見出し画像

海の向こうから来た先生

気がつけばインドネシア渡航まであと100日ほど。

この度、ご縁があって採用され、
インドネシアの中高生に日本語を教えること、そして、日本の文化を紹介する先生として、2023年9月から12月までインドネシアの学校で仕事をすることになりました。

この1週間は、ようやく手渡された渡航に関する資料を読めば読むほど、犯罪やら病気やら衛生環境やら、インドネシアに行きたいと言ったのは自分なのに、これでほんとに大丈夫だったのだろうか・・と不安になり、
まわりの友人たちやらビックカメラのPC主任の方に連日お世話になり、なだめられ、なんとか一息ついたところ。

しかし、しなければいけない準備は山盛り。
日々のやることもいっぱいなのに、大丈夫だろうか。

えいっと飛び込む度胸はかなりあるほうですが、何が起こってもしかたねぇ!と割り切るまでは、ウサギの心臓のため、時間がかかる私。

今回も、いくつかの国の中の選択肢の中から、「きっと私には今これ!」と直感で心が動いたインドネシアを第一候補にあげました。
(豊岡演劇祭の時、車も運転できない私にとってはなんとも過酷な地であった但東を何も考えずスパッと選んだのも、直感だった。)

まあ、その直感は大概外れず、困難を伴いつつ自分が一番成長できるところを選ぶのには自信があるので(そしてタイミングはいつも神様が味方してくれる。ありがとう。)
出発まではヒーヒーいうのでしょうが、行ったら自分の身を守れるのは自分のみ。
腹を括って、なんとか楽しんでみたいと思っています。


そして、
なぜ今回私がこのプログラムに飛び込んでみたいと思ったか。
ということ。
これは自分にとって、とても大事なところなので、
忘れないように書き記しておきたいと思いました。

そこには、10代から20代にかけて、表現を模索してきた自分の旅と、
小学校の頃、私に日本の外の世界を教えてくれた、マレーシア人の先生との出会い。
その2つのきっかけがあったのでした。

【表現の旅】
10代、物語の中に入り、誰かの人生を生き、届けることができる俳優という仕事に憧れ、舞台や映像の世界に飛び込み、関わりはじめました。
20代、自分はこれからの人生の中で、どんな表現を目指し、どんなことを人に届けていきたいのか悩みながら、旅の中たくさんの人に出会い、様々なことを教えてもらった日々。
海外を放浪し、日本の面白さ、日本人の表現の独特さに改めて気付かされ、日本をもっと知らなければならないと帰ってきてから、
山形の友人たちに出会い、暮らしのなかにある豊かさを教えてもらったこと。
地歌舞伎や神楽、各地に脈々と伝わってきた、生活と地続きな表現に出会ったこと。
「暮らし」と「表現」が私の中でつながり、その力強さに惹かれていくと同時に、この奥には何があるのだろう・・ともっと知りたくなりました。

各地に脚を運び、フィールドワークをするうちに
日本でも北から南まで、土地や環境によって人の暮らしや特徴もまったく異なることを知るとともに、
日本だけでなく、アジア圏と日本の違いや、外から日本を見たいという思いもふつふつと心の中に湧いてきました。

アジア圏のフィールドワークをしたいと準備し始めた矢先、コロナ禍になり、全ての移動が出来なくなりました。

そんな中、
ご縁をいただいて、アジアの同世代の若手アーティストが集う東京芸術祭の中のプログラムに参加し、
インドネシア、フィリピン、マカオ、台湾、マレーシア、シンガポール、日本
の8人と2ヶ月間かけてオンラインでディスカッションをしたり、一緒にプレゼンテーションを作って発表したりと、自分のリサーチや興味があることを探究する面白さに改めて気付かされました。

