仲良し記念

  種々の樹木に切り取られていたのは、早く捨てたい使いかけのペンキをコンクリの壁に投げやりに塗ったような空だった。
 天気は晴れ。もちろんそこに文句はない。だけど、天気予報の台詞からは、筆遣いの粗さとか、ぼうっとしていたらできてしまった塗りムラとか、そういうものが零れ落ちている。
だいたい、今日はこんな空が似合う日なんかじゃないのに。国語の授業で小山先生は、ここの部分は情景描写と言って風景が気持ちを表してるんです!とかいって一人盛り上がっていたけれど、嘘っぽすぎてバカみたい。ごみ箱に剛速球を投げたくなるようなテストの点数を見たら雨が降ったとか、ずっとほしかったワンピースを買ってもらったら急に晴れたとか、そんなことが起こったことは一度もない。そんなことができたら、休み時間にスプーンを曲げようとしている男子たちよりもずっとすごい。ホントにそんなことがあるなら、今日はカンペキなすっきりする〈アオハル〉的な青空じゃないと…
「はーちゃん何ぼーっとしてんのよ」
「わあっ!」
変顔で急に顔を覗き込まれた私は、転びそうになる。
「何すんのよぉ、みーちゃん」
「せっかくなんだから一人でボケっとしてないでしゃべろうよー。中学生になったらみんな忙しくなるし、あたし学校違うし、三日間もコテージ泊まるなんて春休みの今だけだよ。っていうかそう言ったのあんたでしょ」
「あ、ごめんごめん。」
私の後ろで、りんりんのバッグについた鈴がチロリとなる。
「そういや珍しいよね、りんりんのママがお泊りオッケーしてくれたのって」
「お手伝いとか、すっごく頑張ったんだよー。こういう時をずっと待ってたの。三人だけで山に行くって言われたら行くしかないもん。」
「つーかコテージ遠くない?あたしお腹すいたぁ。りんりぃん、お昼、何?」
「お昼は普通にカレーだよ」
「まじか!」
みーちゃんが急に元気よく歩き出す。
「りんりん、ホントにこんな食欲魔人の分まで食べ物間に合う?山の下にスーパーはあるんだってよ?」
「食欲魔人じゃないっ!」
数メートル先から叫ぶみーちゃん。
「だいじょうぶだいじょうぶ。ちゃんと計算してあるから。みんな頼んだ分の食材全部持ってきたでしょ?みーちゃんもおかわりできるくらいはあるよ。調理器具もコテージに使えるのがどれくらいあるかもわかんないから、とりあえず一式持ってきたしね。足りなかったらそのときにスーパーに行けばいいし、もし二人が食べられるならいくらでも」
ははは…。りんりんは頼りになる。
「そんなわけで、みーちゃんが食欲魔人でも腹ペコお化けでも大丈夫!」
「もう!二人ともうるさい!」
 と言って、みーちゃんはどんどん歩きだす。
「りんりん素直だから仕方ないよー」
「いや、別にそんなこと……」
「もう、はーちゃんもりんりんもうるさい!」
 りんりんの声はみーちゃんの声でかき消される。みーちゃんのリュックサックについたぬいぐるみのストラップが、右に左に踊っている。こんなにアクティブだと、りんりんに言われても本当にこの量の食べ物で私たちの分のごはんが残るかどうか、心配だ。
「見て見て、かわいいおうち!」
「わぁ!すっごーーい!」
 みーちゃんが指さしたのは、これから泊まるコテージ。
 丸太が丁寧に積みあがっていて、ちっちゃい窓があって、デッキや三角の屋根がある。なんとなく、生ごみや埃といった、生活感のあるものとは無縁のように見える。三人が優に泊まれるくらい広いのに、なぜだか広さよりもこぢんまりとした小ささを感じる。周りの木々は額縁のようにコテージに支配されている。花も咲かず、春らしさも少ない鬱蒼ともいえる木々が、コテージが纏う不思議な空気を引き立たせている。
「はーちゃん…。急に大声出さないでよ…」
 隣でりんりんは耳をふさぐが、私は興奮が抑えられない。

