、会食やパーティー後に紳士だけが楽しむ部屋であったビリヤードルームの当時の写真を横に眺めると、このとき、女性たちはどこにいたのだろう、とふと思う。時代が違う、と言ってしまえばそれまでだが、欧州などでは男性の裸体像(しかもフルヌード)も中世の昔から日常的に彫刻などで街中に置かれ誰でもいつでも見たりすることができるのに対して、おそらく日本ではこうして片方側の裸体像のみを飾る、という文化が輸入されたのだ。そうした、一見文明開化の広がりとも見える一方のひずみ、無意識化の抑圧などが、現在も生活のあらゆる場面で尾を引いているのではないか。明治150年、という言葉には軽い抵抗を覚えるが、その名のもとに、こうしたひずみなども明るみに出てくるのなら、何か成果はあるのかもしれない。

ごく小さな、加納夏雄作《銀小刀》の拵えの美しさにため息。掘り込まれた小さな柳・月にホトトギス・薄図の簡略化された無駄のない線に魅了される。幕末から明治の空気は、こんな小さなところに。

ex.加納夏雄作品 https://www.kumanekodou.com/tayori/15138/

幽霊も素晴らしすぎ。 http://www.sanobi.or.jp/bijutsukan/collection/sword_fitting.html


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?