7000文字の足場確認

前置きと長い言い訳

 突然だが、正直俺は類稀な能力を持っていると思う。
 人の非言語情報から感情を汲み取る能力、文脈から行間を読む能力、それらを濃淡で感じ適切な気遣いをする能力、必要であれば直感で得た結論を言語化して再構成する能力、それによって抽象的な物事を整理し深堀していく能力。
 これらを高水準で兼ね備えているからこそ自分の哲学を積み上げていけているし、きっとこの能力は一般社会でも営業やエンターテイナーとして非常に役に立つものだろう。
 この自己評価は別に無理矢理褒めているわけでも無い。ともすれば傲慢と言えるほどに自分でそう思っている。

 だがやはり自己肯定感は低いままだ。以前より少しマシになったとはいえ、常識が変わる前から自身の能力は認めていても自己肯定感は低いままだ。
 どれだけ切れ味するどい刀であっても、一度使うと折れてしまうのであれば使い物にならない。
 どれだけ能力が高かろうと、実際の業務に耐えれるメンタルが伴わないのであれば、意味が無いのだ。

 今回は自身の能力やそこからどういう考えに繋がったのか、今後の課題は。
 そういった感じのを包み隠さず書きながら整理していく。
 謙遜を省き他者より上だと言い張る、傲慢且つ勘違い野郎であることは自覚して、いや自覚はしていないが推測はついている。自分の間違いを納得は出来ていなくとも、先人が注意していた状況がこれなのだろうなと推測はついている。
 それでも今はまだ、こんな下らない自意識過剰でさえ俺にとっては追い風になっているはずだから、特別矯正せずに放置している感じだ。きっと今後多くの人に出会うことで是正されていくもので、べきものであるのだろう。
 そう思ってはいるので、もし読む人が居たとしても鼻で笑って流して欲しい。

 もう一点、これは俺の視点だ。きっと似たような視点を持つ人は多くないだろうし、居たとしても極端すぎて真似できないししたくもない考えだとは思う。
 参考にはならないだろうがまぁいいだろう。これは俺個人のために書いているのだから。

HSPとコミュ強

 今回の記事を書くにあたって、まず最初に触れなければならない根幹となる要素がHSPだ。
 繊細さんなどと呼ばれている、色々感じ取り過ぎて疲れやすくなる人の性質みたいなもんだが、厳密には各自ググってくれ。
 俺はそれのHSE、社交的なHSPにあたると思う。

 俺は人と話すのが好きだし、得意だ。きっと所謂コミュ力というのには秀でている方だ。
 対面で話している時は顕著だが、沢山の言葉ではない情報を読み取っている。
 視線、仕草、表情、黙り方。
 発言していない人が楽しんで話を聞いているのか、つまらなそうにやり過ごしているのか。
 笑顔で人当たりの良い事を言ってる人が、それを本心で言っているのか、建前を言っているのか、場を乱さない為に嫌な気持ちを笑顔で誤魔化しているのか。
 勿論もしかするとそれは相手の本心とは食い違った解釈だったのかもしれない。なにせ殆どの場合相手に確認などしていないのだから。
 だが一致しているかは問題ではないのだ。重要なのはそれを感じ取ったと思って、それに対して俺がどう行動するかなのだから。

 ともかく、そういった諸々を話している相手から、話していない他の人から感じ取って場を回すのも得意だ。
 喋りたい人が話しやすいように相槌を打ち、適宜話題に入れていない人に話を振って、誰かが行き過ぎて他の人を不快にさせかけたらフォローして、止まらなかったら角が立たないように窘めて。
 きっと俺はそういったコミュニケーション能力にはかなり長けている方だと思う。少なくとも俺が場を回している時は大体盛り上げられるし、微妙な顔で帰らせることも少ないつもりだ。

 この、人の感情などを汲み取る能力はHSPが特に強く持っている物らしい。
(その上で場を回すのが得意なのは俺の能力だが)
 勿論人間誰しも人の心を慮る能力を持っている。ようはその能力が高いというのがHSPの強みで、一方でそれを制御するのが難しいというのがHSPの弱点だ。
 そう、厄介なのがこの気付きの能力は必要に応じて感度の調整が出来ないのだ。
 憎悪、怒り、不満。そういった負の感情も受信してしまう。
 色んな感情を受信してしまうことで、人より多くの心へのダメージを受け、蓄積させていく。
 結果人と同じように日常生活を送っていても、人より疲れやすく打たれ弱くなってしまうというのがHSPの弱点だ。
 俺自身HSPという"くくり"を知った時は救われた。始めは仲間がいるという安堵かと思ったが、どちらかというと「他の多数は気付かないから平気な顔をして日常を送れているんだ」という納得の方が大きかったのだろう。

