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コンサートマスター #白4企画応募

和やかだった空気が、不意に張り詰める。前方に立っている男に視線が集まった。男は、頭上に掲げていた白い棒を、振り下ろす。

一瞬の静寂ののち、突如として弦楽器群とクラリネットによる分厚い音の波が叩きつける。

交響曲第5番ハ短調Op作品.67、その楽譜に記された曲の始まりは、八分休符。休符は音を出さない音符。そして八分音符が3つ続き、叩きつけられた波が壁のように立ち上がる。

そのフレージングは、あまりにも有名な、ベートーヴェンの「運命」だ。


ゲネプロは、最悪だった。

客演の指揮者コンダクタータクトが、それまでのリハで見ていた振り方から、一変していた。昨日の帰国直前まで、遊学と称してフランスあたりのオケに2週間ばかり出入りしていたと嬉しそうに語っていた。

ふざけんじゃねぇ、と思う。

当然、オケ全体が戸惑いを隠せなかった。ベートーヴェンの出身地であるドイツ的な解釈で曲作りをしていたはずが、棒はフランスの風を吹かせていた。わずかな差だが、それを感じとる素養のある演奏者たちが揃う当団だからこそ、演奏は崩れることはなかったが、明らかにざわめいていた。

ゲネプロはふつう、曲を止めたりしない。通しで鳴らしたあと、戻ってさらったりすることはまずない。演者の体力の配分や、時間経過、楽器の調整具合を見るための、いわゆる予行練習だ。

このままでは、まずい。

俺はコンマスとして、的確に判断をしなければならなかった。指揮者が部屋を出ると同時に、周囲を見回した。

木管のリーダー、犬山に声をかける。

「おつかれ。5番、まずいな。若い子たち、かなり動揺してたから、フォローしてやってくれる?」

「分かってるって。いくらスポンサーの意向って言っても、あの棒振りはないだろ。当団のベートーヴェンの解釈をぶち壊そうとしているようで、怖いよ。」

「とにかく5番だけは、俺を、俺の弓を見てくれ」

コンマス(コンサート・マスターの略称)はその名の通り、オーケストレーションの要だ。指揮者の意図を汲み取り、演奏をリードするだけでなく、実はオケ全体の統率を取っている。

老齢の指揮者や、若い指揮者の場合、棒が不安定になることがある。だから、コンマスが裏の指揮者となってオケのサウンドを作っていくことも多い。指揮者のそばに座っているから、指揮台ではなく、コンマスの弓さばきを見て音を合わせられる。

「あぁ、分かってる。桃くんに合わせるよー」

犬山は、スワブを持った手をヒラヒラさせながらクラリネットの輪の中に戻っていった。


打楽器のリーダー、猿元がシンバルを抱えてやってきた。小さなシンバルを叩き合わせる猿のおもちゃ、その猿によく似ている。先輩に失礼か。褒めているのか面白がっているのか、口が滑る。

「やっぱり似合いますね、シンバル。5番の?ですよね?」

「おうよ、桃ちゃん。これ新調したんだぜ、コンサート用に。なのによ、音変えようとすんなっての。アホかあいつ、学生か!」

「ははは。学生ならぬ楽聖の作った5番は当団の十八番おはこですし、オーディエンスだって、聴きたい5番が聴けなかったら、それこそ当団の評判が落ちますから。」

「巨匠だか鬼才だか知らんけど、手前てめえ勝手にニュアンス変えようとすんじゃねえよな。プロ意識がないのかね。」

「いつも猿さんが、我々の背中を押してくれるんで助かってますよ。5番、俺の弓を見ててくださいね。」

「わーってる。俺は、バルを自慢したかっただけ。はっ。」

ジャッ!

