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総集編(適当)

 先日書いた下記の記事に非常に興味深いコメントをいただいたので整理しておく。

 この記事で書いていた内容を要約すると、

「人はコミュニケーションの簡略化のために多くの前提条件を説明せずとも伝わると考えて省略している。
 『言わずもがな』や『常識』『良識』『普通』『当たり前』といったものである。
 それらに齟齬があると感じ取った時円滑なコミュニケーションが妨げられ、強烈な疎外感を感じる事となる」

 といった内容だ。
 それに対し、「カントの『定言命法』とかで似たような話が出てた気がする」といった旨のコメントをいただいたのだ。

 自分もカントの哲学を一通りさらってはいるのだが、全てに対ししっくりきたわけではないので要点だけ抑えている(つもりになっている)レベルの人間だ。
 従って読んだ瞬間は「定言命法、あったなぁーなんだっけ」という感じだったが、調べると「あったなーそして確かに近い内容だわ」となった。
 その辺りについてカントの論理を解説しながら説明していく。
 尚俺は哲学は大好きだが別に学者ではない。先述の通り浅い勉強状態なのでこの解説が正しい解釈である保証は一切出来ないということを、予め十二分にご了承いただきたい。

「感性」「悟性」「理性」

 まず最初に、カント哲学における最重要要素、「感性」「悟性」「理性」について説明しなければならない。
 おっと待ちたまえ。
 このどこかで聞いた単語を見ただけで逃げ出したくなるかもしれないが、ちゃんと分かり易く説明するので一先ず読んでみて欲しい。
 この話は、

「カメラで撮った写真は0と1から構成されるデータである」

 というだけの話なのだ。
 当然だが、写真を撮られた人の魂が写真に取り込まれる事は有り得ない。写真というのは時間や空間を丸ごと切り取って保存するものではない、というのは誰もが理解している事だろう。
 あくまでレンズを通して受け取った光を(アナログカメラでなければ)電子データに変換して保存。その後保存された電子データを、今度はモニターに再現出来るように改めて再変換する。
 もっと平易に言えば例えばスマホのカメラで.jpg形式で撮ったとして、それに音が入っていないのは、当然ということだ。
 では何故それが哲学になるか、これを脳科学や機械工学が発展する前に人間に当て嵌めて気付いたことが、カントの偉業なのである。

 ここで一度、哲学的な問いを投げかけてみよう。

「私達人間は、世界の真の姿を知っているのか」

 おそらくこのように聞かれると誰もが「知るか」と思うかもしれない。
 それに対するカントの回答を、現代訳するとこうなる。

「人間は感覚器によって外界からの刺激を電気信号に変えて大脳に送り、それを脳で処理をすることで世界を知覚している。
 そしてその知覚した物を常識的な理解によって認識している。」
「その認識を使って思考しているのである。
 最初の段階で変換されていて、その変換が人が意識的に操作しているものじゃない時点で、真の世界の姿を知ることは出来ない。
 どれだけの情報が取捨選択されているのか分からないのだから。」

 具体的に言えば赤外線は人の目には見えないし、見えている光ですら波であるということは認識できない。
 今の話の前半部分が、実は「感性」「悟性」「知性」を示しているのだ。
 人で言う眼が送る電気信号;カメラでいうレンズとセンサーが変換したデータが「感性」
 人の脳の後頭葉にある視覚野での処理;カメラの.jpgへの変換とからの変換が「悟性」
 人の前頭葉での様々な思考;写真をデコったり加工するソフトの役割が「知性」
 雑に言えばそれだけの話である。

コペルニクス的転回

 だがそれだけの話が哲学史上「コペルニクス的転回」と評される程重要な発見であるのにもまた、理由がある。
 それは「人が知覚している世界は全てではない」ということだ。
 もっと分かり易く表現しよう。

「人が知覚している世界は全てではないし、全てが何かすら認識し得ない」

 それまでは世界の様々な存在について、どのような存在かという存在論に重きを置いてきていた。
 それに対して「世界の本当の姿は機能的な制限で識ることは不可能なのだから、認識自体を問題とするべきだろう」といったのがカントなのである。
 まぁこれについては言わば哲学史的に重要であるという話であって、取り合えず「現代知識で考えれば案外皆『あぁ』って程度の内容である」とだけ理解してくれればいい。
 俺も正直なんとなくしか把握してない。