見て見ぬ振りをする罪悪感

 ここまでが一般的にHSPが抱えがちな問題としてよく挙げられるものなのだが、もう一つHSPに多く抱えがちな問題がある。
 それは「見て見ぬ振りをする罪悪感」だ。

 職場の同僚がスマホを見て歩いていて目の前の三角コーンに躓きそうになっているのに気付いたとする。その時あなたはどうする?
 当然「危ないよ」と声を掛けたり、三角コーンを先んじてどかしてあげる事だろう。だってそんなの、大した労力じゃないのだから。
 だがもしあなたが少し離れた位置で、見ず知らずのおじいちゃんの荷物を代わりに持ってあげている最中だったらどうだろう。少し大きな声を出す必要があるだろうし、或いは小走りで寄って三角コーンを蹴とばす必要があるだろう。
 しかももし、睡眠不足で元気がない日だったらどうだろう。おじいさんの荷物を持って大声で呼びかけるのは相当億劫じゃないだろうか。
 そしてある日同僚が言い出すのだ。
「いつも三角コーンどけてくれてありがとうね。ちょっと今動画良いところだから今日もお願いね」
 もはや恒例となったおじいさんは「ありがとうねぇ」と言いつつ、最近絶対自分じゃ持ちきれないだろう量の買い物をしてくる。
 そうやって誰かのために割いた時間は、本来やらなければならない自分の仕事のための時間を圧迫し、睡眠時間を削る。

 これがまぁ一般的な(?)HSPの生活なのだが、この人はどうすれば良かったのだろうか。
 勿論断ればいいのだ。自分の仕事に影響するほど誰かの手助けをするのは逆に自己管理が出来ていないとさえ言える。
 じゃあそう思う人に聞きたい。俺たちは一体幾つ断って、見捨てればいいんだ?
 大雑把に言うと普通の人が一つ二つ気付く間に10個くらいのことに気付いているのがHSPだとしたら、どうやって取捨選択をすればいい? 悩んでいるうちにも気づきは増えていく。やれることをやっている内に自分がそれをやめてしまうと円滑に進まなくなり、「なんでやってくれなかったの? いつもやってくれてたのに」なんて言われる。
 そうやって、気づき過ぎるからこそ自己防衛のために見て見ぬ振りをする回数も増え、塵も積もれば罪悪感は自分を非情な人間だと追いつめていく。

奴隷道徳と主人道徳

 さぁ、ようやっと俺の話になる。
 俺の場合さっきの罪悪感に関する問題は勿論あったが、比較的軽かった。
 何時からかは分からないが、少なくとも中高生の頃には防衛線が完成していたのだ。

「人のためにが行き過ぎて良いように使われるのだけはご免だ」

 母親がおそらく同じようにHSP故の気付きに長けていて、そのせいで壊れていったのを見ていたのもあるかもしれない。
 中高生の頃には既に、両親がリビングで喧嘩(というか酒を飲んで聞き流す父とそれを見て更にヒスる母親)を「夫婦喧嘩は犬も食わねぇ」と意図的に無視していた記憶もあるし、流石に今回はマズいかと思った時は子どもらしく無い非情で無感動な仲裁をした覚えもある。
 だから見て見ぬ振りする一つ一つへの抵抗は早い段階から薄れていた。

 だが一方で、軽かっただけであって無かったわけでは無いのだ。今だってゼロにはなっていない。

「俺は自己防衛のために無理なら見捨てると決めてるから今は見捨てる」

 これに罪悪感は覚えなかった。でも、

「無理なら見捨てると決めている自分が非情だ」

 この思いはずっと燻っていた。或いはいる。
 ここが曖昧なのは、最近気付きがあったがまだそれが定着していないからだ。

 その気付きはやはりマイブームのニーチェ先生から得たものだが、こういったものだ。

「社会というのは弱者のルサンチマンをベースに正しさを定めている。
 善く生きるためには先ず自身の力への意思が必要であり、その先で結果として誰かを助けることが手段になるのだ」

