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マイホームタウン

ふるさとの話を。

昨日の投稿で紹介した小説の中で、主人公が「ふるさと」とは何かを考える場面がありました。

自分のふるさとは、生まれ故郷である、それはそれとして正解だけれども、ほかにもあるのかも知れないし、あるとしたら・・。この先は、ぜひ作品の本編を読んでください。

昨日の投稿は、こちら。


ふるさとについて、考えてみたいと思って書き始めています。

僕のふるさとは、生まれ故郷だとするならば、神奈川県の川崎市です。東京と横浜に挟まれた細長い市で、再来年に市政100周年を迎える、政令指定都市です。

政令指定都市には市の中に区がありますが、川崎には7つの区がありまして、それぞれに特色があります。この投稿では紹介しませんが、お近くにお住まいの方や、ご親戚のいる方は思い出してみてください。

僕は、生まれてから結婚するまで、30年以上も川崎で暮らしていました。年を追うごとに便利になり、都市化が進むとともに、人口も増加していきました。

特に僕の住んでいたあたりは、工場群が撤退した後に、タワーマンションが林立し、電車は何本も通るようになりました。

ゴジラによってタワマンが破壊されるのを見た方もいるかも知れませんが、あんな景色になったのは、10年くらい前でした。

僕が子どもの頃から人が多く、自転車も多く走っていました。僕の住んでいたあたりは、大手の電気通信機器メーカーだったり、大手飲料メーカーの工場があったりして、ひと頃はとても盛り上がっているようでした。

中でも、大手飲料メーカーの工場では、夏の時期になると地域住民のために、敷地を開放し、夏祭りを催していました。大人はビール飲み放題。子どももジュースが飲み放題。くじを引けばリュックが当たったり、帰りにはお土産の缶ジュースをもらったり。

毎年開催されていたのですが、僕たち家族が行ったのは一回だけだったように思います。翌日、学校でも話題になって、その会社の名前が子どもたちに浸透していくのでした。

スーパーといえばイトーヨーカドー、そして隣の図書館には何度も通いました。大きな川も流れているし、広い公園も、ちょっと面白い博物館もありました。自転車があれば大抵の場所に行けました。

高校まで川崎市内でした。それもとても近くの学校に通っていました。街並みはかなり変貌しましたが、都内にあったいろんなお店がいまの地元にあるのはとても不思議な感じがします。

僕は、高校生になるまで、ずっと「団地」に暮らしていました。大人も子どもも顔見知り・・とまではいかないけれど、遊ぶ場所は団地内の公園で、子ども同士はいつも同じメンバーでした。

みんな元気かなぁ。

街並みがどんどん変わっていって、高い建物ばかりになって、気がつくと駅で見かける人たちの身長も高くなっていました。

何かの統計で、収入の高さは身長に比例していると言った研究を読んだことがありますが、まさにそれなのかもと思ったのでした。

いまでは、川崎という都市の名前ではなく、武蔵小杉という街の名前が広く知られているような気もします。便利になって、明るくなって、豊かになったってことなのでしょうか。

駅前にあった商業ビルが、僕はとても好きでした。ドムドムがあったり、本屋があったり。

都会に憧れていた街は、みんなの憧れの存在になって、多くの人がやってくるようになりました。実家によく帰りますが、僕の暮らしている稲城よりも夜が明るく感じられます。

ふるさとが、何となく不便さのある、そして温かみのある、そんな場所だとしたら、稲城のほうが、今の僕にはふるさとなのかも知れません。


タイトルの写真、とても綺麗ですね。武蔵小杉の夕景・・・画面の奥の左側にチラッと富士山のシルエットも。僕が住んでいた頃は、企業の高いオフィスビルが立ったのでさえ、すごいなぁ・・と眺めていたのですが、多くの人が住む場所になるとは。

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