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The hole

あらすじ
 中学時代にいじめを受けひきこもりになった平井泉は、たった一人の心のよりどころだった父の死をきっかけに、自分をいじめた三人を殴って終わりにしようと考えた。かすみを殴り、いじめの中心人物だった麗子を殴った後、残りの一人、教師になっていた果歩を殴るために瀬戸内海にある島へと向かうが、麗子の兄、優一がついてくる。優一もひきこもりの経験があり、泉の持つ穴の闇を知っていた。
中学で泉をいじめた果歩は高校でいじめに合う経験をしていた。泉は果歩を殴り目的を果たしたあと、自殺を図るが、優一と果歩に止められる。泉の穴は埋めることができるのかはこれからだ。


 緩やかな坂道の上にやけに赤みがかった月が浮いている。流した涙と同じ分量の痛みをまるめて固めると、今夜の月のようになる気がした。

 いまやらなければ穴からは這いだせない。やっとの思いでここまできたんだ。平井泉は震える手足を同体からもぎ取りたかった。

 追い打ちをかけるように坂下からヒールの音が近づいてくる。携帯で誰かと話しをしている。笑い声が聞こえる。

 プラタナスの街路樹の陰に隠れていた泉はよろめきうずくまった。父さえ生きていれば過去を穴の底に沈められただろう。一人ぼっちの泉が何をしようと悲しむ人はいない。弱気になるな! ひるむ手足に額を打ちつけ、どうにか立ち上がり歩道に飛び出した。

 バイクのクラクションが鳴り、泉は一瞬、立ちくらみがした。

 ヒールの足音が止まった。

訝しげに眉根を寄せる顔が、街灯の光に照らされている。

「前原麗子、あんたを殴りに来た」

 震える声で言い放った。

「なんなの?」 

 前原麗子は抑揚のない声で返した。半そでの黒いTシャツから棒のように下がった両腕を持て余している小柄な泉を一瞥すると「誰なの?」と訊く。

「中学の一年間。あんたにいじめ抜かれて学校に行けなくなった」

 やっとの思いで泉は声を絞り出した。

 麗子は「ああ、そう」と言ったきり、突っ立っている。恰好のいい丸い顔は昔のままだ。

 彼女は、自宅の門扉に手をかけようとじりっと体の向きを変えた。

 ここまできて逃がしてたまるか。泉は麗子の肩を両手でつかんだ。

「放してよ」

麗子は手に持ったバッグを振りあげ振りおろした。泉は両腕を引っ込めた。

「あんたまともじゃないよ。誰か知らないけど病院で見てもらいなよ」

「……少しも、悪いことしたって思ってないの……」

怒りが急速にしぼんでいく。この腐った頭にわたしはひとかけらの痕跡も残していないのか。

「あんたのせいで……わたしは……」

 麗子は白い歯を見せると

「勘違いしていない? いじめた人間は大人になったら昔のことを反省して、申し訳なかったって、毎日のように悔やんでいるとでも思っているの? そういう被害妄想の頭のやつは最初っからいじめられる側にしかなれないのよ」

「ひどい!」

「だるいんだよ。みんなに溶け込めないあんたはほんの一ミリも悪くないって言うわけ?」

 憤怒が再燃した。

「この八年間、父さんの顔しか見ないで生きてきたけど、あんたの顔を忘れたことはない。でも、でも、終わらせたい。わたしをいたぶり喜ぶ残酷な顔を頭の中から消したいのよ。ここで一発殴って忘れてやるわ」

 泉は麗子の右頬に向けて握りしめた右手の拳を突き刺した。

 麗子の頬に当たる感触はあったが衝撃が伝わってこなかった。それでも、麗子はのけぞり尻もちをついた。バッグは羽が生えたように車道へ飛んでいった。

 泉は肩で息をした。

 麗子は声を出さずに泉の顔を見上げている。身じろぎひとつしない。いじめる側は叫び声の出し方を知らないのか?

「どうしたんだ」

背中から若い男の声が聞こえた。地面に吸い付くスニーカーの靴音がした。

振り向く前に、靴音の男はバッグを拾い泉を押しのけた。

「麗子、大丈夫か」

 男は前原麗子の腕を掴み立ち上がらせた。

「警察に通報するならするがいい。ここに来る前に井田かすみのところにいって、同じように殴ってやった。あいつもぼぉーとしてだんまりだった」

 泉は麗子から目をはなし、ぶるぶる振動する体をなだめながら歩き出した。

「ヒライズミ!」と呼び捨てにする麗子の声が耳を打った。

 泉の方へ駆け寄ろうとする長身の男が目の端に映ったが、麗子が止めたような気配が感じられだ。

 ひきこもっている間、雨の日が好きだった。自分の代わりに亡くなった母が泣いてくれているような気がしたからだ。母は、嫌なことをきれいにしてくれるお水があふれるようにと思って泉と名づけたと言っていた。

「何サマなんだよ……」とつぶやく麗子の声が聞こえた。

 振り返ると月は白金のような輝きに変わっていた。そしていつもの大きさに戻っていた。


 平井泉は、ぼったりしたデニムバッグを肩から斜めにかけて玄関のドアに鍵をかけた。両親の位牌が並ぶ仏壇は扉を閉めてきた。

日中、出歩くことはほとんどなかった。乗り物で移動することも。

表通りにでると、いつの間にか夏が来ていたんだと蝉の声を聞いて、脳が緩やかに思考を始めようとしていた。黒いTシャツの背中に熱が集まってくる。

太陽の光が泉が今からしようとしていることを見ている気がして左手首につけた腕時計を右手で掴んだ。黒い革のベルト、丸い本体にシンプルな文字盤。父が大切にしていたものだ。深く息を吸い込んだ。

駅までの二十分弱の間に、泉の知らないマンションが二棟もできていた。ショッピングセンター入口の一番目立つ広い場所に有った携帯電話会社の店はスターバックスに変わっていた。時間が流れていたことを泉以外の大勢の人の日常が教えてくれる。

地下鉄の切符を買うだけで、手が震える。泉は自分に大丈夫だと言い聞かせる。何度も繰り返しシュミレーションしたではないか、なるたけドラマチックにならないように目的が達せられるようにと。

 それでも、冷房の効いた車内で汗が流れてくる。

 二駅が過ぎたところでトンネルに入った瞬間、悲鳴をあげそうになった。

 三十分弱で新神戸駅に着き、改札を抜け、四回エスカレーターに乗り新幹線の切符売り場まで来た。デニムバッグから数枚の紙を取り出す。泉は、今ならだれもが持っているのであろうスマホを持っていなかった。家にあるパソコンで目的地までたどり着けるよう地図と時刻表をコピーして持ってきていた。

 改札横に並んでいる券売機の前に立つ。地下鉄のそれとは明らかに違う。ただ単に行き先を押すだけではなかった。想定外で指先が行き先を探し当てられないでいた。

「やってあげようか」

 後ろから声をかけられた。たった一度だが、聞き覚えのある声だ。泉は返事をしなかったが、後ろから腕が伸びてきて券売機にタッチした。白くて細い指だった。

「自由席? 指定席?」

「……」

「そんなに混んでなさそうだから自由席でいいよね。嫌なら首を振って――、じゃ、自由席でいいんだな。行き先は? これは言葉で行ってくれなきゃ」

「……福山」

「じゃ、山陽新幹線だね。黙っているのはイエスでいいとするよ」

 男は軽快にパネル操作を進める。

「きみ、一人でいいんだよね。じゃこれでいいよ。後はお金入れて、七千十円だって」

 男は隣の券売機へ移った。

 泉はカバンから財布を取り出し一万円札を入れた。乗車券と特急券を取り、隣を見ると男の姿はもうなかった。

なぜ、行き先を言ってしまったのだろう。なんの目的があって麗子に駆け寄った男が近づいてくるのか? 報復のためだろうか? たぶんそうだろう。ひとつひとつ難関を突破しなくてはならない。

 改札口のうえの掲示板で十時二十一分発の出発時刻を確認する。発車までには二十三分。改札機に切符を通し中に入った。

 下り線。右側のエスカレーターでホームまで上がる。高い位置にある駅から三宮の街が見える。アクリル板から陽がまともに差し込んでいる場所に据えられた椅子に座った。

 ぼさぼさに伸びた髪の毛穴から汗が首筋を伝い流れてくる。前髪が目にかかり、うっとうしかった。最後に父に髪の毛を切ってもらってから四ヵ月が過ぎようとしていた。短くそろえられた泉の前髪を見ながら「今までで一番の出来栄えた、父さんも腕を上げただろう」と、満足そうにうなずいていた。

