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ニート哲学原稿「力への意思」

神は死に、真理無き世界に私たちは生きているとするなら。
であるとするなら、突き詰めて考えれば考え方や選択に貴賤は無い。
どの考え方も選択も、等しく正しく、同時に不正解なのだから。
ならばいっそ、自分にとって都合の良い解釈をし続ければ良いのではないか。

こう聞くと、とてもではないが殆どの人には受け入れがたい話だと思う。
それを肯定すると陰謀論者やひどい自己中心野郎、時には犯罪者までが肯定されてしまうだろうと。
だが少し判断を待って欲しい。この理論には一つ、強烈な但し書きが付くからだ。

但し、ここでの都合の良い解釈というのは「その解釈によって生じる不利益、特に周囲の人にどう思われるかも計算した上で」都合の良い解釈をすれば良いという意味だ。
それ故にこの理論はある程度の賢しさを持っている事が必要条件となる。

こう概念的に説明しても中々イメージがしづらいだろう。
まぁ結局何が言いたいかと言うと、

「別に常識とか良識が唯一無二の正しい考え方じゃないんだよ。もっと自分の心が良いと思うものを肯定してあげて良いんだ。それを肯定するためにも僕らは学び続け、観察し続け、考え続けるべきなんだ」

「心に従え」
 そんな何処かで聞いたような陳腐で、でも何より大事な考え方に哲学的な裏付けをややこしくこねくり回しているに過ぎない。
 そうしなければ、僕は常識を振りほどけなかったから。
 なので本質的には僕の言う力への意思は、常識の呪縛を振りほどき、その上で常識と対等に手を組めるようになるための方法論である。そう思って聞いて欲しい。


ワクチンを打つべきか
 僕流の力への意思の考え方を説明するにあたって、丁度いいのでワクチンを打つべきかということについて論じていきたい。
 まず最初に言うと僕はワクチンを打っていない。ただ気が向いたらワクチンを打つ気はある。別に否定派ではない。
 そしてそういう選択に至ったこの考え方については名著「嫌われる勇気」で書かれている内容が非常に影響を与えている。もし読んだことがある人は是非その内容を思い出しながら聞いて欲しい。

 まず最初に考えるのはワクチンを打つメリットとデメリットだ。
 メリットは分かりやすい。感染リスクと、感染時の重症化リスクを減らせること。あと周囲に白い目で見られないことだ。
 デメリットは副反応で寝込むこと、場合によっては致死の可能性も否定できないこと。そして何より予約取って出かけるのが面倒くさいことだ。

 その上でそれぞれのメリットデメリットがどれだけ重要かを考えていこう。
 感染リスクの低減に関しては、実は僕の場合あまり重要ではない。そもそもの話、基本的に自主的に自宅謹慎をしていて誰かと濃厚接触する機会が圧倒的に少ない人間だ。そんな機会なんて週に一回あるか無いかだ。評価は100点満点中10点くらいか。
 重症化リスクの低減に関しては、まぁそれなりに価値があるかもしれない。だがそもそも感染の機会が少ない事を踏まえると50-20の30点といったところか。
 ワクチン論争の面倒なところとして、感染すると他人に迷惑がかかることだ。故に他人からの視線がシビアになって、日本人は特にそれを気にする。僕にとっては大体70点くらい。ワクチンを打つとすれば大半はこれが理由になる。

 次に副反応で寝込むこと。これはそれなりに面倒だ。8,9割の人が副反応で結構しんどい思いをしたそうだし自分も多かれ少なかれそうなるだろう。しんどいのは嫌だ。60点。
 副反応で死んだり後遺症が出るかについては、まぁ可能性は0ではないが相当確率は低いとは思う。だからまぁ体感的には5点くらいか。最悪死んだら「あっ、マジか外れ引いた。まぁそれならそれで」くらいで諦めつく程度の価値しかないし。
 次に単純に面倒くさい。繰り返すが僕はひきこもりだ。最近は大分マシにはなってきているとはいえ、様々な要因から何かを予約して、その時間に外に出るというのは人並み以上に体力のいることなのである。これはその時の体調とか諸々によって変動するとはいえ、大体50~90点くらいの大きなデメリットだ。

 あとは備考として長期的視点。
 どうせワクチンが一回で終わるわけが無いし、時間とともにウイルスも弱毒化していく。
 インフルとかもそうだが、ウイルスも生存戦略として自らが殺されないよう変化し耐性を得ていくものだし、宿主を殺すよりかは長く活かした方が他人に移りやすいので弱毒化する。
 それにワクチンを打つというのはつまり予防接種だ。弱らせた/弱い似た性質のウイルスを打ち込んで、そいつらを倒す予行演習を行うことで耐性を上げる事だ。だから決してウイルスが体内に入るのを防ぐものではないし、予行演習してたって負ける事はある。
 そんな話を見聞していて、それを道理だと思っていたので、まぁ一回我慢すりゃ万事OKとは全く思えなかったのだ。
 そう分析していて現在を振り返れば、案の定という感じだ。ワクチンを打っていても感染する人はするし、僕はしていない。ワクチンは4回目とか言ってるし、ウイルスも変化して弱毒化している。コロナウイルスはタチの悪い風邪とまでは言えないが、そろそろそう言えるレベルにまで近くなってきているだろう。風邪だってインフルだって、死ぬ時は死ぬ。