 ニーチェ哲学でいうところの"奴隷道徳と主人道徳"の話だ。
 元々主張する弱者こそが強者である社会に強烈な違和感は持っていたのだ。
 別に弱い立場にあるものは黙ってそのままでいとけと言いたいわけでは無い。断じてない。
 ただ「俺らは弱いんだから強者は俺らを助ける必要がある! 義務がある!」と厚顔無恥にも叫んでいる人たちには、白い眼を向けざるを得なかった。
 いや、向こうは好意、或いは打算で助けてくれて、それを有難く思いはすれど、当然の権利のように主張するのはおかしくないか?
 確かに理不尽な事情は打開すべきだし、不利な状況にある人はしんどいだろう。だが、例えその理不尽や不利に何の自己責任が無かったとしても、自分の出来ることをするのが自分の人生を生きるということだろ。
 それに国民は政府に税金という対価を支払うことで国家運営というサービスを享受する契約を結んでいる。だから金持ちが優遇されてしまうのは契約上当然だし、多くの税金を納められない困窮世帯が軽んじられるのも残念ながら当然だろう。例えば税金納めてない人に投票権が与えられているのは、国による好意とさえ思う。
 まぁそんな感じで、弱者は強者の好意にすがるしかないんだという考えを個人的には持っているし、それは自分が生活保護を受けるような弱者の立場になっても変わっていない。人は無力だからこそ、力を求めて力強く生きねばならないのだ。

 まぁ中々極端で過激な、反発を受けやすい考えであることは理解している。だからこれが正しいとは思わないし、人にこれを押し付けるつもりは無い。
 というかそんな意識高いことを言いつつ俺だって金持ちを妬むし国に不満を持つ。
 ”こう在りたい”という理想とそのための行動、それと内心で思うことは別で当然であり、その苦悩を受け入れて進むことこそ肝要なのだから。

他者に尽くすことが美徳

 話を戻そう。
 ともかくそういった"強者は弱者に尽くして当たり前"みたいな風潮が兎にも角にも、はっきり言って嫌いだったのだ。
 何故嫌いだったのか。それはおそらく間違いなく、俺が色んな事に気が付くタイプだからだろう。
 強者と弱者というより、結局はこの根底にある"他者に尽くすことが美徳"という考えが大っ嫌いなのだ。
 もしそうなのだとしたら、気付けば気付いた分だけ他者に献身しなければならないことになる。それはつまり、気付くだけ損という事になる。そしてつまり、気付ける人は良いように使われて当然だという話になる。
 そんなバカな話があってたまるか。なんでこのご時世に、好き好んでもいないのに文字通り"身を献げ"なければならないのか。
 よく気が付くというのは美徳であるべきだ。だがその美徳は自分にとっての美徳であり、他者から擦り付けられ強いられる美徳であるべきでない。
 あくまで「誰かの助けになることでその人から感謝され、感謝されることによって自分の価値を上げられる、そういった双方にとって利になるが故に美徳」であるべきだ。

 そう考えるとやはりこの「他者に尽くすことは美徳、ゆえに当然」という常識への反発が、俺の全ての根っこにあるのだろう。
 基本的に、俺は人の価値というのは肉体には宿っていないと思っている。「人の価値は、関わりのある他者の中で占めているその人の存在の大きさの総和」だと思っているのだ。
 そして他者の中で自分の存在を大きくするためには、相手に感謝されることが何よりも大事だ、と思っている。
 だから俺は誰かに何かしてあげる時に対価として感謝を求めるし、それを忘れた相手には何もしなくなる。そしてそれを隠す気も全くない。
 このような思想に行き着いたのも「誰かに何かしてあげたら、その行動は報われるべきだ」という願いに近いものに端を発している気がする。

 別に「誰かに好意で何かしてあげたのに、当然のように利用されるだけに終わった」みたいな感じの大きな切っ掛けがあったわけではない。
 この思いはそれこそ小学生くらいの頃からあった気がするし、こう思うようになった更にその原因は今のところはっきりしない。
 おそらく自身の細かい積み重ねと、記憶にも残っていない頃の母親の姿からだろうか。

得心がいった

 まぁいいや、また話を戻して昔から「他者に尽くすことが美徳」への強烈な違和感と反発を持っていた。
 一方で普通でなければという強迫観念と、それに反している自分の防衛本能の摩擦に罪悪感を持っていたわけだ。
 その思いは"普通"に戻ることを諦めてからも続いていた。
 当然だ、"普通"に戻ることは諦めたとしても、未だその執着は裏返って残っていたのだから。
 それが少し変わったのがニーチェの解説本だった。

