探し物はなんですか #創作大賞感想
我が家を買うにあたり、とある神社に何度か通っていたことがあった。家探しは、住むまち探しであり、物件の周囲の施設、住人、雰囲気も含めて、何かと気になることがあるものだ。
あるとき、その神社のあるまちにも、候補物件があって、いま買わなければすぐに予約が入る、という常套句に慌てた僕たちは、おみくじを引いた。
転居 「いそぐな」
単なるくじ、されどおみくじ。我々は素直にその言葉に従って、その物件を諦め、もう一度地元から見直した。
1か月ほど経って、毎朝の通勤経路沿いにあり、予算を超えていると諦めていた物件が、年末に売れ残らぬようにと大幅に値引きされていた。それが今の我が家である。
迷った時に誰に聞くか、多くの人にとっておみくじは正解ではなさそうだけれど、人生経験豊かな人に聞く、が定石だろう。
なかなか行くことができない場所と経験、エッセイで同席したい。斉藤ナミさんの「人生の答えを探し求めてゲイバーを訪ねた夜」を読んだ。
知らず知らずのうちに、自分とは違う人だ、と決めつけてしまうことは往々にしてある。多様性だダイバーシティだと言っていても、多様な“違い”なのだ。
違うことはいけない事だ、と同調圧力という四字熟語で丁寧に育てられた僕には、多様性の尊重はまるで手のひら返しのようで、なんとなく居心地が悪い。しかし、それをひた隠しにしながら、笑顔を貼り付けているのも落ち着かない。
書き手は、当初ゲイバーに場違い感を感じていた。きっと、僕も同じように感じるだろう。"違い"すぎる人たちがいるのだから、"違う"に決まっている。
目的を果たすために、タイトルにある質問を投げかけると、書き手が思っていなかったことと、思っていた通りのことが起きた。それを解説した「おかあさん」の下ネタを含んだ言葉に、読み手もやや困惑しながら頷くしかなかった。
生きづらい、と流行語のように見聞きする機会が増えた。声を上げられるようになった、と見るか、さまざまな問題が解決できないまま世界が進んでいる、と見るか。
生きづらさの始まりに、"違い"があるのだとしたら、その"違い"はどうしたら埋まるのだろう。お互いに妥協し合うのか、相手が全てを受容するのか。いや、そうじゃない、埋まるわけがないのだ。
ゲイバーにいるお客以外の人たちは、働いていた。笑って、酒飲んで、客をイジって、果たして楽しんでいたのだろうかと、急に不安になった。楽しい振りをしていたのなら、きっとそれは客としても本望ではないだろう。
書き手の帰り際「おかあさん」の口から出た、また来てね、は商売だからこその言葉なのか、彼の本心からなのか。客はお店を出れば終わりだけれど、彼らはお店を出たときに、何に戻るのだろう。
人生の意味なんて、やっぱり分からないし、分かろうとしているから生きづらくなるのだとしたら、彼らのように酒飲んで笑っていたら楽しいだろう。それを探すから楽しいんだ、みたいな陳腐な解決方法ではなく、書き手のように思えるならば、また誰かとゲイバーに行ったら楽しかろう、なんて思った。
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