大きく振りかぶってシンバルをぶつけ合うのかと思いきや、寸止めして、目の前のわずかな隙間を包むようにシンバルを重ね、すぐに身体に抱いて音を止めた。鋭い金属音は、緊張感が増していた。

眉根を寄せていたかと思うと、シンバルの音に合わせて、ニカっと笑う。やっぱり、あのおもちゃの猿に似ていた。

シンバルはおよそ10万円から高価なものでも20万円だ。弦楽器に比べたら、小銭みたいな金額だと思ってしまう。噂では、猿元さんの自宅には100組に迫るほどのシンバルがあるらしい。


客演の指揮者は、2年前にブザンソン指揮者コンクールで優勝し、華々しく世界デビューを果たした若者、出門一樹。ブザンソン・コンクールは、日本人では過去に小澤征爾が優勝したコンクールとして有名で、世界の3大指揮者コンクールの一つとして数えられている。

新しい時代の指揮者として、新解釈を次々と成功させてきた経歴があるが、海外志向が強いのか、あまり国内での演奏機会が多くはない。保守的な音楽を好む日本の風土は、革新を是としない暗黙の解釈が浸透しているのを、指揮者自身がよくわかっているのかもしれない。

今回のコンサートでは、当団のメインスポンサーである企業側から、冬の第九だけではない、ベートーヴェンの魅力を夏に聴かせてはどうかと、指揮者も含めたサジェストがあった。コロナ禍が明け、活気を取り戻しつつあるオケ界隈を盛り上げるには、格好の人選と選曲だった。


ラッパ隊の列に金管のリーダーの姿を探すが、見つからない。仕方なく、ボントロの阿迦尾さんに声をかけた。

「虹人さん!雉田さんって、やっぱり帰られてます?」

「え?ボク知らないよ。ちょっとさぁ、ゲネプロ終わりでこんなこと言うのもなんだけど、今までの時間、なんだったの⁉︎って感じよね。」

「ほんとうに。みんなびっくりしちゃってましたし。ほんの数回とはいえ、指揮者が解釈をころっと変えないでほしいですよね。」

「いやいや、そういうことじゃなくてぇ。あれは、こっちを信頼する気になったからだって思っちゃった。ボク、嬉しくなっちゃって。てっきり、桃クンもそうなのかと思ってた。」

あれ?嬉しくなっちゃった…って、出門の指揮が良かったってことなのか。確か、阿迦尾さんはフランスに留学したと言っていたような…。

「あぁ、えぇ、新しい時代の指揮者、なんて言われてますけど、あれが柔軟な解釈なのだとしたら、演るこっちの身にもなってほしいですよね。」

「まぁ、そうだね。あ、出門クン、チェロ弾きらしいから、金管よりも弦のほうが聞こえてるのかもね。ゲネプロ、止まらなくて良かったぁ」

「本番は心配なんで、今までの当団の解釈を踏襲していくほうが、いいかなと思ってるんですよ。」

「えーっ!出門クンが振るのに、なんか勿体ないね…。まぁ本番で今日の棒を見せられたら、とんでもないことになってたかもね。さすがコンマスさまさま。…えと、雉田っちに伝えとく?」

「あ、雉田さんには、私から話します。」

「おっけー。」

阿迦尾さんは、古くさいハンドサインを作って、にっこり笑った。目は笑っていなかったけれど。


雉田さんは、当時は珍しい女性団員として入団し、着実にキャリアを積んできた。学生時代におもだった賞を得て、先の見えないソリストではなく、早々と楽団に所属する道を選んだ。

男社会のオケの中で、飄々と立ち回り、ラッパ隊のメンバーたちだけでなく、歴代のコンマスの信頼も篤く、団の精神的な支柱として頼りにされている。

結婚して子どもを育てていることもあって、練習が終わると、すぐに帰ってしまうことが多い。若い団員の中には、音楽的な相談だけではなく、キャリアについての悩みを打ち明けるものも多いらしい。

