欲深い

 今月末に「黎の軌跡II」が発売される。
 今の俺はその発売と、幾つかのなろう小説の更新を生きがいに生きている。

 あれから、動画の編集も止まった。
 あれをしようこれをしようというのもあまり湧いてこなくなった。
 なろうやアマプラやYouTubeやTwitterを何度も更新して、一時の興奮を探している。
 その割には多くの作品を「これ低俗で見る気にならんわ」とか切り捨てていく。
 そして昔見たアニメや読んだ小説を読み返す。
 それすら飽きてきて、また更新が無いかを探している。

 足りないんだ。
 満足が、快感が、興奮が。
 満たされないんだ。
 金が、承認欲求が、性欲が。

 先日とある人と話す時間があって、その人も言っていた。
「チャンスだ、と思える瞬間が来れば我武者羅に頑張れる」
 って。
 それって何時だよ。どんな気分だよ。

 振り返ってみても、俺の人生でその心当たりは大学受験の時だけだった。
 確かにあの一年間は熱中して勉強できたさ。でももうそれも10年も前の話。同じ俺かもしれないけど、別人のようにしか記憶が無いんだ。

 満足って、どんな感覚だった?
 ガッツリ睡眠をとることは出来る。でも寝起きに思うのは必ず「またこんな時間まで寝てるのか」だ。
 今日もなかなかに美味いラーメン屋を見つけて食って来た。でも食いながら思うのは必ず「また食費に使い過ぎてる」だ。
 ゲームで勝てる時はある。でも勝ったに思うのは「ゲームで勝ったからって威張るもんでもないのに喜んでる自分浅ましいな」だ。

 心底憂いなく満足できる感覚なんて、それこそもう何年味わってないかすら見当が付かない。
 これを頑張れば未来が広がるだなんて確信やトキメキはフィクションだ。
 こうしたら良い未来来ないかなぁなんて妄想することはあっても、酷く淡い希望的観測でしかなく、毎度自分自身の怠惰によって露と消える。

 いつもいつも、暇になる事を恐れてゲームや動画や小説を漁り、これも望んだものと違うとさすらっている。
 時間はあっても、行動はしない。何をやっていても「これは違う」という焦りが付いて回る。

 俺はただ、格好良く生きたいだけだ。自分らしく、自分の人生を考え抜いて生きたいだけだ。でも、そんな単純なことが、斯くもこの世は難しい。
 自ら望む理想は高く、しかし己が実像とは大きな隔たりがある。
 弱さは罪ではない。ただ現代においても尚、無力は罪だ。
 嘆こうと喚こうと、力なくして望みは叶わない。
 誰も助けてなんてくれないし、評価なんてしてくれない。
 自分の意見を、望みを、目論見を、利益を、快感を。押し通すには力が必要なのだ。幾ら綺麗事を並べたところで、幾ら例外が出てきたところで、人の世の本質は変わらない。
 力なくば、蔑ろにされる。

 分かってる。改めて確認するまでもない自明のことだ。
 それでもやっぱり、この文は俺自身に言い聞かせるための文だ。
 望外の幸運なんて、道標なんて在り得ない。チャンスは己で引き寄せる物なのだ。
 分かってる。分かってる。分かっていて尚、望んでしまう弱さは悪なのか。
 何度見て見ぬ振りをしようと、繰り返し自身を失うのだ。
 チャンスを引き寄せる為の努力を、そんな不確かな者を得るための努力を、出来る程俺は心の強い人間じゃないのだ。こんなにも臆病で怠惰な人間なのだ。

 確かな希望が持てるチャンスがあれば、人は頑張れるらしい。
 でもそのチャンスは頑張って地道な積み重ねをしなければ引き寄せられないらしい。
 卵が先か鶏が先か。
 チャンスの為の地道な努力は簡単なことでは無い。きっとそれには論理では足りず、過去のデータか無根拠な自信によってのみ裏付けられるものなのだろう。
 だとするなら、失敗続けの俺の人生は、データも自信もネガティブなものしかない俺の人生は、もしかすると詰んでいるのではないだろうか。
 今はまだ不安だ。そんな疑念だ。だがもしこの仮定に俺自身が確信を得てしまった時、俺はもう生きられないだろう。それが怖い。
 どう足掻いたって詰んでいて、描く理想に近づけないと納得してしまったら、その絶望に至ってしまったら、確実に俺はもう無理だ。
 何度も言っているように、俺はそんな人生に意味を見出せない。どう言い繕っても生きているというだけで避け得ない数多の苦悩をペイ出来ない。

 何時まで俺は目を逸らせるだろうか。
 疑念を疑念のままでやり過ごせるのだろうか。
 分からないが、間違いなく30歳の誕生日は一つのターニングポイントにはなるだろう。
 それまでに何か変わればいいが、望みたくても望めない。


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