 りんりんの計画のもとに三人で作ったカレーは、とてもおいしかった。
「やっぱりんりんの料理って最高だね!」
私が言うと、りんりんは照れた。りんりんのそういうところもかわいいと思う。
「ホントにねー」
みーちゃんもご満悦の様子。
「まじで来てよかったー」
「素晴らしい二人の友情に感謝するのだよ、みーくん」
 ちょっと威張ってみる。
「もーわかってるよー。みんなありがとうっ!」
 そう言って二人でみーちゃんにものすごく強く抱きしめられる。つぶれるぅ…。
 バタバタしてやっと解放される私とりんりん。りんりんが呼吸を整えて言う。
「そういえばさ、なんでこの三人で仲良くなったんだっけ?」
 ……。なんでだっけ……?
ポンと手を打つみーちゃん。
「低学年のとき、はーちゃんと隣になって、消しゴムの落としあいしてからじゃない?」
「ええっそれ本当?」
りんりんもびっくり。
 ……。ほとんど覚えてないけど、先生から消しゴムに関して何か怒られて、没収された記憶が…。それにしても、
「なんでそんなことになったんだっけ?」
「さあ、それは覚えてないなあー」
 鼻歌を歌い始めるみーちゃんを見て、私は確信する。ゼッタイにみーちゃんが何かしたんだ!
「あと、りんりんは…。あれ、しばらくあたしたちがいじめてたんじゃなかったっけ?」
「あ、そうだったね。ふふふっ」
 りんりんが他人事みたいに笑う。
「そういえばさ、あの後の遠足でさあ、……」
 こんなこともあんなことも、今となってはいい思い出だ。
そよ風が葉っぱの間に入り込み、静かに枝葉を揺らす。その風はデッキに座っている私たちの髪の毛を撫でて、消える。
学校がバラバラになっても、もし誰かが引っ越しても、新しい友達ができても、忘れませんように、と切に願う。

 お昼ご飯の片づけをして、コテージの中で少しおしゃべり。
コテージの中に入るとすぐにソファーやテレビがある部屋がある。一階にはほかにもキッチンやトイレ、お風呂などの部屋もある。階段を上るとベッドが四つ。こんなに広いのに、すごく小さく見えるのだから、不思議。
なんてこともないおしゃべりに浸っていて、気が付いたら五時になっていた。
「もう五時?ごはん作らなきゃ」
 りんりんが慌てて立ち上がる。私も後に続こうとすると
「ん?なんか声が聞こえない?」
 みーちゃんに言われて耳を澄ませる。だんだん声は大きくなってくる。
「なんだろ」
 言ってみたけど、誰も答えられない。
「あ!」
 気づいたのは三人同時。
「いしやぁ~きいもぉ~」
 と言っていたのだ。
「私買ってくる!ごめん先に作り始めといて!」
財布を持っていたので、コテージを飛び出す。春寸前の山の空気は、この時間にはもう冷え切っていた。
「私の分も!」
「もちろん!」
 みーちゃんに言われなくても、全員分買ってくるつもりだ。

 探すと、小さなリヤカーはコテージより少し上の道路でおばあさんにやきいもを渡して行こうとしているところだった。
「すみませーん、私も一つくださーい!」
 やきいも屋のおじさんは、あいよー、と言って振り向き、待っていてくれた。少し息が切れている私が落ち着くのを待ってくれた。
「お嬢ちゃん、いくつ?」
「えっと、四個ください。」
 みーちゃんならおかわりするだろう。ハンバーグをたくさん食べるだろうからさすがに二つもおかわりはしない…と思う。で、もし余ったらみんなで焚火して、もう一度焼いてみるのもアリかも。
 おじさんはもう一度あいよーといって紙袋に詰めてくれる。慣れた手つきでやきいもを包みながら、話しかけてくる。
「お嬢ちゃんは山の下から登ってきたんかね。それなら知らんかもしれんけど、実はここのちょこっと上に集落があってね、たまに来るんよ。今のおばちゃんもそこの人やね」
「へぇー、そうは見えませんでした」
テキトーに相槌を打つ。あ、ちょっと失礼だったかな、と思っておじさんを窺うが、山の上の方を見つめるおじさんの表情はよく見えない。
「下のほうに、大きいお店があるやろ。ああやって夜でも昼でもおんなじに明るいとこが好きじゃなくてね。たまに暗いから、明るいお店が好きになるんと思っとる。明るいとこだけ見とっと、ごみ箱の中とか、棚の裏とか、暗くてあたりまえのとこが見えなくなるんよ。お嬢ちゃんのしゃべり方、街のほうの人やね。俺も前は街に住みよったけどな、ああいうとこの仕事は好かんかって…」
 ずいぶん話し好きのオジサンだ。そんな私の気持ちが伝わってしまったのか、おじさんはふと我に返って、大きいやきいもを選んでくれる。
「はい、千円ねー。まけといたから。」
「ありがとうございます!」
 道路を背にして歩き出す。また、いしやぁ~きいもぉ~が聞こえる。

