死との対面
タイトルの通り、この話では死を扱います。
受け取り方に不安がある場合は、読まないことをお勧めします。
また、昨今のウイルスとはまったく無関係です。
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義理の祖母が亡くなりました。
いつもどおりの平日の早朝、天国に旅立ったという報せでした。
生前、教職に就き厳しい存在であったと妻は言っていました。僕たちの結婚を喜んでくれて、式に出席できるよう日取りや時間を考慮したのは懐かしい思い出です。子が生後3か月の時、当時住んでいた地に赴き、抱っこしてもらったこともありました。
そのひとの死を、子にも見つめてほしい。僕が考えたのはそれでした。
生きていたひとの命が尽きること、死という完全な沈黙が一体どんな印象なのか、それは生前の姿を知る人にしか分からない感覚のようなものがあると思っています。大切な人との別れとして語るなら、そんな体験は少ない方がいいのかも知れません。
幼い子どもにとって、それは残酷であり辛い経験かも知れないという考えもあります。知らなくてもいい事実、といった表現でもありそうです。
でも、僕は子どもの頃にそういう体験がなかったからこそ、死という存在が遠くにあり、またタブー視されるような環境で育ちました。身近な人の死が、あり得ない出来事として捉えられていると、死そのものが不在となり、ひいては命の尊さが実感として体得できていない状態になるのではないかと思います。
人にとって「死」が不可避である事実は分かっていたとしても、人の死がもたらす気持ちの変化については想像だにしない、そんな人間性を身に付けてしまう怖さがあると感じていました。
死を見つめる、それは色々な方法があると思いますが、僕たち夫婦が考えたのは、亡くなったその人を見つめる、という方法でした。
安置されている場で、その人と子とともに過ごすということでした。面会の朝、ごはんを食べながら、「今日は、亡くなったひいばあばに会いに行こう。最後のごあいさつ、しようね」と言ってみました。子はハッとしたような表情を浮かべたのち、涙をポロポロ流して泣いてしまいました。
「いなくなって、悲しいよう・・」とつぶやく声。
僕にとってそれは、意外でした。
子は、「亡くなった」という言葉が「死」を意味しているのは、すでに知っていました。しかし、身近な人の死を体験したことがなく、僕は「怖さ」のような気持ちがでてくるのではないかと考えたのです。
でも、そうではなく「悲しい」とはっきりと言えたことに、面会も意義のあるものになると確信したのです。
安置されている場所は、僕たちも初めて訪れる場所でした。そこには、眠っているようなその人がいました。静寂な空間に、死と生が対峙しながら時間が過ぎていきました。
悲しみがあふれるでもなく、現実から逃げ出すわけでもない、そんな気持ちで過ごせたこと、手を合わせてひとときの祈りができたこと、僕にとっても大切な経験のひとつとなりました。
子は、妻のそばから離れずいたものの、声をかけたり、手を合わせたり、身体は目の前にあるのに命がなくなっている、という死を直視することが出来ていたはずです。怖さも寂しさもあったはずですが、それよりも驚きが強く感じられているように見えました。
辞去するとき、子は感極まって声を上げて泣き出しました。
建物の外だったこともあり、その声の大きさに気後れしてしまいましたが、
泣いている子を見て、人の別れ方を体験する貴重な機会ができたと思えました。
大切な人の死は、何を言ったとしても悔やまれるものです。
しかし、自分が生きていることの意味は、死を見つめる時にこそ立ち上がる疑問でもあると思います。幼い子に、そのような体験が出来ることを期待しているわけではありませんが、母や、祖母、そして曾祖母とつながる命のことを、涙を流しながら聞く姿を見ながら、人生の大切な経験が出来たのではないかと思います。
宣伝になってしまうようで心苦しいですが、お世話になった葬儀社の言葉が印象的です。
死者に対する
最高の手向けは
悲しみではない
感謝である
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