戻ってきた雉田さんは、歯ブラシの入った小さなコップを手にしていた。演奏前に歯磨きするのも珍しいけれど、吹き終えて歯磨きしているのは、雉田さんくらいのものだ。

「あ、桃井さん!本番、プランBでいく、でいいですよね?」

俺の表情を見て、もう分かったと言わんばかりに、手短に核心を突いてくる。さすがだ。“プランB”は、雉田さんだけが使う「コンマスに合わせる」という”指示”だ。

ラッパは舞台上の高い場所に座るからか、鳥のように俯瞰してオケを見てくれる。お子さんが生まれてから、音も良くなっているし、何より団員たちの扱いが巧くなったようだった。

ひょっとして、俺たちみんな、子どもに見えるのだろうか。



8月24日、本番。

当団が使い慣れた、ホームグラウンドのようなホールの3,000を超える客席は満席に近かった。新進気鋭の指揮者と、誰が聴いてもわかる曲名に、吸い寄せられるようにチケットが売れたのだろう。

聴衆には同業者も多くいるはずだ。名前をもじって“若き出門デーモン”、なんて呼ばれている指揮者マエストロの凱旋公演とさえ言われるほどの人気ぶりだ。

加えて、十八番と言われている交響曲第5番を5年ぶりに演るのだ。若い団員は、その喜びと緊張に浮き足立っているように見える。

灼熱の街から、涼しい森に入ったような涼しい会場だったが、客席にひしめく聴衆は、音の波を欲していた。

ステマネが板付きの指示を出す。時間だ。団員がするすると舞台に流れ込んでいく。聴衆の空気がふわっと緊張するのがわかる。すべての団員が舞台に出たのを確かめてから、コンマスが入場する。

チューニングのために、Aの音を伸ばす。重なるように、追いかけるように、でも慎ましく抑えた音量でさまざまな楽器の音が鳴って、そして消えた。

席に着くと、背後から指揮者の歩く足音が聞こえてきた。若き出門デーモンの登場だ。客席から拍手が沸き出した。拍手を味わうようにゆったりとした動作で、指揮台に向かう。

指揮者とコンマスが握手をするのも、儀礼的だがすっかりお馴染みになった。コンサートの成功を祈って、また宣戦布告の意味も込めて、強く手を握り返す。

出門は指揮台に立つと本番用の、少し長いタクトをジャケットの胸元から取り出し、不敵な笑みを虚空に投げた。俺は素早く視線を走らせ、犬山、猿さん、雉田さんと視線を交わした。大丈夫だ。


静まり返った客席に、音の波が叩きつけられる。

当団俺たちの、運命が始まった。




初めましてのご挨拶もせずに、白鉛筆さんの企画に参加しています。4周年、おめでとうございます。遅ればせながら、初めまして、もつにこみと申します。

素敵な企画ありがとうございます。僕が「桃太郎」を書いたら、こんな感じにしたい。と悩みながら書いてみました。 #白4企画応募

投稿日が限定されている企画、間に合って良かった…!

吹奏楽やオーケストラなどの経験された方には分かるであろう言葉を散りばめました。一般的ではないので、読みにくかった部分もあるかと思います。ゲネプロやコンマスについては、文中でも説明を試みています。


用語解説

ゲネプロ:ゲネラルプローブの略(ドイツ語で、全体練習、通し稽古)
リハ:リハーサル、練習
オケ:オーケストラ
スワブ:楽器の管の中を掃除するための布
楽聖:ベートーヴェンのあだ名
ラッパ:トランペット
ボントロ:トロンボーン
ステマネ:ステージマネージャー、舞台監督

コンサートマスターである”俺”の名前は、”桃井太郎”と言う設定でした。シンプルな名前なので、きっとどなたかの物語にも出てくるのではないかと期待しています。


改めて、参加させていただきありがとうございました!


#音楽 #企画 #創作 #桃太郎 #運命

最後まで読んでいただき、ありがとうございました! サポートは、僕だけでなく家族で喜びます!