正解

 少し前、友人と話したことがある。

「時間をかけてトコトン話し合えば、どんな事柄でも同意に至れる」か否か

 友人は可能と考え、僕は不可と答えた。


 世間一般に於いて、「正解」と言えば何だろう。

「どのラーメン屋が一番美味しいか」
「どのような政策をうつべきか」
「上司に無理すれば出来るという程度の仕事を押し付けられた時どうすればいいか」
「きのこの山、たけのこの里どちらが美味しいか」
「仕事と家庭どっちを優先すべきか」
「結婚は何時(何歳で)したらよいか」

「『正解』はなんだろう?」

 こう問いかけると、勿論誰もが答えるだろう。

「正解なんて無い」

 勿論全員ではないかもしれないが、まぁ殆どの人がそう答えるだろう。
 だが一方で、僕は現実問題「正解」は存在していると思う。
 より厳密に言うと、「『自分達の意見は正しい』と容易に他の意見を潰せる選択肢」。そういったある種の「錦の御旗」は存在していると思う。

「一番美味しいラーメン屋は☆5のラーメン屋」
「コロナの感染を抑制する政策」
「少しの苦労も投げ出す奴は出世できない」
「きのこの山」
「家庭を守るには仕事を優先しなければならない」
「25歳にもなって所帯を持っていない奴は行き遅れ」

 時代によって、”錦の御旗”の所持者は変わっていく。
 「家で飯を作って子供の世話をするのが女の幸せ」なんて、昔は一般的だったが、今言ったら社会的にほぼ即死する。

 なら”錦の御旗”の在処はどういった選択肢なのだろうか。
 大体の場合において、それは「最も沢山の人数が支持する選択肢」だと僕は捉えている。少なくとも日本に生きて、感じている限りは。

 その根拠、拠り所の根っこの部分は、厳密には合理性でも論理でも無い。
 勿論合理的な理論の方が沢山の人数が支持し易いだろう。だが殆どの凡人にとって、先鋭的な理論は現実になり在り溢れて拒めなくなるまで感情的に支持し難い。そこには往々にしてタイムラグが発生する。
 個人レベルなら兎も角、社会に浸透するにはタイムラグが発生する。その理論が浸透し、市民権を得て、多数派になり、ようやっと”錦の御旗”を得る。

 ”リモートワーク”とかが例として分かりやすいだろう。コロナ前から、一部の会社はリモートワークを導入していた。仕事内容にもよるが合理的に考えればリモートワークの方が生産性が高まる会社は幾らでもあったが、つい数年前まではその概念は眉唾物であり、言葉を知らぬ人が大多数であった。
 それがコロナという世界規模の転機により浸透が超加速し、十二分に市民権を得るに至った。人によっては自身がもはや世論の多数派だと考え”錦の御旗”を掲げ、一方では未だ変化についていけない人が多数と考えオフィスワーク至上派も"錦の御旗"を背負っている。

 今更だが、”錦の御旗”というのは「天皇の意思の許、朝敵を討て」という意味を持つ旗だ。分かりやすく言えば「自身の主張の正当性を示すもの」を表現する単語であり、当然日本固有の言葉である。
 (多分)一番有名なのは戊辰戦争での逸話だろう。明治維新(厳密にはその少し前)の時代の話だ。
 黒船に開国を迫られた日本は二つに割れた。新選組の活躍する時代を超え、徳川慶喜は大政奉還(政権を天皇に返して幕府を終わらせたこと)をした。その後薩長同盟を基に列強に対抗するため富国強兵を推し進める新政府が作られるが、旧幕府軍がその急な流れに反抗。京都の鳥羽伏見で軍を相対することとなる。
 両軍とも一所懸命に議論を重ね確かな信念と論理を以て対立する主張をした。列強に対抗するのを急ぐためため、或いは幕府からの御恩と強引なやり方への反発、互いに己の正しさを信じて何万の兵を集めたのだ。
 だがその正しさの衝突の均衡は一枚の旗に依って瓦解する。その旗は天皇の意思。現人神たる天皇が新政府軍を支持した、現代ではたった一人の人間の意見とさえいえるものが、論理を超えて新政府軍の士気を天井知らずに高揚させ、旧幕府軍の士気を叩き折った。

 当時は、正解とは天皇の言葉であった。玉音こそが正しさであった。
 それが現代では、言ってしまえば世論のような、体感レベルの実数値も基本無い、曖昧なものによって保障されている。
 別にそこに優劣は無い。前置きが長くなったが、ようやく本題に入ろう。