 その翌日、父は勤め先で倒れた。一週間後に意識が戻りベッドわきに座っていた泉と目を合わせた。

「泣くな。お前を残しては死ねないよなあ」と言い、ふぅと息をして目を閉じた。それから父は二度と目を覚まさなかった。

 心配そうに娘を見つめる父の目が泉の眼裏に焼き付けられた。自分はとんでもなく不安でたまらない表情を死にぎわの父に見せていたのだろう。父は娘を案じ続けたせいで、早逝したに違いない。わたしのせいだ。わたしがフツーの子だったら、父は長生きできたかもしれない。泉は気が遠くなるような長い時間、自分を責め続けたこのことに疲れた。

 背中だけが熱かった。

 汗だか、涙だかわからないもので顔はぐちゃぐちゃだった。

 泉の前をスーツケースが通り過ぎた。顔を上げると、新幹線の車輛が入ってきていてホームドアが開いたところだった。


 夏休み前のため、さほど混んではいなかったが、二人掛け、三人掛けのどこかに誰かが座っていて、一人っきりで座れる席が見当たらなかった。泉は、自由席の三両目から二両目に向かって歩き出した。二両目は空いてているだろうかとドアに手をかけたとき、一番前の二人掛けが空いているのが目に留まり、窓側に座った。車両が動きだした途端、外はすぐにトンネルの暗闇になる。窓ガラスに映る顔。目がつり、尖った顎とあわさって、とげとげしさばっかりが目立ち、どん底を味わった人間には映っていない気がした。あちら側の方が本当の自分なのではないかと思う。

「ここ、いいですかヒライズミさん」

 例の男が通路に立っていた。

泉は肩から掛けているバッグの紐を握りしめて立ち上った。

男は軽く手を前にだして泉を制した。細くて白い指、切符を買う時に券売機を操作していた手だ。

「そのままでいいんじゃない? ここで騒いだらおかしいでしょう」

 隣の三人掛け座席の端に座っているサラリーマン風の男性が、小さなテーブルの上に置いたノートパソコンのキーボードを打つ手をとめて上目づかいにこちらを見た。

 泉は腰を下ろした。男の意図がつかめない。とにかく考えなくては……。足元を見つめた。男が隣の席に座った振動が伝わった。

「新幹線に乗るのは久しぶりだ」

 両手を上にあげて背伸びをしているような気配が感じられる。

「前原優一です。昨晩お会いしましたよね」

 泉は、男の顔を見た。家族だったのか。長めの前髪が目にかかって、無造作に見えるが、泉のそれのようにぼさぼさではなかった。さらりとした髪の毛は襟足から肩にまで緩やかに伸びていた。オフホワイトのTシャツにジーンズ。ダークグリーンのリュックを足元に置いていた。スニーカーのひもとTシャツの胸元にある横一線のラインはリュックと同じ色だった。

「麗子はボクの妹なんだ」

「わざわざ仕返しにきたの」

「いや、キミのパンチ、残念だったね。ほんの少し避けられちゃったみたい」

「さっさと殴れば――」

「ボクがここに来たのは、ヒライズミには必要なことだと思うんだ」

「なにを言っているのかわからない」

「ヒライズミはなんで麗子を殴ろうとしたの?」

「あんたにはわからなくても、あいつにはわかっているはず。それで充分だわ」

「あいつか……。麗子がヒライズミをいじめた。子分を従えて、言葉の暴力で、身体への暴力で、まるで人格を奪うようなことを」

「やめて、それ以上言ったら……」

 泉は両手のこぶしを握りしめた。

「そして、ヒライズミは学校に行けなくなった」

 優一と名乗った男は言葉を続けた。泉は、右手のこぶしを男に向かって伸ばした。男は泉のこぶしを左手で難なく受け止めた。

「あ、つい掴んじゃった。本当はボクのほうが殴られなきゃいけないのに」

 泉は、掴まれた手を引くのも忘れて優一の顔を見た。

「麗子が、キミをいじめたのはボクが原因だと思うからね」

「あんたのことなんか知らない。わたしはあいつに――」

 泉は目を硬くつむった。体が震えだしそうだった。

中学校に通っていた頃の自分を忘れたことはない。ヒライズミと呼ばれることで、抑え込んでいた映像が突然迫ってきた。


 何が原因だったのか自分ではわからなかった。

麗子とは同じ小学校に通っていた。目立ったことはしていない。どちらかというとどこにいるのかわからないような子どもだった。麗子は泉の存在にさえ気づいていなかったと思う。

初めて麗子が泉に口を聞いたのは、五年生の時に母親が癌で亡くなり父と二人暮らしになってからすぐの頃だ。

「あんた、なんでそんなに髪の毛がぼさぼさなの? へんなの」

 通りすがりに言われた。いじめだと思わなかった。父が初めて泉の髪の毛を切った翌日だったので麗子にはそんな風に見えたのだろうと受け取った。

 中学生になって、泉と麗子は同じクラスになった。一学期が終わりに近づいたころ、泉とすれ違う時「暗いんだよ」という他の人には聞き取れない一言から始まった。些細な私物が無くなりはじめた。教科書が中庭に投げ捨てられる。ものを投げられる。蹴られる。つねられる。麗子は二人の友達を引き連れ、監視するように泉から目を離さなかった。泉は、三人からヒライズミと呼ばれた。

周りにも聞こえるように暴言を浴びせかけられるようになるまでひと月とかからなかった。それまで、話しをしていた友達も泉を避けるようになった。泉からも話しかけなくなった。

夏休み、泉は家から一歩も出なかった。同じ校区内、いつどこで麗子たちに遭遇するか分からなかったからだ。

父親には相談できなかった。母が死んでから、父なりに母がいない分も泉のために思いを寄せていてくれているのがわかっていたからだ。

二学期がはじまり、当たり前のように登校した。もしかしたら、麗子たちは自分のことなど忘れているかもしれない。甘い期待を抱いていた。

理科教室への移動しなければならない二限目の休憩時間、渡り廊下の手前にある柱の陰に麗子たちに押しやられた。

「元気そうじゃん」

 麗子の目くばせで、麗子の後ろにいた二人が前に出てきて泉の肩を押さえた。

「なにするの」恐ろしさに声が震えた。

「ヒライズミのくせに生意気なのよ」

 麗子は、泉のブラウスの襟元を掴んで一気に引っ張った。頭が前のめりになり、肩を押さえていた二人の手が同時に離され、泉は膝からコンクリートの床に落ちた。ブラウスのボタンがちぎれて飛んだ。三人は理科教室の方へ駆け出した。

 泉のブラウスのボタンはスカートに入っていた下から二個だけ布についていた。ブラウスの前を手で掴んだまま早くなる鼓動だけが脳に響いた。そのまま家に帰った。

 昼過ぎに、父親が家に帰ってきた。娘の名前を呼びながら、玄関からまっすぐに泉の部屋に来るのが足音でわかる。

「いたのか」安堵の息を吐き出している。

 突然気分が悪くなったから先生にも黙って帰ったのだと伝えた。

 父は「そうか」といい、泉の額に手を当てて小さく頷くと、部屋からでて、学校に電話をかけた。「申し訳ありません」と繰り返し、「よく言って聞かせます」と言う言葉で電話を切った。

 父はベッドに横になっている泉を見おろし「泉は父さんと母さんの宝物なんだから、誰にも遠慮しなくていいんだ」と言った。そして、何か食べたいものはあるかときいた。

 こういうことなのだと泉は気づいた。わたしが逃げ出せば父に迷惑をかける。余計な心配をかけてしまうと。

 水をかけられようと、スカートをハサミで切られようと、学校を休んではならなかった。なにをされようが構わないと思うとことで乗り切れると安易に考えていた。

 数日後、ホームルームの時間に担任が学年でいじめがあるという噂があると話し出した。心当りのあるものは申し出るようにと言う言葉で締めくくった。

 噂? 申し出る? ナンノコトダ。ワタシガココニイルノハナンノタメダ、トウサンノタメダ。

 いじめは止まなかったが、感情を消すのも、父親に嘘をつくのも上手になった。

 新学期、麗子とクラスが変わった。一瞬、救われたかと思ったが、物事はそう簡単にははこばない。一年生の二学期の初めに、期待など、持つものではないと思い知っていたはずなのに、何故いつも自分の都合のいいように考えようとするのだろう。彼女らは、学校帰りの泉を待ち伏せするようになった。三人に囲まれ自宅の方角とずれていく道を歩かされる。新興住宅街の開発に取り残された削りかけの山に通じる道の入り口に、かつて公園だった名残を残した空き地に誘い込まれる。子どもたちは住宅街の間にできている整備された公園へ集い、犬の散歩やジョギングを楽しむ人でさえ姿を見ることはない。こんな都合の良いところをよくも見つけたものだと、泉は感心した。