 じゃあ最後に計算だ。メリットをプラス、デメリットをマイナスで計算すると(面倒くささを中央値の70で計算すると)、
10+30+70-60-5-70=-25
 といった感じでデメリットに振れる。
 これが僕がワクチンを打っていない理由だ。

事実なんて認識上の意味付けでしかない
 注目して欲しいのは、これらの点数付けが極めて個人的な理由によってされているからだ。感染リスクがそもそも低いのも、外に出るのがしんどいのも、死ぬのにそこまで強烈な拒否感が無いのも、極めて個人的な理由である。
 確かにワクチンを打つことによって感染に関するリスクを低減出来ることも、最悪の場合死に至る事例があることも事実のようだ。ただその事実っぽい現象にどういう意味を見出すかに正解なんて無いと思う。その理由は前回解説した通り、真理なんて僕らには辿り着けないからだ。正解じゃないなら好きに解釈すればいい。
 コロナが全世界に広まったことですら、行きつけの飲み屋が潰れた事象と捉えることも出来れば、リモートワークが広まった好ましい契機と捉えることも出来る。
 ありきたりだが、所謂「捉え方次第」というものだ。

自分の問題と他人の問題
 こういう話をすると、人によっては不謹慎だと思う人も居るだろう。
 コロナで身近な人が亡くなった。ワクチン未接種の人のせいで自分が感染した。不謹慎だ。
 こういう意見に対してどう考えるか、僕はこの言い方はあまり好きではないが分かりやすく言えば「それはあなたの感想ですよね?」である。

 不謹慎なことを言うか言わないかは自分の問題であり、それを聞いて不快に思うのは相手の問題である。不快に思ったことを抗議するのは相手の問題であり、その抗議の軽重と自分が言う事によって得られるメリット(スッキリ感とか賛同を得るとか)の軽重を天秤にかけるのは自分の問題である。
 人は他人の思考や行動を誘導することは出来ても、直接任意に操作することは出来ない。だからどこまで行っても、他人の考えや行動というのは思い通りにはならないものなのだ。だから他人の考えや行動が思い通りにならないと嘆くのは無意味とは言わないまでも非効率なアプローチでしかないと思うし、その暇があるならどうすれば相手に変わってもらえるか、その交渉手段に思考を巡らせるほうが建設的ではないか。
 そう考えると、不謹慎と言う人は倫理観を武器にあなたに変わるよう交渉してきているに過ぎない。

倫理、善悪
 ではここで倫理観、あるいはもっと大きく善悪というものがどれくらい大事なものか、僕の考えを話そう。
 「有効なものだが、選択的なもの」
 先ほどのワクチンの話を聞いてどう思っただろうか、正直自分もやれと言われたら面倒くさいと思わなかっただろうか。
 そうなのである。メリットデメリットを丁寧に切り分けて、それに一つずつ意味づけをして考えるのは非常に面倒くさいことだ。それに対する回答こそが善悪である。
 あらゆる事柄を一つ一つ考えるのは大変だ。だから大体の人にとってメリットが大きくなる結論を倫理とか善だとか言うようになっている。予め模範解答を用意しておくことで、思考プロセスをスキップできるようにしてくれているのだ。
 そう考えると、倫理や善や常識というのはやはり絶対的な正解でないと分かる。汎用的な方法論でしか無いのだ。その証拠に、昔は肯定されていた教師の拳骨が今では体罰と否定されているなどといった例は枚挙に暇がない。それ以上にそもそも、そういった物は人によって異なる。
 であるならどうだろう。倫理、善、常識。「そういった物がもしあなたにとって不利益をもたらすものであるなら、それに従う必要があるのだろうか」。繰り返すが、絶対的な正解なんて今の僕らには辿り着けないのだ。つまり倫理や善や常識は絶対的な正解じゃないのだ。方法論に過ぎないと僕は強く思う。だというのに何故自分にとって不利益が出る方法を強要されなければならないのか。
 今あなたを縛る価値観がもしあなたを苦しめているのなら、その価値観を絶対の座から方法論にまで叩き落せ。
 これが僕が伝えたい一番コアの部分である。
 じゃあ叩き落した後どうするのか。それが常々言っている「自分で考えろ」である。
 自分にとって何が重要で、何が関係の無いものか、セット販売の常識を否定するのであれば自らカスタマイズすれば良いのだ。

 さて、ここまで聞いて如何だろうか。
 きっと「言いたい事は分かったけどかなり滅茶苦茶ハードルの高い事言ってるよ……」と感じているのではないだろうか。
 そしてそれはその通りでしかない。僕だって、全ての事柄を0から考え直しているわけではない。出来るわけがない。
 だがこれにはテクニックがある。やり方がある。
 次はそれを解説しよう。

