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あーあ、頭のよい人間に生まれたかったなあ

昔の恋人に、ものすごーく頭のいい人がいて、どれくらい頭がいいのか客観的に言えば、同い年なのに物理学の分野で特許を取るような人だったのだけど、その人に「頭がよくなりたい」と言ったことがあるのね。
そのときに彼はこう言った。

「よさは才能。知識は努力。」

彼は自分のことを「適切な努力のできる人間」と評していて、たしかに、目指すべきゴールから逆算して、最短ルートで効率よく知識を吸収していたし、その努力がまるで苦ではなさそうだった。

頭のいい人というのは、自分の望む姿を的確に捉えることができる。
だから、まわり道をすることなく、限りなく最小限の努力で、確実に知識や知見を蓄えていく。

わたしは小学生、中学生くらいまで、ただ授業を聞いていればたいした勉強をしなくても、常にクラスの上位3位以内くらいにはいる、秀才とは言われない、ほどよい優等生だった。
その後、高校に入ると、主に理系の分野において、???が増えていき、テストの点数が60点台をうろうろするようになった。
そのときに「80点の地頭があれば勉強はたのしいけれど、60点だと勉強がたのしくない」という事実にぶち当たったのだ。
しかし、その後も特に努力をすることなく、ぼーっと高校生活を過ごした結果、わたしはそこらへんの適当な大学へ入学した。

けれど、人一倍知的好奇心はあって、社会人になってから読書量が増えて、知的な会話にわくわくする質なこともあって、今は、頭のよい友達に囲まれて過ごしている感覚がある。

いつも、みんな優秀ですごいよなあ、と思って生きているのだけど、先週末、自分の上位互換のような女の子に出会って、打ちのめされた。

彼女は友達のパートナーで、わたしと気が合うと思う、とのことで紹介してもらったのだけど、思考回路がかなり似通っていた。
しかし、頭の出来が全然違って、わたしが偏差値60だとしたら、彼女は偏差値75という感じ。
つまり、自分の上位互換に出くわしたのだ。

あー、いいなー、小さい頃からよき環境で努力を積み重ねていけば、わたしもこんな風になれたかなーなどと嫉妬がぷくぷくと湧いた。

頭のいい人間に生まれたかったぜ、ちくしょう。

しかし、この人生においては、わたしはわたしの脳みそを愛していくしかないわけで。
今日もふわふわと雲のように浮かぶわたしの好奇心達をあまり上手くない順序で消化していく。

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