 何をしても無抵抗な、反応のしない人間を相手にすることがそんなに楽しいことなのか。地べたに顔を押し付けられ、背中を足で踏みつけられる。抜いた草を泥が付いたまま口の中へ押し込まれる。泣き叫べばいいのかと一瞬考えたが、それがあらたないじめになるとその頃には知っていた。

 五月の連休明けに登校した時、いつものように三人に囲まれた。麗子が泉の髪の毛を引っ張り押し倒した。

「ヒライズミ、おやじに髪の毛を切ってもらってんだって」

 たしかに、髪の毛を切るのに美容院とか散髪屋とかに行ったことがない。小さな頃から母が泉の髪の毛を切り、母が死んでからは父がその代りをしてきた。平井家では特別なことではなかった。現に昨日も父にカットしてもらったところだった。誰からの情報かはわからないが、同じ小学校からの同級生なら話したことがある内容かもしれなかった。けれど、何をいまさらそんな話を出すのだろう。

 麗子が馬乗りになり頭を押さえられた。

「パパにそんなことしてもらわなくても、ヒライズミの髪の毛はあたしたちがやったげるよ」

「えっ」

 泉が押さえつけられている頭を斜めに回した目の端に麗子がハサミを持っているのが見えた。

「やめてーーっ」

 泉は力の限り頭を振った。髪の毛の何本かが抜ける音が聞こえたが、三人の笑い声がその音を消した。

 いつもしない抵抗がよほど彼女らを喜ばせたのか、嬌声が発せられるたびに、じゃぎじゃぎと奇妙な音が泉の頭の中で鳴り続けた。

 コレジャ、トウサンニウソガツケナイ、ゴメンネトウサン

 翌日から、泉は学校を拒んだ。ケモノのような者のいる集団から逃亡したのだ。

 父親は何度か学校と連絡を取り合い。担任の教師が家庭訪問にきたが、泉は教師と顔を合わせても何も話さなかった。父以外の誰にも頼りたいと思わなかった。静かな暮らしだけを望んでいた。そうすることで膨らんだ憎悪は時とともにしぼんでいくと思っていた。違っていた。一度押された刻印は拭っても拭っても消えなかった。


「やめて、もうやめて……」

泉は両手で頭を押さえた。

「深呼吸しろよ」

 優一の手が、泉の背中を上下に撫でる。

やめてよと振りほどこうとしたが、背中に当たる掌の柔らかさが呼吸を楽にしてくれていた。

「ひどいことをしたんだよなぁ」

 優一は手の動きを止めない。泉の呼吸のリズムが優一のそれと一緒になってきた。

「さっき言ったように、ボクのせいだと思うんだ。軽いノリで言うけど、ボク、結構、頭良くてさ、小・中じゃ、勉強も運動もダントツで過ごしたんだ。父親は一応国立大を出ていて、公認会計士とかやってて、そんなの当たり前だって態度だった。ボクだってそう思ってた。母親なんて自分が勉強なんてできないもんだから、周りに自慢したくて仕方なかったってわけよ。で、超有名な私立の高校に合格してめでたしめでたしーー。とは、いかないんだよね、これが」

「なんの話? もう、いいよ」

 泉は、背中に置かれたままになっている優一の手を払いのけた。

「麗子が悪い奴になった原因だよ」

「そんなの、聞きたくもないし、必要もない」

「まあ、そういうなよ。時間あるだろ、暇つぶしに聞いとけよ」

 泉は窓の方を向いた。外の景色が見えたと思ったらすぐにトンネルに入る。暗闇に自分の顔と優一の横顔が見える。

 彼は背中をシートにもたれかけさせて、幾分か目線を上にあげていた。

「高校に入ってすぐの実力テストの成績が十一番目だったんだ、トップからいとも簡単に陥落したわけさ。ボクの上にはまだ、十人もいる。手を抜いたつもりじゃなかったけれど、そいつらの必死感のなさというか、余裕な感じにショックを受けたよ。そんなボクをさらに傷つけたのは結果を知った両親だったね。父親は『お前なんて、所詮こんなものだ』と言ったさ。してやったりと得意顔だった。正直、自分より上を行くのではないかと思うのが面白くなかったんだ。いつかボクの鼻をポッキリと自分の手で折りたかったんだろうな。母親は、こんな成績じゃ、お友達になんて言ったら言いの? あなたはトップで東大まで突き進まなきゃ、意味が無いのよ。なんてね。シビアすぎるって思わないか? 息子がトップでいることに何の意味があんだよ。くだらない発想だろ。こんなどうでもいいことで、気の弱いボクは自分を見失った。ヒライズミにしてみたら、何言ってんだこのバカ。だよな」

 優一はリュックの中から350ミリリットルのペットボトルの水を二本取り出しひとつを泉に手渡した。あまりに自然に差し出されたボトルを受け取ってしまった。まだ少し冷たい。駅で購入したのだろう。水を手にした途端に喉の渇きを覚えた。こんなやつからもらった水など飲みたくはなかったのに、キャップを外しひと口含んだ。干からびた細胞たちに、助かったと一息つかれた気がした。

「学校に行かなくなったんだ。キミと同類だよボクは」

 話は続いた。泉は日頃誰とも話さないので、話しかけられるだけで疲れる

「父親にはふざけるなと罵られ、母親にはこれ以上堕ちていかないでと泣きつかれたよ。で、家族とはできるだけ顔を合わさないようにしてきた。誰もいないときにテーブルに置かれている食事を部屋の中で食べているような生活だ。けど……、あるとき父親とばったり出くわした。汚いものでも見るような目でボクを見ていたよ。たぶんボクも同じような目をしていたんだと思う。『何だその目は』って、あいつは忌々しそうな顔つきでそう言ったからね。やり過ごして自分の部屋へ戻ろうとしたとき、すれ違いざまに……、『落ちこぼれのお前を食わせてやってるんだ、ありがたく思え』そう言われた。ボクはあいつの顔面を思いっきり殴ってやった。ヒライズミみたいにへなちょこなパンチじゃないぞ、あいつは見事に吹っ飛んで壁に激突したよ。そしてボクは大声で叫んでいた。『あんたは食わせることしかできないんじゃないか』って。これって、逆切れかな?」

 優一は泉の方を見たが無視した。返事などは求めていないだろう。

「キミは、ひきこもってた間、何してた? ボクは本当に覚えていないんだよね。確かにあるはずの部屋の風景も音も何も記憶の中にはない。思い出せるのは、蝉の声が聞こえると気づいた時からのことだけなんだ。

 七年前の夏の日、なぜか、網戸に止まった蝉の鳴き声が耳に届いたんだ。なんかワクワクしたんだ。ひと夏しか生きられない蝉に励まされているような気がしてさ。初めてだよ、この話を人にするのは。誰も信じないと思っているからね」

 今朝、耳にした蝉の鳴き声が泉の耳の奥でよみがえった。

「窓の外をよく見れば、青い空が見えて、庭に植わっている百日紅が花を揺らしていた。まるで生きているようだった。木も生きているんだよね。なんか、そんなことも初めて気づいたんだ。部屋にこもっているうちにボクが捨てたくてたまらない命を、文句ひとつ言わずにけなげに生きている命がいっぱいあるんだって知ったんだよね。求めても得られなかったすべてが自分の目の前にあることがわかった。だからボクは窓を開けた」

「そんな話聞きたくないって言ってるでしょ」

「ごめん、麗子の話をしようと思ったのに、自分のことばかり喋って」

 優一は頭をかいた。

「久しぶりに自分の家庭の様子を見ようとして部屋からでてみたら、麗子が一人だけいた。ボクに殴られた父親はその日のうちに家を出て行ったと聞かされたよ。それからひと月もしないうちに母親も出て行ったそうだ。実家に戻ったらしい。ボクが殴ったから親父は仕方がないけど、どうして母親まで出て行ったのか訊いたよ。『あたしが階段から突き落としたからよ』麗子はしれっと言ったんだ」

