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それは簡単で、切実な問いかも知れない

毎日毎日、よく続けられますね!

noteというSNSで毎日書いている、と誰かに言ったとしたら(リアルな場でnoteのことを話すのは妻とだけ)、こうやって聞かれるかも知れない。

noteに限らず、例えば誰かに言ったことはあるだろうか。

その言葉をかけたときの心情は、一体どんなものか。自分がそれだけ続けられないという諦めや羨望からなのか、それとも続けていることがあって継続の大変さを知っているからなのか。

続けること、それは諺になるほどに、誰でも知っているけれど、誰にでも出来ない・・そんなことなのかも知れない。もちろん、習慣化すれば大丈夫とか、目標を細かく設けるとか、たまに休むとか、そういった「続けるコツ」のようなものはあるけれど、とにかく”続ける”と聞くだけで、もう止めて・・と思う人もいるかも知れない。

この投稿では、続けるコツを伝授しようなどと烏滸がましいことは意図していなくて、もうちょっと手前のことを考えてみたいと思って書き始めてみた。

ここnoteに、文字で表現している人はとても多い。書いて終わり、ではなくて、読んでもらいたいと思っている、そんな文章に多く出会うことができる。それぞれが、何か動機があったり、目標があったりするもので、その目的に向かって「書い」ている。

いったい「書く」モチベーションはどこから生まれているのだろう。歌うでも描くでも、そして話すでもなく、なぜ「書く」を選んでいるのだろう。(きっと両立している方も多いとは思う)

誰かが書いている(書いてくれる)から、自分も書きたくなるのかも知れない・・と書いたのは、み・カミーノさん。定期的に僕に問いを投げてくださっている(と勝手に思っている)ので、今回もその問いについて考えてみたい。

なんで、書くの?

本当に、なんでだろうか。

本名や顔写真、勤務先や住まいなどは明かしていないものの、読む人が読めば、結構自分自身のことを書いているし、さらには家族のことも書いている。そんなに自分のことを書いて、何が面白いの?と何度か聞かれたことすらある。

自分のことを書く、と言っても、何というか「100%」は出していない(と思う)。これは経験があって思うことだけれど、同じようなことを考えていたり、困っていたりする人がいたら、もしかしたら役に立つことをしているかも知れないと考えて書く。

また、記憶に残したいから、記録のために、そんなふうに考えて書くときもある。子どもの何気ない言葉や、初めての経験を共有できた時など、いつか忘れてしまうかも知れない瞬間を切り取るような想いで書く。

好きなものを、誰かにも試してほしくて、むしろ一緒に好きになって欲しくて書くこともある。布教なんて呼ばれているようだけれど、推しを幸せにするために、推しに認めてもらうために、共感してもらう以上に、それを知らなかった人が「ちょっと良さそう」と気がついてもらうために書く。

書くための理由、のようなものはいくつか浮かんできたけれど、本質的な「なぜ書くのか?」はもっと奥に答えがある気がする。つまり、表現の方法として「書く」を選んでいるのは何故か、と問われているのではないか。

なんで、「書く」なの?

確かに「書く」を選んでいるのは、自分自身であり、何ならそれは小学校に入って、字を覚えてから、僕が選んだ表現方法だと思う。

いくつかのきっかけがあって、書くことをやってみたり、続いてみたり、そしてやめてしまったりしている。書かねばならない場面も、学校や仕事で経験しているけれど、書かなくてもいい場面でもこうして書き続けているのは、僕としては大きな理由があるのだ。

問いへの答えを考えているうち、ハッと思いついたのは、僕自身がいつだって感じていた「話すのが苦手」という意識だった。

つまり、話せないから、書いている。

話すのが苦手と思うのは、僕自身はこういう動機を持っている。

「話すことは、とても不安定」だから

それは、ニュアンスを感じ取ったり、語調から話し手の気持ちを察したり、言葉にならない言葉を汲み取ったりすることは、僕にとって非常に難しいことだという思い・・むしろ観念というべきほどに強い確信めいたものがあるのだ。

今でもよくあるが、”話し”をしていると、僕は「本当のこと」を言葉にしてしまうことが多い。仲の良い友人なら「それ、言っちゃダメなやつだろ(笑)」と笑いに変えてくれるのだが、仕事の間柄などでは「それ、冗談で言ってますよね?」みたいな表情になっているのを感じている。

もちろん、冗談など言える場ではないのは僕も理解しているし、相手も分かっている。放り投げた言葉は、僕が無自覚のうちに、誰かを傷つけていることがある。自分自身の評価が下がっている、と言い換えられるかも知れない。

しかし、僕にとって「書く」ことは違う。

妙なことかも知れないが、僕は電話で話をするよりも、LINEやメールで書く方が的確に意図が通じていると感じられる。おそらく、何度も何度も相手の言葉を反芻(読み直し)できるから、自分自身の言葉も反芻されて出てくるのだと思う。また、書いていて「これはちょっと違う」と思ったら消してしまえばいい。

言葉を、自分の言葉として放り出すまでの時間は、圧倒的に話す方が早い。僕は、考えながら話すことが、多分、できていない。

ただ、本当の意味での”自分の言葉”を求められているのは、友人たちとの会話だけのような気がしてきた。仕事中は、何か意見を求められているとしても、自分の言葉ではない。役割という鎧は、言葉の攻撃力を少し下げて、言葉からの防御力は大きく上げてくれる。それが相手も同じだということを、忘れてしまうのだ。

書いていれば、こうして考えながら言葉を並べていくことができるし、何よりも書き直すことも、消し去ることもできる。そうした安心感の中で言葉を放り出せるから、時間はかかっても自分の中で納得して言葉にしている節がある。

結果として、書くことが、僕自身を守ってくれる表現方法なのかも知れない、そういうふうに思えてきた。それは、明確に意識するわけでもなく、いわば信じていたようなことかも知れない。

書くのが好き、というわけではなかった・・「書くほうが安心する」のだ。

だから、書いている。


なんで、書くの?

それは、ほかの手段に比べて、自分の放り投げた言葉で傷ついてしまう誰か(自分自身も含む)が、より少なくなると信じているから。

なのである。

答えになったような、なんにも答えていないような。いずれにしても、僕はひとり納得した思いがする。長々と独り言に付き合っていただいたとしたら、それは大変ありがたいことだし、書くことを肯定されていると信じていいのではないかと思える。

日々、noteでお会いしている方にも、ぜひ同じことを聞きたい。

なんで、書くの?




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