月曜日の図書館52 わたしが何を探しているか、教えてください
図書館には、あると思ったものがなかったり、ないと思ったものがあったりする。
『明月記』の全文を現代語訳した本は(たぶん)存在しないが、漢の時代の中国の石碑に刻まれた文を現代語訳した本はある。
何を尋ねられても「そんなのわかるわけないじゃん」と一蹴してはいけない。逆に「そんなの簡単じゃん」と思って調べてみると、あたりをつけた本がまったくの的はずれだったということもある。
謙虚に、どちらの方向にも決めつけない。答えにたどり着けるなどと傲慢な態度を取らず、けれど決してあきらめない。手がかりのしっぽを、ちょっとだけつかむことを目指す。
調べものの相談を受け付ける中で、わたしなりに学んだこと。
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図書館では、利用者とはつかずはなれずの関係でいるべきである。わたしたちが真摯に対応するのは、あくまでも尋ねられた内容についてのみであって、その奥に利用者が抱えている気持ち、悩み、問題には踏み込まない。
法律の内容が知りたいなら六法全書。その法律の知識が必要になってしまった経済状況や家庭の事情、裁判に対する思いなどは汲み取らない。俳優になりたいなら「なるにはブックス」、またはこの地域で通える専門学校の紹介。ちょっとあなたには向いてないんじゃないかとか、それ以前に身につけるべきスキルがあるんじゃないかとか、余計なことは言わない。
心の中で思うことは、ちょびっとある。
わたしたちが応えるのも、関心があるのも、尋ねられたことを見つけ出すための方法であって、利用者その人ではない。図書館の窓口は、人生相談を受ける場所ではない。
にも関わらず、それでもなお、一線を越えてあふれ出した気持ちを受け止めなくてはならないときもある。あるいは、わたしたちの淡々とした態度にこそ救われる人もいるかもしれない。そう信じたい。
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図書館を訪れる人のうち、しかし深くやりとりのある人は、実はほとんどいない。たいていは貸出と返却のときに束の間対応するだけ、しかも紋切型のやりとりだけである。わたしたちが「図書館の利用者あるある」だと思っている行動や発言は、実は濃厚接触しているわずかな人間の特徴にすぎない。
探している本が見つからない。場所が「書庫」となっているが、どこにもそれらしき看板は見当たらない。よもや「書庫」が「フロアの棚には並んでいないため窓口で申し込まなければいけない」という意味だとは思いもよらない。そして館内をぐるぐる歩き、疲れてあきらめて帰る人が、一体どのくらいいるだろう。
だから目の前の利用者の意見をすべてだと思ってはいけない。寒いから窓を閉めろと言う人がいる一方で、感染対策で開けたままにしろと言う人もいる。何も言わないけれど、何かしら思っている人もいる。大きな声ばかりに耳を傾けてはいけない。ときには聞こえない声にも注意を払うこと。
苦情を受け付けるときは、その後ろに賞賛や感謝の念を抱いている人が100人くらいいると想像しながら耐える。逆に面と向かってありがとうと言われたときには、そう思っている人があと1000人くらいはいることにして、心の中でばんざいする。
図書館の職員は黒子であるべきだ、と教わったことがある。尋ねることも、不満を言うこともできない恥ずかしがり屋さんが、自分ひとりの力で資料にたどり着けるような図書館はきっと、他のどんな人にもそこそこ使いやすいだろう。そこを目指したい。
見えないトーチを手に、利用者の行先をぼんやり照らしてゆく。
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