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人の心が、種ならば #創作大賞感想

バウリンガル、というおもちゃがあった。バイリンガルと、犬の鳴き声をかけたネーミングは、犬語翻訳、つまり犬の言葉が分かるという代物だった。

犬に限らず、飼っているペットの言葉がわかったら楽しいだろうなと思ったことは、ペットを飼っている人なら一度は考えたことがあるかもしれない。

昔話にも、「聞き耳頭巾」なんて話があって、動物の言葉を聞きたいという欲は、遥か昔からありそうだ。いざ聞いてみたら、飼い主の悪口や愚痴ばかりだったら、笑えない冗談だ。

豆島圭さんの小説「言の葉ノ架け橋」を読んだ。

創作大賞の応募期間が終わり、なんとなく緊張していた肩周りから力が抜けた。今回は、自分の作品も出したかったし、昨年よりも多くの感想文を書きたかったから、並行して書いたり読んだり書いたりしていた。

加えて、ベストレビュアー賞を目指している方に向けた投稿を書いたものだから、俄然(勝手に)プレッシャーを感じていた。読まねば、書かねば、と仕事でもないのに熱心に時間を費やしている。

と、自分のことはいい。きっと間に合いそうな気がして、この作品を読み始めた。それは、正解だった。

パグのフガフガに癒され、ヨウムの賢しさに笑わされ、人間たちの優しさに救われた。こんな施設があることを知らなかった。知ろうと思うのは、何かあってからだっただろう。小学生になる子を持つ親として、書いていただいてありがたいと思う。

お仕事小説の醍醐味として、追体験や新しい知識に触れられる点がある。隠れていた仕事が明るみになって、それを支えている人たちの姿を想像できるようになる。

この作品のように、動物を介して子どもたちや保護者に接している施設は無さそうだけれど...。中の人たちの熱い気持ちに触れて、心地よくなる。

描かれている親たちに、ふと自分を重ねてしまった。子どもの心配なのか、成績の心配なのか、憂いている将来とはそもそも何だろう、と思う。

ただでさえ、先の見えない世の中だというのに、親が想像できる未来など、じっさいには役に立たなそうだ。こうして冷静に考えていれば、分かってはいるけれど、いざ子どものこととなると、冷静ではいられないかもしれない。

タイトルにもある、“言の葉”とは、古今和歌集に起源を持つ“言葉”らしい。何やら循環理論のようになってしまった。歌集の一節に「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」と書かれており、人の心から、葉のように言が茂る様子が説かれているらしい。

種を育てるのは、それを持つ子どもだけでなく、周りの大人たちにも関わってくるのだと思う。花や実のことはまだまだ先にあるけれど、たくさんの葉を茂らせてあげたい。

言葉にする、言葉にできる、たくさんの葉があれば、選ぶことができる。少しの葉では、誤解されてしまうかもしれない。多くの葉があれば、トゲトゲの葉っぱを投げつけられたとしても、柔らかく受け止められるかもしれない。

まずは僕から始めたい。
言葉をかけてあげたい。


#創作大賞感想 #言葉 #動物

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