「どうしてお母さんを――?」

 口を聞くまいと思っていたのに、つい、話しかけた。

「自分でもわからないって言ってたな。イライラを解消するには暴力をふるうしかないって言うんだ」

「そんなの変よ」

「俺たち兄妹は親に見捨てられたらしいんだ。でね、麗子は誰も話す相手のいない空っぽな家の中で過ごしていたんだ。学校でヒライズミをひどい目に合わせながら、ボクの面倒を見ていたんだ」

「なにを言っているの? そんなの全然わたしに関係のないことじゃないの。被害者ぶらないでよ」

「麗子は見たと言っていた。キミが、お父さんと楽しそうに歩いているのをね。母親がいないことは知っていたらしい。それでも我慢ができなかったんだろうな。あ、わかってる。わかってるって。ヒライズミには何にも関係のないことだ。それをいじめの理由にするなんて許されることじゃないことはよくわかってる。でも、ボクがあんな風にならなければ、麗子もあんな性格にはならなかったと思うんだ。だから、ボクのせいなんだ」

「わたしは――そんな言い訳は認めない。認めるわけにはいかない」

 泉は押し殺した声を出した。

「自分の目の前にあるのはいつも暗闇のその奥につながる穴だけだった。父さんがいたから、穴の中にいた」

 泉は高ぶる感情を抑えるように両手をもみしだいていた。

「父さんは、いつもわたしのことを心配していた。あんなに無念そうな表情のままで死なせてしまった。あんたに何がわかるって言うの」

「本当にごめん」

 優一は右手を泉の手に重ねた。それを泉は振りほどこうとしたけれどびくともしない。大きくも重くもない細い手なのに。

 なぜか、はねのけられない。血の気のない白い手は仏像の手のように動かない。

「放せっ」

 泉は重ねられた優一の白い手を睨みつけた。人肌のぬくもりは苦手だ。

「岡山を出たね、あと二十分で着くよ」

 優一の手は薄紙が風に吹かれたように泉から離れた。-

 新幹線は速度を緩めながら福山駅に入って行った。優一はリュックを手にとり出口へと向かった。

 早足ですすむ姿は、ただ隣合わせただけの見ず知らずの人間のようだった。ホームに降りてからも彼は泉のことなど関心が無いような背中をみせて遠ざかって行った。麗子が泉をいじめなければならなかった理由を説明すれば用が済んだと言うことか。穴はどんどん深くなっていく。

 新幹線専用の駅だった新神戸駅とは違い、在来線も有する福山駅は二つの改札を抜けなければならない。右往左往してしまい駅員に不審な目を向けられた。こうして挙動不審なあいまいな態度が麗子らを刺激したのか? ひたすら関わらないようにした態度がいけなかったのか? もういい。考えるのはよそう。

やっとの思いで駅の外に出た。

 バッグの中から紙の束を取り出した。福山駅周辺の地図を取り出しバス乗り場を確認し、南出口へ出た。バスの発車時刻は十一時五十分、あと二十分ある。このバスを逃すと次は十三時発まで、待たなければならなかった。バスターミナルの手前にある待合所へと向かった。券売の窓口で因島までの切符を買い、告げられた番号の停留所へと足を進める。すでに停車しているバスの乗車口にいる係り員は客の切符を確認していた。泉も切符を差し出す。

「これは、別のじゃわ、この後にバスがくるけん、それに乗って」

 泉は戻された切符を受け取り、バスから離れた。しばらくして目の前のバスは発車した。発車時刻まであと七分しかないと思った時に因島行と表示されたバスが目の前に停車した。何人かの客の後ろに並び乗車した。ステップを上がってすぐ右側には座席を取り外した荷物置き場所が作られていた。泉は真ん中あたりの窓側の座席に座った。発車時刻だ。

 一度しまったドアが、空気を押し出すような音で再び開いた。長身の男性が乗り込んできた。運転手に切符を見せてからすみませんと頭を下げてから奥へ進んだ。優一だった。

 彼は、泉と目を合わすことなく横を通り過ぎた。運転手は最後に乗った客が座るのをミラーで確認してからバスを発車させた。

 マダナニカ……。

 泉は窓に頭をもたせかけて、いつのまにか寝てしまっていた。

 窓の右側に『しまなみ海道』と書かれ、天使があしらわれたモニュメントが見えた。しばらくするとバスは橋を通った。わずかな幅の尾道水道を通り過ぎ、しばらく山を削った道を走り抜けた後、先ほどの橋とは比べられないほどの大きな橋に差し掛かった。左手に見える海は穏やかに太陽の陽をきらめかせていた。右手に目をやると島々の影が折り重なり、本州の山々とつなぎ合わせていた。

 波をかき分けてすすむ小さな船がいくつも見える。泉はため息をつく。座礁した船のまま自分はおしまいになるのかと思うと胸の真ん中を撃ち抜かれたような気分になる。

 今年の梅雨明けはかなり遅れたが、雲の多い空からでも、夏の訪れは感じられた。

泉の前に座っていた老人の姿が無かった。寝ている間に乗客の入れ替わりもあったのだろう。後ろを振り返りたかったができなかった。

バスは最終地点に着き、さほど幅のない道路に下ろされた。停留所なのかどうかも分らなかった。ここから船に乗らなければならないはずだが、船の乗り場がどこなのか見当がつかなかった。

「たぶんこっちだ」

 後ろから声がした。優一の声だ。心のどこかで待っていた自分に嫌気がさす。

彼は、止まっているバスの前を横切り道路の反対側に渡った。泉は小走りについて行く。「土生港ターミナル」と書かれた建物の中に入った。券売の窓口はあったが、ほとんどが板のようなものでふさがれていた。優一はあたりを見回し小さな券売機に近寄った。後ろを振り向き泉を手招きした。

「二百五十円だって」そう言って手のひらを出した。泉は慌ててカバンから財布をだし千円札を渡した。

 優一は当たり前のように切符を二枚買った。

「なんで」

 優一は、泉の言葉を遮るように切符一枚を差し出した。泉の言葉を聞く気はないらしい。

「それよか、次の船まで四十分もあるぜ、だりぃな。そこら辺ぶらついてみる?」

 応える必要は泉にもないはずだ。優一から目を逸らし向きを変えた。窓側にそって六つ並んだ椅子に腰を下ろした。ほかに船を待っているような乗客らしき人物は見当たらない、透明のパネルで囲まれた中に売店があり、おばさんが一人いた。

泉は目を閉じた。規則的なリズムで繰り返される波と桟橋のきしむ音が聞こえる。冷房はあまり効いてないようで、じんわりと汗ばんできたが、このくらいがちょうどよい。優一の気配はなかった。どこかへ時間つぶしにいったのだろう。

 やっとここまで来れたと泉は父の顔を思い出した。どうしても死ぬ間際の悲しげな表情しか思い出せなかった。腕時計に手を重ねる。

「あと少しだからね」

 泉は両手を顔にあて、涙が出てくるのを押さえた。もう、泣かない。

 隣の椅子に誰かが座った。泉が目を開けると目の前におにぎりが差し出されていた。

「近くにコンビニがあったんだ。バスから見えてたから」

「いらない」

 再び、目を閉じた泉の手を優一が掴んだ。

「やめて!」

 引っ張られた手におにぎりを握らされた。

「ビビットなパンチがあたらなくてもいいのかよ。麗子にはうまく避けられただろ」

「そんなことない」

「麗子に聞いたら、手が軽く触れただけだって言ってた。体を後ろにそらしたからって」

 泉は右手のこぶしを見つめた。

「どうして行き先を知っているのかって思っている?」

 優一が泉の顔を覗き込んだ。

「だってヒライズミの敵は三人。まだ市原果歩が残ってる」

 泉の手にあるつぶされそうになったおにぎりを優一が取り、おにぎりを包んでいるビニールの飛び出た部分を引っ張った。両サイドの袋も外してからあらためて泉の手のひらに戻した。

「麗子に聞いたけど、市原って子、高校生の時に転校したらしくてそれから連絡とってないって、それ以上のことはあいつも知らなかったんだ。でも、ネットを使えば、今は大抵のことはわかる。ボクの得意ワザだからさ」

