自己受容のやり方

 昨日寝る前にふと、俺はどうやって自己受容を進めたんだろうと振り返った。
 俺は、自己肯定感は低い。自己否定が基礎にあることは変わっていない。だが自己受容は概ね完了しているとは思う。まぁ、相当回りくどい手順を踏む必要はあったが。

①自己受容とは明らめ

 自己受容は、自己肯定とは違うと俺は認識している。自己肯定は「良いじゃないか」の精神、自己受容は「仕方がない」の精神といった具合だ。
 自己受容は自己否定から出発している。自身のあれこれを否定し、望ましくないものを望ましくないまま己に取り込む作業。
 自己肯定は元々肯定的であろうが否定的であろうが、それを肯定的なもの、望ましいものに変換してから己に取り込む作業。
 自己受容はその性質上、望ましくないものを己に取り込む。そしてそれは恒常的に異物感を、ストレスを感じる状態を受け入れるということだ。自己肯定より負荷は大きいし、その分そうしなければならない理由を人は求める。

 まぁ色々言ったがつまりは自己受容とは「諦め」であるという話だ。
 「どれだけ自分を嫌いでも受け入れるしかない」という諦め。
 言い換えれば
 「やれるだけの事はやったけど変えることは出来なかった」という納得。
 「諦め」は「明らめ」とも言う。ならばここで言う「やれるだけの事はやった」という感覚は、何を明らかにすれば得られるのだろうか。
 それは「自身を変えるために必要になるコスト」と、「自分がそのために費やせるコスト」の二つだ。
 ちょっと頑張ったら問題が解決するかもしれないのなら何時まで経っても納得は出来ない。
 だが手を尽くした結果、どうやってもこれだけのリソースがいると理解してしまって、そしてそのリソースが払いきれないという事を自覚出来た時、俺は諦めることが出来た。
 とはいえこれだけではあまりに抽象的過ぎるから、もう少し嚙み砕いてみよう。

②リソースは有限

 前提として、リソースは有限であるということをはっきりと理解しておかなければならない。
 自分を変えるために必要なリソースは、「時間」「心と体の余裕」「他者」の三つだと考えている。お金はそれらを代替するための手段に過ぎないので割愛する。
 「時間」は当然有限だ。人はいつか必ず死ぬ。
 「心と体の余裕」は最も主観的なリソースとも言えるだろう。ゲームの様にHPMPみたいな数値化はされない。ただどれだけ少なかろうと、ある程度回復する類のものである以上、時間をかければいつかは足りるものとも言える。
 「他者」は実は自分の努力では如何ともし難いリソースだったりする。人との出会いとそこから得る経験はアンコントローラブルな運次第とも言える。だが、人は運も試行回数によってある程度捻じ伏せられる。望ましくない出会いをスルーして望ましい出会いを見逃さない、とするならやはり努力のしようはある。
 さて、ここで何を言いたかったか。「心と体の余裕」にしろ「他者」にしろ、時間があれば回復と試行回数でゴリ押せるリソースだ。
 だが人の力の及ばぬ、どうしても有限なリソースがある。即ち時間だ。己が生きている間の時間。或いは老いるまでの時間だ。
 その内、時間を短くしないよう生命活動を維持するためのリソースは必須となる。有限から更に有理数を引くのであれば、やはり有限だ。

 そして逆に言えば自分の持っているリソースが有限であることをちゃんと自覚するためには、その生の終わり、即ち死を意識することが肝要だ。
 死が身近でない現代は、自身の有限さを自覚しづらいという点においては、ある種不利とさえ言えるかもしれない。

③自分は変えられるという前提

 一つ考えてみて欲しいのだが、「人は何歳からでも変われる」という命題は真だと考えるだろうか? 或いは偽だと考えるか?

 アドラー心理学ではこの命題は真だと考えられている。もっと言うと「トラウマは無い」というのがアドラー心理学の主張だ。
 俺はそこまで言い切ることはしないが、トラウマというものを説明するとしたらこうなると思う。
「強いストレスを経験した時、次はそれを避ける(生命活動を維持する)ための不随意な防衛本能による学習」
 キーワードは「不随意」な「学習」であるということ。
 トラウマがあるという事は当然、その当人が悪いということではない。望んでそうなった訳ではないし、むしろトラウマにならなかった方が人としての機能が不調を起こしているとさえ言えるだろう。
 だが、所詮は学習だ。不随意な学習が気に食わない、デメリットになっているのであれば、学習によって上塗りすればいい。とあるシチュエーションに対し経験から学んだ自己防衛なら、別に自己防衛しなくていいんだという経験から学びを繰り返し得ればいいだけの話だ。多分行動認知療法的な発想になるのかな?
 そう在ること自体は当人の意志の及ばない範囲だと俺は考えるが、いずれにせよその先、自身の努力によって自身を変化させることは出来る、トラウマは理由にならないという点では、アドラー心理学と同じ考えを持っている。

 勘違いしないで欲しいのは、「トラウマを直すのは簡単だ」と言いたい訳ではない。ここまでの話は、むしろ「トラウマを直すのは大変だ」と言うためにあったと言っても過言ではない。

