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「同じバスに乗る仲間」という言葉に出逢って考えたこと

これは、筆者がタイトルの言葉に出逢って考えたことを表現するためにしたためる文章です。できるなら昔からの友人に会って焼き鳥屋のカウンターでお酒を飲みながら話せば済むことなのですが、こんなご時世ということでなかなかそれが叶わないので、仕方ないから文章という形にしています。noteというプラットフォームがあってよかった。匿名での投稿ということで、誰に読まれるのか、誰かから意見が頂けるのかどうかもわからずしたためます。目に止まった方、どうぞななめ読みで読み流して、気が向きましたら辛辣すぎない意見をいただければ幸いです。

冒頭にあるように、最近私はタイトルの「同じバスに乗る仲間」という言葉に出逢いました。きっかけは某企業の人事担当者の炎上だったかと思います。弊社は待遇や給与にこだわる方とは働きたくありませんという内容でしたが、まぁまぁ炎上していたようでして、昨今のSNSで人事担当者が社名を出してこれを述べてしまうのはなかなか迂闊なことではなかったかなと感じています。ただ、その意見に同意的なリプライの中に、件の「同じバスに乗る仲間」といった言葉を見つけました。それを見つけたときに、心の奥に少しの抵抗感を感じましたのを覚えています。なんだか引っかかる言葉だな、嫌な感じだなと感じて、その正体はなんだろうとGoogle先生に尋ねていった次第です。


これ、どうやらベンチャー企業などで使う言葉のようですね。採用をするときに、この人を、目的地まで一緒に過ごす仲間として迎えられるかどうか。能力や経験だけでなく、一緒にいて居心地がよいか、同じ乗り物に乗って共に目的地を目指せるかどうかということを表現している言葉だと解釈をしました。


これが、私の胸にものすっっっごく痛かったのです。

痛かったということは、最近大いなる痛い目を見たからです。

恐らく私に今までこの視点が欠けていたんですね。当たり前のことじゃないか、今そのことに気が付くなんて社会性に欠けるなどという批判はどうぞご勘弁ください。なぜなら筆者は今まさに痛烈にそれを感じているからです。追い討ちで殴られたら社会復帰までの時間がさらに遠のいてしまうかも知れません。甘ったれたことは置いておいて、私は30代も半ばに近づいて漸くことことに気が付きました。今まで情熱と誠意を持って仕事をこなしてきてそれなりのキャリアを積み上げ、結婚を経て何度かの転職をしての失敗でした。思えばこれまでも、この視点を欠いていたことで同様の失敗をしてきてことを理解したのですが、改めて直近の失敗で痛烈に思い知った次第です。

私には「周りにこの人と一緒に働きたいと思ってもらえるか?」という視点が欠けていました。その結果、孤独になりました。誰のことも信じられない、心から笑うことができない現在の自分がこの失敗によって出来上がってしまいました。


具体的な話をすると、ただ退職しただけです。直接的には人間関係が原因で退職したわけではなく、キャリアアップを求めての転職であったことに間違いはありませんでした。ただ、在職期間に経営者によく思われていなかったことは確かでした。「同じバスに乗る仲間」として残ってほしいと思ってもらえなかったことは間違いなかったようです。


地方都市の狭い業界故に、その企業で人間関係がうまくいかなかったことで、周囲の人間にまでよく思われていないのではないかという疑心暗鬼を生み、わたしは退職後半年間、見事心神喪失で引きこもりになりました。転職自体はうまく行き、業務内容も個人で独立してできるものだったために仕事はうまくいっていますが、プライベートに及ぼす影響は大きく一時心療内科に通う日々が続きました。

人間関係の問題に0:100はないように恐らく私に100%の過ちがあって今回のような顛末になった訳ではないかもしれません。ただ、自分に「この人と一緒に働きたいと思ってもらえるかどうか」という視点がなかったことが、大きな原因であったであろうことが今になると感じられます。


もっとざっくりと俯瞰して客観的に述べれば、「立ち回り方を間違えて人間関係をこじらせ会社を退職した」だけの非常によくある話かもしれません。ついでに「人間関係をこじらせた結果豆腐メンタルがやられて鬱になって引きこもった」という現代あるあるのケースだということも言えそうです。Twitterを眺めれば3秒で見つかりそうな話ですね。ただそのどこにでも転がってそうな話の主人公として、それこそ当たり前に備わっているべき「周りに一緒に働いてほしいと思われる人物であるべき」という視点がかけていたこと、そこに気がついたことが、ここ数日な大きな出来事でした。


「給与や待遇にこだわる人を採用したくない」という内容で炎上してしまったツイートに、たくさんの否定的なリプライがついていました。確かにあの内容では、やりがいを求めてどんなブラックな条件や待遇でも働くと言ってくれる人を求めているように感じられてしまいます。ですが恐らくは発言者は、給与や待遇だけの条件を求めて、それらを与えてもらえる環境で与えられた業務を受動的にこなすだけの人ではなく、能動的に会社が進んでいきたい方角に向けて一緒に努力ができる人を採用したいということを言いたかったのではないでしょうか。同じバスに乗り、共に助け合い共に引き上げ合いながら仕事をしていきたいと考える人を、給与や待遇よりもその部分を重んじている人物を求めているということを伝えたかったのではないかと思いました。

これは、表題の言葉に触れたことで、前職の経営者もまたこのように考えたのではないかと思い至った次第です。初めこの言葉に抵抗を感じたのは、あぁ、自分がまさしく同じバスに乗る仲間になれなかったからだなと気がついたからでした。


私自身がよい社会人ではなかったように、企業側も全く責のない対応だった訳ではなかったように思います。私にたとえどれだけの落ち度があったとしても、認めることができないと思ってしまう一件もありました。ただこの自分の心神喪失を責任転嫁できる相手はなく、冷静に自らの足りなかった点を理解したいと考えています。


今後は共に働く人たちに「この人と一緒に働きたい」と思ってもらえるように、「同じバスに乗っていたい」と思ってもらえるように働いていきたいと強く感じています。そうすれば自分の感情や情熱、フラストレーションに振り回されることなく、共に働く人たちと助け合って同じゴールを目指して進めるのかもしれません。


長々とご拝読ありがとうございました。

ご意見いただければ今後の社会人生活に励みになるかもしれません。



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