 いくつなんだろ、この人。泉は優一の口角を上げた表情に目を向けた。

「卒業シーズンのテレビ番組でさ、去年、西日本に大きな被害をもたらした台風の爪痕を追う、みたいな企画で、瀬戸内海の小さな島の小学校が映されていたんだ。その時に、短いインタビューに答えていたのが市原果歩だったってわけ。検索エンジンをかけると簡単に出てきたよ。でさ、ヒライズミがいかないわけはないと直感したよ。当たりだろ?」

 そのテレビ番組を泉は父親が入院していた病院で見た。画面の下に「市原果歩先生」という小さなテロップを見たとき、頭の血が逆流するような痛みを覚えた。よりによって教師になっているなんて、そんなことが許されるのか。今度は子どもをいじめようと思っているのか。

泉はおにぎりを口に押し込んだ。甦ってきた病院の臭いから逃げたかったからだ。梅干しの酸っぱさが口中に広がって紛らわせてくれる。

果歩は、麗子やかすみのよりも一歩後ろにいるような印象だった。大きく区分するなら、彼女は泉と同じタイプに見えたが、麗子の言うことに決して逆らわなかった。命じられるままに泉に暴力をふるった。

乗船のアナウンスが流れた。船内でも優一は入り口付近の椅子に座った泉の横を通り過ぎ奥の方へと進んでいった。

船に乗ってから十五分ほどで目的の島に着いた。

 下船した数人の乗客の姿は、それぞれの目的地に歩き進んでいった。

 泉は桟橋を上がりきったところでバッグから紙の束を取り出し、小学校の位置がわかる地図のコピーを取り出した。

「すぐに学校に行くの?」

 背後から優一の声がした。泉は返事をする気はなかったが、もう、ついてくるなと言うのも無意味な気がしていた。

 バス停の標識を見つけ時刻表を確認した。

「この時間全くないね、次のバスは一時間半後だよ。この距離なら歩いていけるよ、いこう」

 優一が泉の手を取り歩き始めた。目は反対側の手に握ったスマホを見ている。

 泉は手を振りほどいたが歩みは止めなかった。

 優一は不快な態度を見せることなく歩調を泉に合わせて歩いていた。海沿いの車道横に設けられた歩道は途中でなくなり、白線の区切りだけになった。車通りはそれほど多くなく、たまに通り過ぎるのは、ほとんどが軽自動車だったため危険は感じない。潮は満潮に近く雲の隙間から降りてくる陽の光に水面を輝かせていた。

 二十分ちょっとで学校らしき建物が目に入った。泉は地図を見た。学校が二つ並んでいるはずで、中学校が手前にあることを確認した。

「まだ、授業終わってないんじゃない? いや、終わっても夕方くらいまでは仕事だよね。職員室にでも殴り込みにいく? 付き合うよ」

「いや、いい」

「ヒライズミは優しいんだね。ボクはさ、加害者であったし、被害者でもあったから、両方の気持ちがわかるんだよね。それを今は――」

「ヒライズミっていうな」

 ヒライズミと言う呼び名を使っていたのはあの三人だけだった。

「じゃ、いずみ……ちゃん? でいいかな」

「名前を呼ぶな」

「なんかさぁ、こっちの道を行ったら、学校の裏側じゃないかな、ずっとつながっているみたいだから、こっちへいこうよ。敵地にのり込まないんなら、わざわざ目立つ場所から入ることないじゃん」

 優一がスマホの画面から目を離して海沿いの歩道を指さしていた。抵抗という言葉は泉の内側にない。泉は促されるままに優一の後をついていった。

 コンクリートで作られた歩道の海側には一メートルと少しくらいの高さの防波堤になっていた。中学校を過ぎると運動場を挟んで小学校が見えた。

 どちらの学校もさびれたような雰囲気はなく、どちらかというと近代的な建物だ。

「小中で一緒に使っているんだろうけど、大きな運動場だね。やっぱり街中の学校とは違うわ。運動会とか楽しいだろうね」

 優一の記憶にある運動会は楽しかったのだろうか。運動場はひろくても、ここをいっぱいにするほど生徒はいないんだろうと思ったが、口に出さなかった。

 間延びしたようなチャイムが鳴った。授業が終わったのだろうか。生徒の声は聞こえないけれど、ざわめきが潮騒のように聞こえる。

コンクリートの歩道は、小学校の裏手にあるこじんまりとした山のふもとで行き止まりになった。夏が盛りの山はパセリの束に似ていた。青い海とこちら側を隔てている防波堤に背をあずけて小学校の中庭を見ていた。ランドセルを背負った子どもたちがバラバラと出てきた。身長とランドセルのバランスから高学年の生徒か。子どもたちの会話が聞こえてくる。

「ねー、今日はどこで待ち合わせする?」

「じゃ、うちにおいでよー」

「わかった。ねぇ、カンナちゃん、聞いてる。ミカちゃんのおうちに集合だよ」

「うん、ランドセル置いたらすぐに行くー」

 数人の子供たちが正門へとかけていく。

潮のかおりが鼻腔をくすぐる。もうすぐ、何もかも終わりになる。『なる』のじゃなくて『する』んだ。そして、くだらない記憶を葬り去るんだ。パソコンの電源をオフにするように。

 泉の記憶は悪夢のような一年と少しの間に凝縮されている。小学生の頃の自分が思いだせない。母さんの記憶さえもう薄れている。わたし自身の脳がそうするように命令をしているのだ。三人の顔と父さんのあの時の表情だけあれば、それでだけで行動できる。

「どうする? 授業は終わったみたいだし、職員室へ行っちゃう? なんなら呼び出してこようか、市原果歩先生」

 優一がスマホをいじりながら話しかけてきた。

 泉は返事ができなかった。この島まできて、やるべきことは決まっていた。でも、実際、どのような行動を取ればいいかということを具体的に思い浮かべることができなかった。かすみや麗子のときには、それぞれの家も知っていたので、待ち伏せをすればチャンスは必ず来ると確信していた。けれど、果歩の場合は、殴打に至るまでの過程が想像できないのだ。個人情報があまりにも乏しいせいだ。

 おそらく自分はいま果歩のすぐ近くにいる、けれど、校舎内に足を踏み入れる勇気が持てなかった。優一の言った「加害者でもあり被害者でもある」という関係性は、必ずしも同じ相手に起きる現象を差していない。果歩たち三人はわたしの加害者だが、父はわたしの被害者だった。

「もういっかい、港まで帰ろうか。あそこの待合所で時間つぶそうよ」

 優一の言葉は泉の心を見透かしているように聞こえた。抗えない。確かに、行動しないのであれば、ここに居ても時間の無駄だ。

 ためらう泉に優一がスマホの画面を差し出した。

「夕方になってから、ここへ行けばいい」

 この島の役場のホームページらしい。教員住宅の住所が書かれていた。単身用と家族用に別れている。

「こっちに行く方が一発食らわせる確立が高いと思うよ。ここから近いし、バスの時間をたしかめてと――」 

 優一は、「いこう」と言って泉の前を歩き出した。言いなりになっている方が心地いい。

 良く整備された運動場では部活を始めようとする中学生たちの姿があった。テニスコートのネットを張っていたり、数えきれないバレーボールが入っているカゴを数人で運んでいたり、グラウンドを走っていたり……。

「あの子たち、生きにくいなんて感じたことが無いように見えるね」

 同じことを、泉も思っていた。こういうの、シンパシーを感じるって言うのか。

「小学校のとき地元のサッカーチームに所属してボール蹴りしてたんだ。でも、中学に入るとさすがにさ、受験のことも考えるし塾に通うようになった。でも、勉強一辺倒にみられるのが嫌で陸上部に入っていたんだ。個人競技だからね。練習の手加減もできるし、いつでも休めるし……、あの時、楽しかったのかな」

 優一は運動場に散らばる中学生を見ながらそんな話をした。

 戻り道の方が早く感じた。

 港の待合所には誰もいなかった。券売機が設置されており、客対応の窓口もある。人の気配はあるが、待合所からは姿は見えない。  

優一は窓側に作られたカウンターの前の椅子を引いて座った。泉は優一の席とひとつ空けて椅子に座った。テーブル席もあったが、知らない人と同席になる可能性があると思うと、そちらには座れなかった。

