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句読点は「、」英語だった「。」

長年、それこそ小学校に入学して作文というものに出会ってから、僕の頭の中には、解決できていない日本語問題がありました。

それは、句読点ってどう打つのが正解なのか?

日常会話で、句読点を意識することはまずないでしょう。しかし、こうして目に見える形で書くとなると話は別。

読んでいるときには頭の中で音読しているからって話し言葉のようにこんなふうに句読点を打たずに書くわけにもいきませんから

かなり前の投稿ですが、特許翻訳という仕事やご家族とのことを、温かみのある言葉で綴るカミーノさんの記事を読んで以来、句読点問題はいよいよ鮮明になってきました。(大袈裟)

僕は共感とともに、悩みながらも「それも個性!」みたいな半ばこじつけ感のある解決をしていました。だから、結局は解決していないという・・。

句読点の“意味”として僕が考えていたのは、

・形式として調整するための記号
・声に出して読む時の目印
・空白を嫌う印刷に対する補填 など

しかし、小学生以降、教科書を読み上げるという音読は激減し、句読点は目で読む時の理解を助ける記号としての役割であるように思っていました。

カミーノさんの記事を読んでから少し経って、自分の誕生日に本を買うことにした書店で、この本を見つけたのです。

日本語をどう書くか
柳父章

この表紙のかっこいいこと。文庫本だったこともあって気軽に読めそうだなと思い、購入してみました。noteの投稿が、もっと上手くなるかも、とも思っていました。

まず、この本で紹介されていたことで衝撃を受けたのは、これ。

話し言葉と、書き言葉は、
「違う言葉である」

どーん!!

いや、どっちも、日本語じゃないですか。何が違うの?と混乱しているところに、筆者はたたみかけるのです。

書き言葉は、英語を翻訳するために「人工的に」作られた言葉であり、その文体もまた時間をかけて、時代や使い手の要請に応じた形を獲得し、今なお定まっていない。

つまり、書き言葉が必要になったのは、翻訳した本を出版することを契機としていたのではないかと筆者は考察します。

その中で、漢字の熟語であったり、独特の語尾(〜である)が生み出されていくわけです。本文が、なかなかに難解なので、筆者の言わんとすることが、とても回りくどく感じるのですが、つまり翻訳するために“書く日本語”を再構成していたのです。

さて、句読点はどうかというと・・もう分かると思うのですが、句読点は書く日本語だけに与えられています。話し言葉に句読点は表現されません。

そして、句読点もまた、翻訳の必要から生まれた記号なのです。カンマやピリオドが含まれる英語の文章に合わせて、句読点が打たれたのです。

文末は句点「。」というのは、比較的受け入れられやすいのですが、難しいのは読点「、」でした。文としてのまとまりは簡単に理解できるものの、“小さなまとまり”は確かに明確に説明できないのです。

二葉亭四迷の「浮雲」が、その始祖とされており、彼の試行錯誤とともに、句読点の使い方が試されていたようです。ただ、言葉の発達にはつきものの“新しい言葉や表現は幼稚である”という発想もあったようです。

『読方入門』でも、子ども向きの本文では「。と、」を併用していても、教師向けの序文では「。」しか用いないていない表記法であった。

読方入門とは、当時の国語の教科書のようなもの。

筆者はさらに日本語表現へと議論を進めていきますが、僕にはとても難しく感じられました。

筆者は、日本における学問が、この書き言葉の発達によって、漢文訓読的なものになっていると指摘していました。確かに、学校の科目というは二字熟語であるし、書いてある日本語が“読め”ないと、問題の意味がわからない文章題なんてのもあります。

僕も中学生で英語に触れた時、あまりにも言葉に違和感があったのを記憶しています。テキストの2人は会話しているはずなのですが、日本語にするとどうも文通しているような感じ、というか。

言葉が堅くて、話し言葉じゃなかったこと、単語ごとに意味を捉えても、繋げたときに口語的な表現が要請されること、そんな違和感は、この作品によって緩和されることとなりました。

この本の要点を、中学生にもわかりやすく伝えてくれたら、英語の授業も違和感なく取り組めたかも知れません・・。

翻訳家で文筆家だった外山滋比古の文体は、日本語表現として、とても良い手本として紹介されていました。僕も何冊か彼の著書にあたった記憶がありますが、彼は「句読点は少ない方が良い」といった考えを示していました。

また、外山による「品位の高い文章(文書)には、句読点を用いないことが求められている」といった指摘は、普段慣れ親しんだ句読点への惜別のようなものを感じてしまいます(笑)

身近なところでは、結婚式の招待状などは、確かに句読点はありませんでした。

カミーノさんの記事をきっかけにして、気になる本を見つけて、句読点について考えみたら、やっぱり解決はしないけれど、書く日本語の始まりが英語だったとか、カンマやピリオドを真似て句読点を作ったというのは、意外でした。

ともあれ、翻訳を仕事にされている方が、句読点のことを悩んでいること、時代が変わっても解決していないのだなぁと、ちょっと安心してしまうのでした。

本は出会い。

またひとつ賢くなりました。



#読書の秋2021  #日本語をどう書くか #句読点 #翻訳 #言葉





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