 まず第一に、倫理、善、常識を大事にすることだ。
 待てよ、さっき否定したじゃないかと思われるかもしれない。だが思い出して欲しい。「もしあなたを苦しめているのなら」と僕は言った。
 先ほども言った通り、もうまとめて常識としてしまうが、常識は「大体の人にとってメリットが大きくなる結論」だ。つまり、それらの大部分はあなたにとっても有益に働いていることが殆どだ。有益に働いているのであればそれをそのまま踏襲すればいい。わざわざ解体しなくても良いのだ。
 問題は常識とか言うものはセット販売であるということ。そしてそのセットの一部があなたにとって邪魔なものとなっていることだ。
 常識を鵜呑みにするのではなく、かといって全否定するわけでもなく、利用する。その為には常識に従った時に心に引っ掛かる微かな違和感を見逃さないこと。そしてその違和感の正体にトコトン向き合い、形を与えることだ。
 形を与えるには色々手段がある。僕は言葉を用いたが、人によっては音楽や絵画の方が適しているかもしれない。ぼんやりとした違和感に輪郭を与え、その違和感を認めてあげる事だ。大丈夫、常識と違っても、どちらも正しいし、どちらも正解ではないのだ。

 そしてこれは上級編にはなるが、今日の主題である力への意思のもとにピラミッドを再構成することだ。
 自分の中の違和感に形を与える作業を続けていくと、ある時その違和感がある所に集約していくことがある。

「見知らぬ人に何を言われてもどうでも良い」「話したことがある人に悪く思われているのはとても怖い」「裏に隠している醜く怠惰で傲慢な自分を見せたくない」「バレなきゃいいの精神はそれなりにある」「外から与えられた思考で考えを止める事が嫌」「独善的な悪役にはそれなり以上に共感する」「死んだり存在が消えてしまった主人公を思ってくれる場面が滅茶苦茶心に来る」

 そんな幾つかの要素が、僕の中では一つの言葉に集約された。

「格好よく在りたい。自分自身と、数少なくとも自分にとって大事な人たちに格好いいと思ってもらって惜しまれて死にたい。」

 それが僕の生きる意味だ。
 因みにニーチェの場合は「超人(意訳するとめっちゃ精神的に成熟した人)の誕生のために道を繋ぐこと」だったらしい。(多分に個人的解釈が含まれてはいるが)
 僕の場合は一つになったが、人によっては2つとかになるかもしれない。それはまだ分からない。
 だがその極少数のあなたの欲望、その根源に形を与えられた時、世界はとても単純な形に再構成される。

 他人の問題は思い通りにならないものだ。なら嘆くのではなく、どう交渉するかという問題にすれば自分の問題に出来る。
 自分の考えや行動も、全て自身の生きる意味を基準に選択すれば、後々モヤモヤが残ることは非常に少なくなる。
 全ての事象は捉え方に過ぎない。ならば自分にとって有利な捉え方をすればいい。

 ただ最初に述べた通り、自分にとって有利な捉え方をすればいいと言うのは、都合の悪いことに目を瞑ることでは決してない。
 むしろ真逆で他人に与える影響をしっかりと計算した上で、顰蹙を買う方が不利であれば常識的に振舞うことで大多数の賛同を得られるだろうし、文句を言われようと貫き通した方が有利なら貫き通せばいい。
 ただ忘れてはならないのは、人間にとって数の力は何よりも重要なものだということだ。一人で成し遂げられることには限りがあり、多くの場合あなたの生きる意味の達成には沢山の人の協力が必要になるだろう。だが一方で、必ずしも全人類の協力が必要というわけではない。ならば必要人数以外には嫌われても構わないということだ。
 そこまで考え抜けばやっと、世界はとてもシンプルになる。「生きる意味」という一つの条件の元にソートされるのだ。

 長くはなったが、異常がニート哲学における「力への意思」だ。
 ニーチェ哲学のそれとは厳密には違う所もあるし、大いに「嫌われる勇気」というかアドラー心理学の影響を受けているというのも、読んだことがある人には分かることだろう。
 今回はかなり難しいことを言っているとは思う。
 なのでまとめとして、

・倫理、善悪、常識。それらは絶対のものではなく使い勝手の方法論でしかない
・セット販売なそれをうまく利用しつつ、そこに感じた違和感こそを大事にして欲しい。
・それだけでは足りないのであれば、是非ニート哲学とも比較することで違和感を見つけ出して欲しい。

 以上である。
 そう、繰り返しているように、ニート哲学は正解ではない。これまでの常識と取って代われる類のものではない。
 だが極端ではあり汎用性は圧倒的に劣るとはいえ、考え方のパターンのセット販売であるという点で、常識と同格のものである、ものでしかないのだ。
 僕が今目指しているのは常識の対抗馬となるような、考え方のパターンのセット販売、もっと広く生き方のモデルケースを提示することだ。
 決して正解ではない。正解は無い。なら沢山のモデルケースの中から近いものを探し、そこに残る違和感からカスタマイズして誰かが自分の人生を生きられるよう、その一助になることを目標としている。
 なので応援してもらえると非常に有難い。

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