 優一はリュックからバスタオルでくるまれた荷物のようなものを取り出しカウンターに置いた。バスタオルの中らは、A4サイズほどの薄型ノートパソコンが出てきた。

「朝、出がけにパソコンケースが見つからなくてさ、思わずこれに包んできたよ」

 優一が言い訳のように言う。パソコンを起動させてから、細い指がキーボードの上を軽やかに踊りだした。

「ここってコンセントもwi‐Fiも使えちゃう。田舎だから駄目だって思ってんたけど、やるね」

 泉は、両腕をカウンターに置き、その上に顔をうつ伏した。そんな話は聞きたくもなかった。

「これでも、労働してんだ。人とのコミュニケーションが苦手だから、ほとんどこれだけで、やり取りできるフリーのシステムプログラマーなんだ。ぼちぼち仕事ももらえるようになってさ」

 キーボードをたたく、小さなタッチ音が次第に遠のいていった。

 船が港に入ってくることをしらせるアナウンスで目が覚めた。優一はまだパソコンに向かって指を動かせている。何重にもぼやけて映る風景の輪郭が一つになり始めた。五十分ほど眠っていたようだ。

 体を起こそうとしたとき、肩に掛けられていたバスタオルがずれて落ちた。

 優一がパソコンを閉じて泉を見た。

 泉は背中を伝って落ちたバスタオルを拾い上げ優一に差し出す。「ありがとう」と言う言葉はでない。

優一はバスタオルを受け取った。

「いこう、今入ってくる船に合わせてバスが出るはずだ。ほら、もう停まっている」

 バス停を見ると、泉が見知っているバスよりも二回りくらい小さなおもちゃのようなバスが停車していた。

 五時十分発のバスは、教員住宅がある小学校の次の停留所まで、七分で着いた。果歩はまだ帰っていないかもしれない。このまま会わずに帰りたいという思いと、ここまで来てひるむのかと自分を叱咤する声が頭の中でぐるんぐるん回ってめまいがする。

バスを降りてから山側に広がる畑の中にここにも近代的な三階建の集合住宅が二棟建っていた。住宅に続く一本道を歩く。ベランダの広さからみて右側が単身用だとわかった。

 住宅の敷地にたどり着いた時、家族用の建物から中年の女性が出てきた。手に布製のバッグと車のカギを持っているようだ。優一は女性に駆け寄った。

「市原先生に会いに来たんですけど、うちはどこでしょうか」

「果歩ちゃんに? 地元の人じゃないですよね。どちら様?」

「中学校の時の友人です。近くに来たものだから、久しぶりに会っていこうと思って」

「電話してみたら?」

 女性は疑うような目で二人を見ている。

「電話してみたんだけど出なくて、今日中に帰ろうと思っているので時間がないんですよね」

 優一はスマホを上にあげて女性に見せた。

「たぶん、果歩ちゃんは丸山のおばあちゃんとこじゃわ。実家から送ってきたお菓子を持っていくって、うちにも持ってきてくれた時に言うとったから」

「ここにはいないんですね」

 優一は泉を見て、どうする? というように首をかしげた。

 泉は動揺した。いつの間にか、肝心の決断を優一にまかせっきりになっていたことに気づいたからだ。

「じゃ、ばあちゃんちの近くまで送って行ってあげるわ、乗って。ちょうど買い物に行かにゃいけんかったけん。ついでじゃわ」

 女性はリモコンでミニバンの後部座席のドアを開けてくれた。

 車は畑の中を通り過ぎ幹線道路へ出た。

「果歩ちゃん、おばあちゃん子みたいでさ、高校時代からおばあちゃんと暮らしてたんじゃって。去年、新任だった果歩ちゃんのお世話係だった田中先生の隣が丸山のばあちゃんちなんよ。あっという間に仲ようなったって、田中先生が言うとったわ。丸山さんとこはひきこもりの孫と二人暮らしじゃけん、ばあちゃんも若い話し相手ができて嬉しいじゃろね」

 車はあっという間に港を過ぎた。途中から車一台がようやく通るような道に入った。車が急に止まった。フロントガラスの先を見ると向こう側から軽自動車が来ていた。お互いの車が停まり女性が軽く手を上げた。軽自動車がバックし始めた。こちらの車もゆっくりと前進する。十メートルほど行ったところで、女性が左側方向を指さした。対向車は右側の道路へそれた。三叉路地点でクラクションを短くならし前に進んだ。しばらく走って車は停まった。

「ここまででええかな」

 女性がドアを開けてくれてから、自分も車を降りた。そして、女性が左の道を指さした。

「ここを真っ直ぐ言ったら突き当りが田中先生のとこ、その隣が丸山のばあちゃんち、この道、普通車ギリギリなんよね、傷つけたらいやじゃけん。ええなか、ここで」

「大丈夫です。ありがとうございました。」

 優一が頭を下げた。

「あっ」

 女性の短い声に、優一は顔を上げた。彼女の視線の方向へ目をやると、短い坂道の上りきったところにある防波堤の切れ目に海の線が見えた。そして、そこに一人の人影が見える。

「トシくんかね。こんなとこにおるんは果歩ちゃんと会うんかな」

 泉も人影を見た。がっしりとした肩幅に短髪、ジーンズのポケットに片手を突っ込み、スマホに目をやっていた。

「トシキくんはね、町長の息子で県庁に勤めとるんじゃけど、今はこっちの役場に二年間の研修で来とるんじゃ。果歩ちゃんに猛アタックしとるいう噂じゃわ。でも、果歩ちゃんはその気にならんらしい。これも噂じゃけどな」

 影を見て女性は肩をすくめた。うまくいかないのが楽しいという気持ちがストレートに伝わってくる。この人のように自分の思っていることを言葉にできたら、胸がしめつけられるような寂しさを感じなくてすむのだろうか。泉は耐え難い感情に「穴」と名付けた。「あなかんむり」に「八」と書く「穴」を辞書で調べると、身体の急所とか隠れ場所とあった。

泉はUターンして戻って行った車を見送り、小さな深呼吸をしてから、狭い路地へと入っていった。板張りの家が数件続いた後、ブロック塀で囲まれた中に、崩れ落ちそうな家屋がならぶ一角があった。空き家だろうか。草木に浸食されていた。ジャングルのようなところを過ぎると人の住めそうな場所にでた。

 目の前に地蔵の祠があり、後ろに畑、その奥に家が見える。おそらくこれが田中先生の家だ。右隣に植え木で囲まれた平屋建ての家があった。ここに果歩がいるのだろう。

二人が地蔵の祠の前に来たとき、丸山のおばあちゃんの家から若い女性の声が聞こえた。

「おばあちゃん、また来るね」

 引き戸の閉まる音の後、半そでのパーカーとスゥエットパンツを履いた女が出てきた。市原果歩だ。

 果歩は畑の横に停めていた軽自動車のドアを開けた。車なら泉たちの方へ来るはずだから止めることができる。あせる必要はない。

 しかし、開けられたドアはバンという音とともに閉められた。スマホを見ながら果歩は歩きだした。泉たちとは反対方向に向かいさらに狭い路地へと入って行った。

 泉は駆け出していた。見失いたくなかった。さっさとおしまいにしよう。路地は入り組んでいてすぐに分かれ道に差し掛かったが、かろうじて果歩が角を曲がる後ろ姿が見えてそちらに向かう。次の角を曲がると誰の姿も見えなかったが、目の前にある石の階段を上がった。海が目の前に現れた。防波堤が続くコンクリートの道。潮は下げていて、数十メートル先にあるテトラポットの一段目ぐらいだけが濡れている。右に目をやると果歩の背中が見えた。

「トシくんと待ち合わせだね」

 優一は駆けだそうとした泉の腕をつかんで言った。さっき見た人影が果歩の行く先に立っていた。

「関係ない」と泉は言った。

「ボクとキミが関係ないってこと? それとも相手がデート中であっても関係ないってこと?」

「もう、いい」

 泉は優一の手を払い果歩の後を追った。

 果歩と人影は防波堤の切れ目から潮の引いた砂浜へと降りていった。泉と優一が二人の姿が消えた場所まで辿りついた時、男の声が聞こえた。

「なんでだめなのか、理由を聞かせて欲しいんだ。このままじゃ、あきらめきれない」

「そんなことを言われても……」

 泉は階段を降りるのをためらった。

「理由を知らないままなら、ぼくはずっと果歩ちゃんを思っていなきゃならない」

「わたしは誰とも……」

「そんなことでごまかさんで欲しい」

 沈黙があった。泉が一歩を踏み出そうとしたとき、優一が肩に手を置いて止めた。「モウスコシ」声に出さず唇だけが動いた。

「あなたがノブ君をあんな風にしたから」

「ノブ……。丸山の?」

「そう」

「あいつが家から出てこないのがオレのせいだっていうのか」

「違うの?」

「オレが、何をしたって言うんだ。中学三年生のときノブが転校してきてから、みんなで遊んでいたよ。あいつだってヘラヘラ笑ってたよ」

「本当にそう思っているの?」

「言い訳かもしれないけど、悪ふざけが過ぎたところは確かにある。でも、それでノブがひきこもるようになったと言われてもな。オレだって、やなことはいっぱいあったよ。学校なんか燃やしてやりたいって思ったりしたよ。誰もが経験することじゃないのか」

