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旅にもつ2020・2019

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旅する日本語2020、2019のために書いたもの。初めてのショートストーリーの創作。
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#東京都

靴磨き

心が落ち着かないときに、僕は靴を磨く。 いや、僕が靴を磨いているときは、悲しかったり怒っていたりするのだと、きみが教えてくれたんだ。 新聞を広げて、靴紐をすべて抜いてから、ブラシで埃を払う。布で軽く拭いて、クリーナーを伸ばして、拭き取るよ。 靴墨をキズやスレに載せるように塗って、柔らかいブラシで伸ばすように撫でる。僕は、この独特の香りがたまらない。つい深呼吸しながら、表面を見つめてしまう。 寧静と呼ばれる、このひとときが僕を癒やしているのかも知れないな。 靴墨は、東

贈り主

「梨で、ご飯が食べられるくらい好き」酔った勢いで言った気がした。 先生は、聞き逃さなかった。 それ以来ずっと、秋の始まりに、梨を送ってくれた。先生の地元は、とても甘くて大きな梨が穫れる東京都の西部。 去年の冬、転勤が決まって便りを出した。梨の御礼と、次の秋への期待も込めて。 返事が来た。 先生は、ほんの数ヶ月前にこの世を卒業したらしい。驚きと悲しみが押し寄せ、泣いた。 「桜の時期に、梨も咲くんだ。梨は背が低いから、雪景色みたいだぞ」 先生の笑顔を思い出した。

演奏家

(開演のブザー) 客席が、さっと静まる。 ここは、東京都の蒼月ホール。 カツ、カツ、カツ、カツ。 メトロノームのように正確なリズムを刻み、男が歩いてきた。舞台で艶めくスタインウェイに微笑みかけながら。 ペコリ。 音がしそうなくらいコミカルな動きで挨拶をすると、激しい雨のように拍手が起こる。 ザザザザー。 男がスタインウェイに手を触れ、椅子に腰かける。ふっと息を吐いて、タキシードの袖をまくり、髪に手を遣る。 ゴクリ。 今度は客席からの音だ。観客は、最初の音を