 この図だ。
 力への意思というのは簡単に言うと「もっと自分でなんとか出来る力が欲しい」という意味だ。そしてその欲望は、自身の状況によって形を変えるという図。
 これに関してのこれ以上の説明は省略する。見たまんまだし、見て理解出来ないなら俺が説明してもまだ理解出来ないだろう。

 いずれにせよ、これで俺は色々得心がいったのだ。
 世の中は当然、被圧迫者とそれと比べると比較的強い者が大半である。そして国を建てたり憲法を書いた人は最も独立的な、気力の有る者である。
 もうここまで読んでいる人なんていないだろうから語弊なく遠慮なく率直に言って。
 程度の低い考えることを放棄して常識人ぶってる大多数の普通の人間共、彼らのために彼らの望みを叶えるようにルールや常識というのは好意で作られてきたのだ。
 それがキリスト教以降の価値観というやつで、武士道や騎士道、高貴な身分だなんて思想は貶められ逆転された。
(キリスト教国でも貴族とか騎士いたじゃんと思うかもしれないが、多分キリスト教に盲目的になりすぎてその矛盾に気付いてなかったんじゃねと思ってる。知らんけど)
 ただ結局のところ世界の覇権を持っているのがキリスト教圏(とそれに倣った国々)だという現状を考えると、そんな数のいる愚民共に寄り添う方が人類全体にとっては適しているのだろうな。そして立派な人は自覚的に、明日のパンのことだけ考えている人たちは無自覚に、それぞれが悪意なく連綿と繋いできたのが今の常識なのだろうな。
 つまるところぶっちゃけ「まぁ俺が賢過ぎて道中辛かっただけか」という得心がいって少し見方が変わった感じだ。

"普通"信者にはもう戻れないから

 びっくりしたか? これが本音だ。
 ここまでの6000字は全部「あ~程度低い奴らの常識で生きるの、意識高い俺にはアホらしすぎるわ~」ってのを言いたいがための前置きだ。
 おい、お前まさか面倒だから飛ばして読みに来てないだろうな。それはズルいぞ!
 基本的に今回の記事は自分の思考整理と吐き出しのために書いているとはいえ、ちゃんと読んでればただの傲慢な奴じゃないと分かるように言い訳してきたんだぞ! 色々考えた末にこうなってるって! いや傲慢なのはそうなんだろうけどさ。

 でも実際やってらんねぇんだよ。こうでも思わないとまだ、普通に捉われた昔に戻ってしまうんだよ。
 どう頑張っても、もう「献身は美徳であり当然」で「人生の無情さを見て見ぬ振りする」ような"普通"にはなることが出来ないんだ。
 だからニーチェの言葉を借りながら自分の哲学を築き上げてきた。
 でも"普通"への執着が強すぎて、少し前まで"普通"を憎まずにはいられなかったんだ。そう、ルサンチマンに浸らざるを得なかった。
 だがようやく出口が見えてきたとはいえ、まだ俺の自己肯定感は折れたままだ。
 だって俺はまだ何も行動できていない。
 頭でっかちだ。口だけだ。手と足がついてきていない。なのに心が付いてくるもんか。
 "普通"を憎むのには疲れた。だから今は一旦"普通"を見下しているんだ。
 ただこれは意識的で意図的で、一時的なものだ。そのはずだ。
 "無知の知"をソクラテスが知らしめて言った通り、きっとこの慢心は考え続けた者が一度は通る道なのだろう。
 多くの悪役が自身の理想の為に悩みぬいた末に「現状に疑いも覚えない有象無象が何人死んだところで知ったところか!」と叫ぶように、やはり陥り安い傲慢なのだろう。
 だけど俺は知っているはずだ。人間の一番の力は数なのだと。そしてその大多数の全員にこの苦難の思考の旅路を辿れというのは無茶であるし、でも一方で少なからず気付かずにはいられなかった人も増えてきているのだと。

 だから、この7000字は俺が俺のために書いた記事だ。
 今一度思考を整理して吐き出して、「ホンット世間の奴らは程度低いなぁ」なんて言ってスッキリして。そう思っている自分を誤魔化さず確定させて再確認させて、危ないぞって気を引き締めなおして。ここまで来たんだと記録を残して。
 手と足とを動かすためにルートを見据えるための最終確認だ。
 踏み切るための足場確認なんだ。

 以上だ。書きたい事、整理したいことはやり遂げたかな。
 もし本当にここまで読み切った奇特な人がいたのならお疲れ様。んじゃ。

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