「あなたの同級生の何人かに話を聞いたの。男子の間で流行っていた遊び。掃除の時間に二本のほうきを使ったおみこしの遊び、上に乗せられるのはいつもノブ君だったそうね。みんなで担いで突然落としていたんでしょ。みんなの前で下級生の女の子に告白させて反応を見る遊び、授業中突然歌いだす遊び、みんなが考える遊びでいつもやらされるのはノブ君だけ。あなたは楽しかったの? はやし立てる男子の中心人物は、小学校の時から人気者だったあなただったって、みんなが口をそろえて言っていた。それとも、みんなが嘘を言っているの?」

「卒業までの一年間、あいつは一日も学校を休まなかった。そんなにつらいなら中学の時から来なくなるだろう」

「これは、丸山のおばあちゃんから聞いた話だけど、ノブ君は中学二年の春休みにご両親が離婚したそうよ。ノブ君はどちらの親にも引取られなかった。だからこれ以上、自分の居場所がなくなるのを怖れていた。中学は卒業できたけど、受かっていた高校には一日もいけなかった。心のエネルギーを使い果たしてしまったんだって……。そういっていたわ」

「ノブをいじめた事実を認めたのはオレ一人だ。他の奴らはオレの悪口を言って、自分たちは何もしなかったような顔をした。その時だよ。職員室に火をつけてやろうと思ったのは」

「すべてあなたが悪いと思っているわけじゃないの。わたしだって――」

 果歩の言葉が途切れた。

 泉は防波堤の切れ目、海岸へと階段が続くその場所に立ち叫んだ。

「市原果歩、あんたに他人を責める資格があるのか」

 突然現れた泉の姿に、海辺にいた二人は身動きできないでいた。

 優一が泉の後ろに立ち、眼下の二人に頭を下げた。

「なんなんだ、あんたたち」

 トシキは泉と優一を交互に見ながら言った。

「あんたに用はない。市原果歩、お前を殴りに来た」

「ヒライズミ?」

 泉は気が動転した。果歩は友人に話しかけるように泉の名前を読んだからだ。

「小学校の先生だって? 許さない。あんただけは許せない」

 手が震えているのは、緊張からなのか怒りからなのか、泉自身にもわからなかった。泉は階段を降りた。

 トシキは、再び果歩の前に立とうとしたが彼女がそうさせなかった。

 泉は砂浜に降り立ち、果歩と向き合った。

「そうよね、ヒライズミをいじめていたわたしが教師になるなんて、間違っているよね」

「へぇ、覚えていたんだ。すっかり忘れていたと思っていた。だから先生なんてしていられるんじゃないの」

 泉がさらに一歩、前に進んだ。掴みかかれる距離だ。

「覚えている。だから、教師になったの」

「は? わけわかんない」

「許せないよね。当たり前だよね」

 泉は大きく息を吸い込み一気に吐いた。

「もういいの。あんたを一発殴って忘れてあげる。ありがたく思うのね」

 泉は右腕を曲げたまま後ろへ引いた。

「やめろっ」

 トシキが泉と果歩の間に割って入った。

「トシキ君、放っておいて、これはわたしの問題だから」

「でも」

「邪魔しないでっ」

 果歩はトシキの身体を突き放し、改めて泉と対峙した。

「もう、どうでもいいのよ。あんたを殴って終わりにする。麗子も、かすみも殴ってやった。後はあんただけ」

 泉は再び腕を引き、果歩の顔面に向けて突き出した。相変わらずへなちょこなパンチだったかもしれない。それでも果歩の足は一歩下がり、そのまま倒れ込んだ。

「お前、なんてことをするんだ」

 果歩に駆け寄り座り込んだトシキはゆっくりと泉を見上げた。その目が語っていた。誰とも付き合えない「穴」の住人だと。

「市原果歩は感謝しているはずだ、これで忘れてもらえるんだから」

「なんだと」

 トシキが立ち上がり泉に掴みかかろうとした。

優一がトシキの前に立った。

「果歩ちゃんが言うように、あんたには関係ない話だ」

 泉はそのまま海岸線に沿って歩き始めた。優一も後を追う。陽は暮れはじめ街灯のない海岸は闇の中に沈もうとしていた。


防波堤が切れたところから人口的に作られた海水浴場の広い砂浜が見える。途中まで平らで突然海に向かってなだらかな傾斜がある。そこからがもともとの砂浜のようだ。干潮のせいか海が遠くに見える。

 雲の隙間から月が顔をのぞかせていた。昨日見た月とは別物に思えるのは何故だろう。

「ついてこないで、もう見届けたでしょ。これで終わりよ」

 泉は後ろから聞える足音に叫んだ。砂浜の後方に控える松林のざわめきが泉の言葉を加勢しているようだった。

「終わっちゃいないよ。ボクを殴らなきゃ。それで最後だよ」

「わたしが殴らなきゃいけないリストにあんたは入っていない」

「あの子、果歩ちゃん? よけなかったよね、キミのパンチ。悲しかったよ。キミだけじゃなくて、あの子をあんな風に……自分を真剣に思ってくれる相手の言葉を信じられないようにしてしまったのは、ボクと麗子なんだ」

「そんなの勝手に悩んでろ、わたしにはもう関係ない」

「関係ないしか知らないのか……」

 優一はため息をつくとしばらく泉のそばに立っていたが、やがて松林の方へ歩き出した。砂を押し込む音が遠ざかっていく。

 泉は海の方へ向かう。ここから傾斜が始まるというところで腰をおろした。さんかく座りで膝を抱え込む。海の黒に月明かりが揺れていた。

 どのくらいの時間が過ぎたのか分からなかった。ずいぶんと右側に移動した月は雲の向こう側に透けて見える。

 やることはやった。自分で線引きしたことだ。これで良しとしなければ切りがない。泉は立ち上がり海に向かって歩いた。

トオサンシンパイシナクテイインダヨ

 スニーカーに海水がしみてきて靴下を濡らす。足を速める。ジーンズが重くてうまく進めなかったけれど、心地よいと思った。泉はその海に頭から飛び込んだ。

「いずみーっ」

 誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 トウサンナノ? ナミノオト?

 何かに体が引っ張られた。

「だめっ、だめよヒライズミ」

 泉は肩から掛けたままだったバッグをもがきながら頭から外した。水が口に入ってくる。息を止めていたんだ。生きたいって思っていたってことなのか。なんて往生際が悪いのだろう。でも仕方ない。初めてのことだもの。このシュミレーションはできなかった。

 体が思うように動かない。脇の下に誰かの手が入り引き上げられる。あっという間に下半身がじゃりじゃりと荒い目の砂地を引きずられている。胃が絞られるように収縮した後、不快なものが口から吐き出された。それを何度か繰り返した後、力が抜けて倒れ込んだ場所は完全な砂浜で足の先だけが水に浸っていた。

 不快な叫び声が聞こえる。

 濡れた砂地に頬をつけたまま動けなかった。

「ヒライズミ、バカなことをしないで」

 泉と同じように荒い息のままの声が聞こえた。

「あんたが、やっちゃうんじゃないかと思ってつけてきていたの」

 わずかに顔を上げた。市原果歩が四つん這いになって肩で息をしていた。

「ボクも、泉が麗子を殴った時からそう思ってた。こいつ死ぬ気だなって」

 優一の濡れたジーンズが見えた。

 泉は何とか力を入れて上体を起こした。

「なんで邪魔をするのよ。まだ、いじめたりないっていうの」

 泉は濡れた砂を掴み、果歩へ投げつけた。果歩はじっとしていた。

「わたしね、高校に入ってすぐにいじめられるようになったの。女子高だったんだけどね。みんなに無視されて、キモイとか言われて……。そうなって初めてヒライズミの気持ちがわかったの。自分がどんなにひどいことをしたのかってことも……もし、いじめられなかったら一生気づけなかったかもしれない」