 早速本筋に戻ろう。
 トラウマさえ自身の努力によって克服出来るのであれば、「人は何歳からでも変われる」という命題はやはり真だと、俺は考える。
 言い方を変えれば、「理想の自分には努力次第でなれる」。そして極論、「理想の自分になれていないのは努力不足、それ以外は言い訳」とも言える。
 だが当然そんなこと言われたって、「理屈じゃそうかもしれないけど無茶言うなよ」としか思わないだろう。そう、どだい現実的な論理ではない。では何故現実的ではないのか。

④どれだけ大変かを経験すること

 それは勿論、自分を変えるのはそう簡単じゃないからだ。
 例えば「空気を読む」みたいな当たり前そうな事だって、苦手な人がそれが出来るようになるにはかなりの訓練が必要になる。
 例えば「男性恐怖症」のようにトラウマレベルのものであれば、それに向き合うのはきっと辛く苦しく、そして慎重な時間を要するものになるだろう。
 ここで重要なのは、それがどれだけ大変なことか、具体的に知っているかだ。その道で苦しんでいる人に自分も同じだけ苦しんだと言い返せるだけ苦しんだかだ。何も知らない奴に「お前に何が分かる」と言い返せるだけ苦しんだかだ。癇癪ではなく自負を持って言い返せるかだ。
 自負と自信を持って言い返せるのであれば、「変わらなくちゃいけないとは思ってるんだ」と許しを乞う必要もない。「やれることはやった」と言い切れるだろうし、それでも納得出来ない相手は切り捨てることが出来る。
 或いはぼんやりと「100以上大変」ではなく、「180のリソースが必要」と体感しているかだ。
 「あと少し、20頑張れば変われるかもしれない」のままでは、その20を頑張らなかった自分を一生責め続けることになる。「180ものリソースは割けない」と割り切ることで、ようやっと自分自身を納得させることが出来る。

⑤リソース配分

 だが、実を言うとどれだけ大変か思い知るだけではまだ足りない。まだ、
「どれだけ大変だろうが、途中でやめるという事はその問題を軽視しているということに他ならない」
 という指摘に反論出来ないからだ。
 人生をかけて取り組んでいないなんて言われたところで「そりゃそうだろ」と言い返してしまえばいいのだが、まぁ簡単にそう言い返せるのであればここまで拗らせてはいない。
 そこに反論するためある程度でも「己の中の優先順位を確定させる」。即ち「自分の価値観を持つ」ということが大事になってくる。

「その弱さや醜さを、自分は軽く見ているのではないか」
「いいや、軽くはみていない。だがそれ以上に自分は○○を重く見ているから、そちらにリソースを優先しているのだ」

 そう断言出来るかが重要なのだ。他の誰でもない、自分自身が納得するためには。

 リソースの使い道を大きく四つに分けるとすると、このようになると考える。
・醜く愚かな自分を変えること
・己の快楽を満たすこと
・己の影響力を行使すること
・それらの基礎となる生命活動を維持すること

 結局のところ、己を責め続ける声というのは、
「ダメな自分を改善することもせず、怠けて心地よさや楽さを優先しているのではないか」
 という批難の声だ。であるなら、
「自分一人を善くすることより、世界を善くするために自分の人生を費やしたい。そしてその為には食っていくこともまた必要不可欠だ。そしてもうその時点でリソースはカツカツで、そのなけなしの残りも自分を善くすることに費やすのだから、ただ怠けているわけではない!」
 と言い返せばいいのだ。はい、論破(

⑥艱難辛苦汝を玉にす

 まぁ、論理としてはこんな感じだ。
 でも実際にやるとなると、そう簡単な事ではない。
 一言で言うと、自分が納得するまでやれることをやり尽くさなければならない。
 具体的に言うと俺の場合、「仕生命活動の維持にリソースを割かなければ、つまり仕事で疲れ果ていなければ変われるかもしれない」という「かも」を納得するためには無職にならざるを得なかった。本心から気にかけてくれる上司とサポートしてくれるエージェントという恵まれた環境の中で挫折をしなければならなかった。飢えと体調不良の中「このまま死ぬのかな」とか思う必要があった。資金不足で色んな事を諦めざるを得ない状況の中、何度諦めようと、捨てようとしてもどうしても捨てきれないものがあると気付く必要があった。
 艱難辛苦によって、己をそぎ落として磨く必要があった。今だから言えることだけど、今になってようやくあの苦悩は必要だったと思える。そして自負がある。そう簡単に追いつける領域でないわと、笑ってやることが出来る。山籠もりの修行ではなく巣籠もりの鬱だったけど、その内容は同じものだったはずだと胸を張れる。座禅ではなく寝そべってだったけど、同じだけの内省をこなしてきたと嘯ける。
 だが面白い事に、結果だけ見れば単に「ダメな自分を許せた」ってだけで、年単位の苦悩を味わわずとも、労せず最初からクリアしている人も幾らでもいる。賢しいものが頑張って証明したものが、凡人にとっては当たり前のものであることなんてザラだ。だが、その本質や、その道中で得た知見はそれを経ず手にしていた人たちには及びもつかないものであると考えている。というか、ぶっちゃけそうであれと願っている。そうでなくちゃ報われない(

 取り合えずこんな所か。
 ダメな自分を許すために、これだけのややこしい遠回りをしてきたよ、という話でした。
 俺の話であって他の人がどこまで真似できるかは分からないけど、参考になればいいなとは思います。

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