弱者こそが正義

 昨日、シェアハウス内で政治の話を2時間ほどした。切っ掛けは入居者の一人が日本共産党を支持していて、中共を警戒する俺からすると信じられなかったから話を聞きたいと思ったからだ。
 これに関して結論から言えば、日本共産党は中国共産党とは決別宣言などもして、少なくとも表向きは関連を断っているとのことだ。勿論真偽のほどは定かではないが、それは他の政党も同じ条件だ。
 日本共産党に清き一票を! 俺は入れないが。

 まぁ共産党はいいんだ。
 その話を聞いた入居者の話を聞く機会自体は有意義だったと思う。
 8人くらい集まってほかの人の視点を聞く機会が出来たし、自分が普通からズレていることも再認識できた。
 ただまぁ、俺は「大義は我にあり!」って真顔で主張できる人が嫌いなんだなとは改めて思った。

 件の入居者は女性だ。才色兼備で、ジェンダーイシューに取り組んでいるという。
 そのこと自体は素晴らしいと思う。実際現代日本にもまだまだ女性に不利や理不尽があるのだろう。俺は男でその辺り言われなければ気づかないが、皮肉ではなく本心からそういった活動は必要なのだと思う。
 ただもう一つ本心を言えば、そういった活動をするのはいいが、活動している自分たちが正義で、反対する男どもは悪だという姿勢は煙たいので勘弁して欲しい。
 性差別だけでなく難民問題も、環境問題も、LGBTQも同様にだ。
 エネルギーに乏しい俺は貧困問題と教育問題に取り組むので精一杯だ。
 「こうして欲しい」と言われれば善処はするが、「ピピーッ! ジェンダー警察です! 今の発言は性差別です!」なんて言われれば嫌な顔一つくらいするのは自然なことだろう。

 改めて言うが、少なくとも俺の世界観では、強いことより弱いことの方が悪だ。

「この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ」

 るろうに剣心の志々雄誠の掲げるスローガンだ。
 これはある種、真理である。
 人間も動物だ。能力のある者、生まれの良い者、顔の良い者、金を持つ者。力あるものが弱者を保護する代わりに従えるのは自然の摂理で、それが本来の姿であると思う。
 昔であれば市民生活もできず、村社会からも追い出されるようなはみ出し者は盗賊にでもなるしかなく、強い騎士に蹴散らされその命を落とし、淘汰されていった。俺も昔であればそんな種類の人間だろう。

 だが勿論人間はそれだけではない。
 きっかけはどうあれ、人はその自然の摂理を否定した。
 誰も脱落しないで済むように支えあおうと、社会を作り上げることで自然に抗った。
 そう、抗ったのだ。
 差別の無い社会を、誰も飢えない社会を当たり前にしようと頑張ってくれることは本心から素晴らしいと思う。
 そういう活動をしている自分達は大義を持っていると思うかもしれないが、大勢があるのは相手だということは理解していてほしい。
 そしてその大勢に価値観を変えろと言っているのだ。価値観を変えるのは多大な労力を必要とする。その見返りを、そうまでするメリットまで一緒に提示してこそ現実的なのではないかと思うのだ。そうでなければ片手落ちじゃないかと思うのだ。
 ただ単に「社会的弱者を助けないのは悪だ!」と責めるだけではなんの動機付けにはならない。特にジェンダー問題における男性からすればデメリットの方が多い。それは金銭や待遇面だけではなく、誰かを下に見ることによって自尊心を維持するという手法が否定されるのだから。勿論それはくだらない生き方だと思うし俺もそれを肯定するわけではないが、心動かないのは事実だろう。

 自分は弱いんだ。困っているんだ。虐げられているんだ。

 それを盾に声高に叫んでも、極論「なら野垂れ死ね」と無視されない時点で有情なのだ。

 どんな選択にもメリットとデメリットがある。
 弱者のメリットは強者のデメリットとなる。
 勿論、なるべく弱者が生きやすい世界になったほうが健全だとは思う。
 だが強者は頑張った分全てを弱者に分け与えて当然の社会というのは、俺は最悪だと思う。
 自分が能力があるとバレてしまえばもっともっと無能どもに奉仕しろと批難される世界で、誰が自分の能力を発揮しようとするだろうか。
 弱いから補助を受けて当然の論の行きつくところはそこで、そして攻撃性を伴うルサンチマンは容易にその未来に辿り着く。(隣の南半島を見れば色々と見えてくる)

 そんな未来に行きつかないためにも、強者に対して掲げられる理由は「弱いから」であるべきでないと思う。
 「感謝される」「回りまわって税金が安くなる」「多様性は革新を担保する」「人口は内需」
 そういうご機嫌伺い、或いは揉み手をしながら助けを乞うという姿勢は便宜上取るべきだと思うのだ。内心いくら毒づいていても。

 中国共産党と違うといくら主張しても、共産主義はやはり無理があると思うのだ。
 人の能力は決して等しくない。本当に何も得意なことが無い人も居れば、才色兼備なスーパーマンもいる。
 全員が同じだけ頑張れば、能力の2乗くらいの成果の差がでる。
 それは平等であっても公平ではない。

 自分の楽というのは、大体の場合において他社にストレスを押し付ける行為だ。分業というのはそのストレスの押し付けを金で解決する手法だし、現代社会は自分のストレスを機械に押し付けることで保たれている。
 どんな選択にも、相手を含めると必ずメリットデメリットがあることを忘れてはいけない。

 思い付きを書いていったのであんまり纏まりがないが、一つ気づいたことがある。
 俺の意見がイマイチ伝わらないのは、俺の論が

・一般論(この考え方が主流であるべきだ)
・べき論(突き詰めて考えればこうあるべきだ)
・自分の行動(自分はこう行動する)

 が多くの場合においてそれぞれ明確に異なっているからだと思う。
 普通はべき論に従って自分は行動するし、それが正しいと思うからこそ社会全体がこうならなければならないと思うと思う。
 だが俺はこれらが容易に異なってきて、平然としているのが理解されないのだろう。

 突き詰めて考えれば○○になるよね。
 でもそれじゃ極端すぎるから一般には××っていう風になればいいんじゃないかな。
 まぁ俺は自分のメリットのために△△って感じで動くけど。

 この三つが異なったまま平然としているから、三つを混同している人からすると理解出来ないのだろう。
 次から自分の論を説明するときはこの三つが違うと明確に区別しながら説明しよう。














この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?