 果歩は泉の射るような視線から目を離さず、上体を起こして座りなおした。

「あの頃のヒライズミの目を覚えていた。何も映っていないような目。あんな風になっていくんだって。こんな言い方しかできなくて、ごめんね。それで、親に頼み込んで、おばあちゃんのいる愛媛の高校に転校させてもらったの。新しい学校ではいじめに合うことはなかったんだけど、誰にも心を開くことができなかった。だから――」

 果歩は声を詰まらせた。

「だから、ヒライズミのことを忘れないために、自分がしてきたことの愚かな行いを忘れないために教師になろうと考えたの。さっきトシキ君を責めたけれど、本当はあなたにしたことを話そうと思っていたの」

 泉が果歩の正面に向き直った。

「わたし、忘れてあげるって言ったじゃない。だからあなたたちも忘れてくれて結構、もう関係ないのよ。ただ、父さんと母さんのところに行きたいだけなのよ。なんで、そうさせてくれないの」

 泉は立ち上がった。両手を握りしめ、踏ん張り叫んだ。

「お願いだからどこかへ消えて。今になってそばにいないで」

 優一が泉の両肩を掴んだ。

「死んじゃだめだ。君のお父さんだってそんなこと望んでいないよ」

 泉は優一の手を振りほどく。

「死んだ人間が喜ばないとか、ドラマの中のセリフのようなこと言わないでよ。死んだ人の気持ちなんて誰もわからない。生きている人間が勝手に言っているだけのことよ。わたしが両親のそばにいって何がいけないの。あんたたちにそれを止める権利はないはずよ」

 優一が今度は泉を抱きしめた。泉は抵抗したが腕の中から抜けられない。

「人は、人によって死の原因を作られてはいけない。たとえ自分の命でも」

 その言葉は泉の頭の上から聞えた。

「あんたにはわからない」

「そうだよ。わからない、恰好いいようなことを言ったけど、ボク本当は怖いんだと思う。泉が死んだらボクは人殺しになるってことだろ。そんなの耐えられない。頼むからボクを助けてくれ」

 優一の腕に力が入った。

「結局自分のことじゃないの」

「そうなんだ、苦労知らずのお坊ちゃまだから」

 優一は泉の肩に自分の頭を乗っけた。

「ボクがキミの窓を見つけてあげる。キミを暗闇に誘う穴を絶対に塞いでみせる。だから、生きていてくれ。ボクが生きていてよかったと思えるように」

「やっぱり、自分のことだ」

 泉は目の前の胸を押した。優一は「ゴメン」と言って素直に体を離した。

「ああっ、疲れた」

 泉は大きなため息をつく。今はかなえられなかった計画だけど、いつでもできるはずだとぼんやりと考えた。

「最後にボクを殴らなきゃ、終わらないだろ」

 優一が泉の顔を覗き込む。

 泉がこぶしを握り、後ろに引いた。優一は泉から目を離さない。振り抜いたこぶしは、優一の手に受け止められた。

「また、やっちゃった。でも、これで終わりにしたくないから、もう少しの間、待ってもらってもいいかな」

「なにそれっ」

 二人を見ていた果歩が噴き出した。


 果歩の提案で丸山のおばあちゃんの家に戻ることにした。

まだ、九時を少し過ぎたところだったが、バスも船もすでに動いてはいない。どちらにしろ濡れた服をどうにかしないといけない。

 丸山さんは、果歩の簡単な説明で泉と優一を家に上げてくれた。とりあえず風呂へ入れと勧めてくれた。先に泉が入り着替えにおばあちゃんのパジャマを、優一はノブ君のパジャマのズボンとおばあちゃんのTシャツを借りた。

 泉には横幅の広いパジャマのズボンはずり落ちそうで、絶えず引き上げていなければならなかった。

 優一のズボンは、むこうずねの途中までしかない。この場所にいないノブくんの影が少し見えた気がした。

 果歩は二人の服を洗濯して明朝に持ってくると言い、風呂に入って行けと言うおばあちゃんに断りを言って、軽自動車で帰って行った。

 おばあちゃんは「こんなものしかないけど」と言いながら素麺を茹でてくれた。シソにミョウガ、ショウガのすりおろし、ネギ、梅干しが薬味についていた。

「素麺とか初めて食べるかも」

 優一はガラスの皿に盛られた素麺を珍しそうに見る。

「都会の人は素麺なんてもんは食べんのかい」

「わたしはよく食べました」

 夏になると父が良く作っていた料理だったと思い出した。

「でも、手作りのおつゆは初めてです」

 ガラスの小鉢に氷を入れて鍋から作りたてで熱いめんつゆが注がれた。

「作り置きがなかったけん、濃いめに作ったんよ」

 おばあちゃんは「食べんさい」と勧めてくれた。

 おつゆは氷をすぐに溶けさせ生ぬるいままだったが甘めで優しく素麺にまとわりついた。

 優一は、泉が先に食べるのを見ながらぎこちなく箸を動かし始めた。

 泉は知らない人の家にいる自分が信じられなかった。あの漆黒の海に飛び込んだ時、何かを捨ててきたのかもしれない。

二人が食べている間に客間に二組の布団が敷かれていた。

「すみません。突然なのにこんなに親切にしていただいて」

 優一が頭を下げた。

「うんや、果歩ちゃんの友達じゃったら、悪い人のはずがない。気いつかわんとゆっくり寝てや」

 おばあちゃんは部屋を出る前に振り返り、壁を指さした。

「隣の部屋が孫の部屋じゃけど、優しい子じゃけん、心配せんでええから」

 そう言ってから襖を閉めた。

「心配なんて」

 泉は襖の向こう側のおばあちゃんの背中を思った。

「いずみ……ちゃん、疲れただろ。もう寝たら。ボクはもうちょっと仕事しなきゃいけないから」

 優一は部屋の隅に置いていたリュックの中からノートパソコンを取り出し、壁にもたれて伸ばした足の上に置いてふたを開けた。

「あ、わたしのバッグ」

 海で外したままか?

「ボク回収したよ。どこへやったかなぁ。覚えてないや。外にだしたままかな。明日でいいか? 今から探しに行ったら迷惑だろうし」

 泉は頷いてから布団へ入った。腕時計もなかった。

「あ、だめだ、wi‐Fiがない。ボクの仕事も不便なもんだな」

 優一はパソコンのふたを閉じ、バスタオルでくるんでリュックに戻した。部屋の電気を消して泉の隣の布団へ入ったようだ。

真っ暗闇の中で、今更のように他人が同じ部屋にいることに緊張した。今はあまりに疲れきった体に感謝しよう。体のだるさが瞼の重さに変わる。

 眠りに落ちたと思った時、窓の外に砂利を踏みしめる音が聞こえて目が覚めた。板一枚向こう側が外だと、自分の家で感じたことはなかった。音は続いた。どうしたらいい、そう思ったとき隣で明かりが点いた。

 優一がスマホの電源を入れていた。こちらを向いて唇に人差し指を当てている。

「ノブ、いるんだろ」

 囁くような声と、隣の部屋の窓をコンコンと叩く音が聞こえる。

「トシキだけど、話しあるんだ」

 無風の空気に沈黙が流れる。

「ノブ、頼むよ、顔を出してくれ」

 何分くらいのときが過ぎただろう。泉は息をしていけないような苦しさに布団をかぶった。

「また来るよ」

 砂利を踏みしめる音は遠ざかりまた、沈黙が戻ってきた。

 壁の向こう側の早打ちの鼓動が聞こえる気がして、泉の眼から溢れた涙が耳の方へと流れた。

 優一がスマホのホームボタンを押して灯りを消した。

「こういうのってよくある話なのか? こんなにひきこもるやつってあちこちにいるもんなのか? 友達いないし、たぶん世間の常識ってよくわかってないと思う」

「わたしの方がもっと分からない。世間のことなんて知っているはずないもの」

「な、手を繋いでもいいかな。なんか気持ちがざわついちゃって」

 泉は返事をしなかった。男の人と手をつなぐとかありえない。

 優一は布団の中の泉手を探り当てた。泉は払いのけなかった。泉の心もざわついていたから。

「ボクたちって、まだまだだな」

 優一の手は泉の手を軽く握った。

 この手は穴の底にとどいた。

                   完


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