 この時間の空は好きだ。青空とは違う、濃い青。木も、葉っぱも、山も、私も、空の色に見える。新春。新春は今年の年賀状にも書いた、正月のことだけど、冷たい風の中に咲こうとする蕾とかを見ていると、新しい春のことを新春って言ってもいいと思う。小山先生とかは、この言葉には伝統が、とか言うのかもしれないけれど、別にいいだろう。先生本人も言っていたけれど、正月の時期も、カレンダーも、昔とはズレているそうではないか。どこかの誰かが〈正月〉を新しくした時点で、どのみち新春は本当の使い方をされなくなったのだ。
 私たちのコテージが見えてくる。このコテージは青くなっていないように見える。この子がため込んだ、いろんな人の非日常のせいかな。

「ただいまー」
ドアを開ける。
真っ赤な床。
立ち尽くす。
だらりと垂れ下がった私の腕からやきいもの入った袋が落ち、そのうちの一個が〈それ〉に浸って赤く染まっていく。
 私の思考はパニックを起こす。
「っっっっっあああああああああああああ!」
赤くてどろどろしたものが、部屋いっぱいに水たまりを作っている。
鮮やかさと重さが共存しているものを、私は他に知らない。
震えた膝から崩れ落ちる。服が暗紅色に染まっていく。目から涙があふれだす。
すると、キッチンからりんりんが這い出てきた。私よりも洋服を真っ赤に染めている。滝のように汗をかいて、肩で息をしている。マラソン大会で疲れ切ったときのようだ。
りんりんに駆け寄って、抱きしめる。揺さぶる。
「だいじょうぶ?なに、どうしたの、怖いね、無事でよかった、真っ赤だよ、みーちゃんは?何があったの、」
 堰が切れたように私の口から言葉が漏れる。
「みーちゃんはこっちの部屋にいてね、で、それでそれで、ガシャンって音がしたから心配で、それであのね、あの、みーちゃんは動かなくなっちゃってね、いないの。いないのよ。」
「嘘だ。嘘なんでしょう?ねえ、りんりん」
 りんりんは言うのをためらった。窓ガラスが一つ、割れている。
 私の口から嗚咽がこぼれる。あふれる涙と鼻水がどうしようもなくて、りんりんの肩で涙だけを少し拭く。
 私はしばらく、むせて、地団太を踏んで、叫んで、りんりんに抱き着いて、泣いた。どれくらいそうしていただろうか。動くこと自体に、とても疲れた。
 そうしたら、みーちゃんがどうなったのか知りたくなったが、りんりんに訊くと、俯いて、少し首を横に振った。つらそう。
「とりあえず、ご飯食べてから、これからのこととかも、話そ。」
 壁に手をついて立ち上がろうとする私の赤黒い裾を、りんりんがつまんで止める。
「私が作るよ。はーちゃん、顔が青くて倒れそう。すぐできるから、大丈夫。」
 玄関の鏡で顔色を確認する。本当だ。
「ごめん、お願い。」
 りんりんがふらふらしながらキッチンに入っていくが、私はもう立ち上がれない。カタコトという料理の音を聞きながら、どうにかソファーに乗っかって、ぼーっとする。なにも、考えたくない。
「おいしくなあれ」というりんりんの声がドア越しに聞こえる。
しばらくすると、「ああっ!」という短い悲鳴が聞こえたので驚き、〈ぼーっと〉から抜け出すと、ドアの隙間から黒い煙。
ドアを遠慮がちに押し開けて、りんりんが手に包丁を持ったまま出てくる。踏み出した一歩一歩が真っ赤に染まっていくことに、気が付いていない。
「はーちゃん、ごめん、ハンバーグ焦がしちゃったんだけどさ、新しい具材を用意してもいい?」
 少し体を起こして、いつもの半分以下の意識で、私は答える。
「うーん、いいよー。あれー?十分な量を用意してたんじゃないのー?」
「そうなんだけど、はーちゃんの元気がないから一気にいっぱい作ったら、全部焦がしちゃった」
 りんりんもお疲れかな。
「あーそういうこと。ありがと。じゃあ頑張ってねー。それとも、私が行こうかー?あと、私そんなに食べないから大丈夫だよー」
「うん、わかった」
 そう言うとりんりんが視界から消えたので、私はまた〈ボーっと〉に戻る。
――刹那、首に鋭い激痛。
「っっっ…」
 声が、出ない。見上げると、ソファーの後ろから、包丁、その先に、――りんりん。りんりんの台詞の数々がフラッシュバックする。そういえば、「こういう時をずっと待ってたの」って…
 包丁を抜き、もう一度振りかぶるりんりん。その包丁が、割れていた窓ガラスの隣に当たり、窓ガラスが降る。
りんりんの笑顔は、完璧なまでに可愛かった。その笑顔の、口の両端がゆっくり吊り上がっていく。
再び、首に衝撃が走る。一瞬真っ赤に染まった視界が、黒くなって消えていく。
最後にかすかに聞こえた声は、
おいしく、なあれ