当時、フィールドワークや、暮らしと表現のつながりについて
自分がやっていることは、果たして何かにつながっているのだろうかと、
まだまだ自分の中で自信がなくて、舞台芸術に携わっていると言えるのか、自分がやっていることは誰かに届くのか、本当に自信がない中、手探りで進んでいました。
それは今でも模索の中にありますが、この時彼らと一緒に過ごした時間の中で、「君がやっていることは、面白いよ!」と彼らに肯定されたことは、私にとって本当に大きな勇気になり、励ましになりました。
いろんなやり方があっていいんだ、いろんな芸術や表現があっていいんだ、と忘れかけていたことを思い出させてくれたのは彼らでした。

そして、いつかこの友人たちに会いに行きたいと、心から思いました。

これが、インドネシアへ渡りたいと思ったひとつのきっかけです。

【マレーシア人の英語の先生】
私が舞台芸術に関わりたいと思うようになった中学生よりももっと前。
私に日本の外の世界の面白さを教えてくれたのは、小学校のALTの先生でした。
マレーシア人の女性のその先生とは、クリスマスカードを送りあったり、様々な話をしました。
自分の国の外に、文化も言葉も違う人たちがいる。
その人たちと一緒に笑い合えたら、どんなに楽しいだろう。
1人の外国人の先生の存在が、その後、海外への興味へとつながり、そしてそれは、私にとって大きな世界へとつながる架け橋になってくださったのでした。

20年前、まだ幼く、この世の中のことや、世界のこと、社会のこと、なにもわかっていなかった、小学生のあの頃の自分。

私の人生で一番最初の夢は「海外で日本語の先生になること」でした。

それがどういうわけか、いろんな道を通り、今回こうして夢が叶うこと。
その機会をいただけることに、深く感謝しています。

今回、なぜ私はこのプログラムに参加したいのだろう、何を得たいのだろう、と色々と悩みながら考えていた時、
ふと、

そうだ、小さい頃からの私の夢は、「日本と海外をつなぐ人」になることだった。

と思い出したのでした。

それは、30年の人生を山あり谷あり、進んだり倒れたり立ち止まったりしながらも、ずっと私の心の底にあった目標でした。

「日本と海外をつなぐ人」
「日本の美しさを伝える人」
「ものづくりに携わる人」

これが、今の私の夢であり、やるべき目標です。

今回、日本の外に出て、インドネシアの子供達と改めて「日本」ってどういう国だろうと見つめることで、
それは私にとっても大きな発見になるだろうと思っています。

そして、小学生の私にとって
外国から来た1人の先生が、どれだけ大きな存在だったか。
そんな先生になれるかはわかりませんが、少なくとも
彼らにとって、何かしら、世界を広げる存在になれたなら。

外から見た日本に、私は何を見つけるのか。
それがきっと、これからの人生の中で
日本人としての私が、届けたいと思う何かのヒントになるのではないか。
そう思っています。

まだまだ、未熟者。
表現者としても、1人の人間としても。

だけれど、願わくば、これから10年、20年、もう少し。
年を重ねていけるのであれば
時間がかかってもいいから、私自身の言葉、私自身の伝え方で、
私が見るこの世界の美しさを、人のあたたかさを、
伝えらる人になれたらいいなと思います。

そのためには、怖がらずに、
まずはいろんなことに飛び込み続けること。

きっと、いろんなことが
人生の面白さを教えてくれるはずだから。

どうか、無事、インドネシアに辿り着けますように。
きっとあっという間に出発までやってくるでしょうが
まずはそれまで、日々の想いを少しずつ言葉にして綴っていきたいと思います。

不器用な私が、泣いたり悩んだり立ち止まったりしながらも、
えっちらおっちら、ぽてぽてと歩いてこれたのは
本当にたくさんの人に助けられ、励まされ、支えられてきたからです。

まだまだ、拙い。
たくさん学んでいかなければならない。

それでも、わたしなりの方法で、お世話になった人たちに
少しでも返していけるように

今できることを、真摯にひとつひとつ。
やっていきたいと思います。

どうぞ、よろしくお願いいたします。


もなみ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?