大切な人を守るために戦うこと

 先日読者の方から一つのコメントを頂いた。
 要約するとこんな感じだ。

言ってる内容は大筋あってるけど、相手への配慮が足りないです。
また、誰かのために自分を犠牲にして生きている人がほとんどです。
そんな人がいる中、生活保護を受け、なんの責任も負わず、自分勝手に主張している人、誰も共感なんてしてくれませんよ。

読者さん

それは仰る通りだと思います。
だとしても、なら僕はどうすればいいのでしょうか?
相手の事を思った上で、口を噤めばいいのでしょうか?
相手の事を思った上で、同じように苦しみながら自分を殺して働けばいいのでしょうか?

最内翔

「守るべき人が居ない」というのが問題ではないでしょうか?
誰かのために生きたいと思わない以上、生きていく価値を見出すことは難しいと思います。
そんな中生きていく価値を見いだせないと、病気で苦しんでいる人や、障がいで悩んでいる人の前で、語れますか?

守るべき人もいないのであれば、まずはボランティアをお勧めします。

読者さん

 この読者さんのコメントは非常に僕個人にとっても色々なことに気付かせてくれる有益なものだったので、書き留めておく。

反感

 いつも通り、最初は否定から入ろう。
 否定意見ばっかりで不快だなと思われる方は次の「気付き」まで飛んでいただきたい。

 コメントくださった方には悪いが、特にこれを読んで生き方を変えるつもりは無いし、ボランティアに行くつもりもない。
 最初に浮かんだのはやっぱり反感で、「それって単に自分の価値観を揺らがされたくないから俺を屈服させたいだけでしょ?」という感情だったし、社会人様と比べれば数少ないとはいえ働いていた時に誰かの役に立っているという感情は知っている。それ以上の大きな変動を期待するほど、僕はボランティアを大層なものだと考えていない。
 病気や障がいで悩んでいる人の前で「生きる意味なんて無い」とか言ってわざわざ波風を立てるつもりは無いが、言えと言われれば言う事に何の躊躇いもない。
 それは「死にたい、消えたい」と言っている人に一般論を押し付ける行為とほぼ同質のものでしかないからだ。これに反対する人はおそらく、「鬱は甘え」といった感じで無理解なのだろう。この絶望感や諦観や恐怖は気合でどうにかなるものではない。
 つまり相手に対して(寿命を分け与える等)何か出来るわけでもなければ、自分でなんとか出来る(気合で普通になる)わけでもない。「悲しいね」としか互いに言えない問題でしかない。
 例えば目の前の夢持つ少女が病気で死にそうで、自分が心臓のドナーとなることで救えるのなら、迷いはするだろうが、心臓をあげるのもまぁ悪くは無い選択だと思える。そんな状況でない限り文字通り「どう仕様も無い」話である。

 繰り返すがだからと言ってわざわざ本人に言うつもりは無い。無いが、20人程度しか読まれていない不特定多数向けのnoteに書くのを自粛するほどのことではない、というだけだ。
 俺は自分自身のためにこの記事を書いているし、そこに結構なメリットを感じている。そのメリットを不快に思ういるかいないかもわからない人のために犠牲にするほど、俺は聖人君主ではない。ブラバしてどうぞ、の一言である。

気付き

 まぁそれはどうでもいいのだ。
 コメントがどうでもいいという意味ではない。どっちが正しいかを議論するのに意味が無いということだ。それは今後の僕の人生の中で確かめていくしか無いのだから、これ以上はただただ自分の価値観を守りたいが故の攻撃でしかない。

 最初に述べた通り、今回のコメントで幾つかの気付きを得た。
 一つは、思ったより自分がタフになったなということ。
 今回頂いたような内容は、誰よりも自分自身が強く思い込んでいる正論である(現在進行形)がゆえに、僕にとっては非常に「致命的」な言葉であった。「甘え。気合と忍耐が足りない」と言われてるようで、自己肯定感が地の底まで一気に突き落とされる言葉であった。会社を辞めたのも、本質的にはこれが直接の原因だ。
 だが、今回は「大打撃」程度で済んだ。最初コメントを読んだ時はゲーム中だったのだが、一気に頭が真っ白になり(友人とプレイしていたのにも関わらず)ゲームを中断して返信を書いた。寝る前にうんうん思い悩んで寝付けなかったし、朝起きて更なる返信が来て読んでからは、ずっとグルグル自分の中で反論をこねくり回して、シャワーを浴びながら整理した。
 それでも、まぁ時間で見れば一晩で済んだのである。今までであれば余裕で3か月くらいは後遺症が残る内容だったはずだ。それに比べれば軽傷で済みそうな理由は、結局のところ自分の中の価値基準の安定と、やはりこうやって文字にすることで吐き出す術を得たことだろう。
 noteを書いている一番の理由はこれだ。自分の感情を整理して形を与えて保管できることだ。居るかも分からない誰かのモヤモヤを予防するために自分の3か月を犠牲には出来ない。申し訳ない。

誰かのために

 二つ目だが、これが今回の本題だ。
 「家族のために」「従業員のために」「地域のために」
 誰かのために身を削って働くこと、その感情を忘れていたのはきっと、ご指摘の通りだった。忘れて無かったつもりだが、忘れて、リスペクトが足りなかった。これは間違いなく僕自身の落ち度だ。

「誰かのためになんてくだらない。他人を言い訳にしてるだけだろ」
 みたいな感じで、その価値観を否定するつもりは一切ない。正直、言い訳にしてるだけだろうと全く思わないと言えば嘘になるが、それ以上にその思いの真摯さには敬意を示すべきだと思うし、実際に凄い、今の俺には出来ない、と思う。
 だというのに、これまで過去の社会人様たちを想像する時、その一番の根幹となるだろう思いを軽視していた。「自分の幸せが」云々の観点から穿った憶測をしていたのは、確かに不遜なことだった。これに関しては改めるよう心がけようと思う。
 実の親ともソフトに断交している「無敵の人」の一員である僕にとっては、久しく忘れている思いだったのだ。
 勿論誰かのために何かしてあげようと思う事は多々ある。だが絶対に「自分の身を削らない範囲で」という一線を引いていた。身を削ってまで誰かに尽くそうという献身に、拒絶反応のように恐怖していた。だからそれを主軸と置いている人への想像が足りなかった。のだと思う。

まとめ

 思い出して尚、やはり僕は生き方を変えるつもりは無い。社会人様たちは兎も角、僕自身は打算的な人間だ。ボランティアという行為をしようと、そこに人のためになんて真摯さは持ち合わせられないタイプの人間だ。
 そんな僕が打算抜きに献身しようと思える人が現れてくれるのであれば、それは僕自身にとっても望ましい事だ。だが実の親に対してもそう思えないような社会のクズに、そこまで深く寄り添ってくれる人が現れるとは俺には思えない。故に期待できないし、しない。
 でも、それでも過去の先達の家族や従業員を守ろうという真摯さを、その善意へのリスペクトを忘れていたのは僕自身の過ちだ。それがどのような結果を導いていたのであれ、その善意を否定してはダメだった。

 そんな所か。以上。

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