 この世界に生まれ落ちては死んでいく、凡その人は凡人で、凡人は皆自信が無い。自分の考えや感性が、間違っていないか常に不安だ。そんな不安定な心を嫌って、誰もが皆安定した正解を求める。保証してくれる拠り所を求める。
 世論か、天皇か、或いは絶対神か。
 不遜ながら天皇もまた人だと認識しているし、宗教もまたその当時からすると数歩進んだ人の論理でしかないと個人的には捉えているから、本質的には同じだとは思うが。
 少なくとも現代日本に於ける”錦の御旗”の在処は、”多数の人数が支持する選択肢”にあるという仮説を真とするなら、常にひと昔前にあるということになる。タイムラグがある以上、常に遅れて”錦の御旗”は受け渡されていく。

 数十年前まではそれでも良かった。具体的には通信技術の進歩の前までは。
 時代の変化は緩やかで、”錦の御旗”の受け渡しのタイムラグはそこまで大きな問題とならなかったから。
 だがインターネットが発達し、アメリカ大統領の一言で遠く海を越えた会社の株価が即日上下するような現代では、”錦の御旗”のタイムラグは大きな問題となりうる。

 凡人は弱い。自らの考えや感性を信じられないし、変化についていくのは辛い。
 誰かに自分の生き方を肯定して欲しいし、それで安定したのだからずっと変わらず保証し続けて欲しい。
 だが諸行無常。人も街も、制度も、変わらずにはいられない。
 変化を敏感に感じ、"普通"と異なる考えや感性を抱いた時、抱けたとしても、それを信じることが出来ない。凡人は弱い。
 もしそれを信じようと声を上げても、周囲の「正解」の声がとてもとても大きい。何より、自分の中に長く住み込んだ「正解」ががなり声を上げる。


「時間をかけてトコトン話し合えば、どんな事柄でも同意に至れる」か否か

 僕は不可だと考える。
 人は得た情報を基に論理を重ねる。
 だが論理の組み立てに伴う取捨選択は、各々の経験か他者に提示された"正解"によってその軽重を定められる。
 話し合いで必ず全て解決するとするなら、その答えはきっと真理というものだろう。
 だが人類史の有史以来、未だ人類はその真理に辿り着いてはいない。少なくとも僕は満足する”正解”を得られていない。

 まだ僕たちは真理の探究の歴史の途上であるとするなら、やはり世間一般の”正解”は警戒すべきものだと思うのだ。
 それに頼ると、時代の先頭を走ることは出来ない。少なくとも己の可能性を摘み取る危険性がある。かといって無視することは出来ない。人の協力を得るためには、キチンと通さなければならない筋というものがある。

 でも、まぁ。俺は凡人だ。身に余る理想を掲げた、頭でっかちの凡人だ。
 どれだけ言葉を尽くしたところで、自分の正しさを信じられない。保証が無くて怖い。己の考えを、感性を、経験を信じきれない。
 それでも、尚、己の世界観が正しいと主張したいのだ。
 もし俺が時代の最先端付近を走れるとしたのなら、きっとその道は保障なき道だろう。何時だって保証は後から遅れて生まれてくる。
 今の世も、先人達がそうやって、保証の無い道を善く在れと、良かれと思って切り開いて、その後を人々が追認する、大きな試行錯誤によって作られているのだろう。そして当然、その裏には当時の追認なく奇人として埋もれて行った人々ももっと沢山いる。
 難しいのは世間の指示を得られるのは、何時だって時代の一歩だけ前の者達だけだということだ。あまりに時代を先取りしすぎると、やはり奇人として埋もれるしかない。

 正しい保証も無ければ、丁度いい保証も無い。
 それは、とても怖い。
 だが、まぁ。
 少なくとも俺が間違っているとも限らない。
 "錦の御旗"を掲げているだけの人たちの言葉なら、それは時代遅れの言葉とも言えてしまうのだ。
 少なくとも挑戦することは悪ではないはずだ。
 先人達が繰り返してきたことだし、そもそもほぼ100%大きな流れで言うと寄り道の可能性が高いのだ。俺が到達できるような真理なら、とうの昔に人類史が到達している。

 だから、俺はいきなり成功なんて出来なくていいんだ。

 いつもの通り、俺はただそれを言いたかった。
 いつも通り俺自身に言い聞かせる為だけに、この3500文字を書いたわけだ。
 失敗を恐れるな。失敗出来る場所を作るためなんだから、俺自身も失敗をしていいんだ。
 ただ、そう俺自身が思いたいのだ。
 世の中は、単純なことほど難しい。

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