定言命法

 さて、そんなカントはそういった認識論の他に倫理についても言及している。「純粋理性批判」という本の名前くらいは聞いたことがある人も多いだろう。

 定言命法の意味自体はとても単純だ。

「無条件に肯定されるべき倫理」

 大分意訳してはいるが、まぁ大体はその認識で良いと思う。
 その逆を”仮言命法”と言い、まぁ言ってしまえば条件付きの倫理なのだが、カントは条件を設定している時点で人の経験によって保障されるものでしかないと考える。
 そして経験からの学習は人間である限り正確には成り得ない(先程の悟性の話から)。
 だが人が試行錯誤を繰り返して行けば、いつか真の定言命法的倫理にも辿り着けるだろう、と考えた。それが「目的の王国」と呼ばれるものだ。
 自然法則があるように、人類にとっての倫理の共通解もあるはずだ、という話である。

 あまりうまく説明出来ていないと思う。
 ただそれも当然かもしれない。実を言うと俺も理解出来ていないのだ。
 言わんとしている事は理解が出来るが、まぁ俺が生きている間に辿り着けるような境地じゃないよね? 『ここがロドスだ、ここで跳べ』という訳じゃないが、別に分からんくても良いよね?
 って感じである。俺がカントにしっくりこなかった理由だ。

前記事との関連性

 さて、話を最初に戻して、例のコメントがどういう指摘だったかという話に戻ろう。
 言わば、前回の記事は

「常識というのは定言命法的な絶対的なものではなく、仮言命法的な経験論的不完全さを内包したものである」

 と表現出来るよね?
 という指摘である、と受け取った。
 もしかしたら「経験論みたいなあやふやなものではなく学術的且つ論理的に証明されている」という反論もあるかもしれない。
 だがなんというか、こういうとまた「これだから哲学は」と罵られそうだが、そもそも「学問も経験上の因果関係の積み重ねでしょ?」というのが哲学でもあるのだ。これはどちらかというとカント以前のヒュームの哲学ではあるが。
 ともかくカントが否定したから間違っていると言いたいのではなく、あくまでカントとかヒュームとか、昔の哲学者も似たような事を考えていたよね、くらいに捉えて欲しい。

哲学を学ぶということ

 これは完全に俺の自論でしかないと前置いた上でだが、哲学を学ぶ理由はこういう所にあるんだろうなと思う。
 俺の捉え方では、哲学というのは捉え方、考え方のパターンだ。
 武術を学ぶ時様々な技の型を教わる。体に一つの動きを反復によって叩き込むのだ。そうすれば似たようなシチュエーションに出会った時自動的に体が動く。
 野球でバッティングの素振りをしていればそのフォームで振れる。例え素振りの時と違う高さにボールが飛んできて、違う場所に飛ばそうと考えていても。

 前回の記事は、あくまで自分で考えて見つけたものだ。誰かに教わった事を書いたわけではない。
 その上で、「それは自分がカントと同じくらい頭が良いと威張りたいのか」とか、「自分で気づいたとか言うけど、カントの言ってたことを思い出しただけだろう」とかいう否定は、俺は見当違いだと一蹴させてもらう。

 俺は哲学を学ぶということは、カントやニーチェといった哲学者の思考を完全に理解する事ではないと思っている。
 俺は彼ら程優れた頭脳を持っているわけではない。優れた人間であるとも一切思わない。
 だが唯一絶対的に彼らに勝っている所がある。それは「現代に生きている」ということだ。
 彼らは現代知識を持たない。現代知識の中に活かされた哲学的発見から、現代では逆輸入的且つ体感的視覚的に理解し易くなったというのを知らない。
 或いは過去から現代までの試行錯誤の中で既に実証された「社会実験」とも表現できる歴史を知らない。
 同条件での思考力なら比較にならなくとも、圧倒的に素材となる情報量では勝っているのだ。ならば幾らでも偉人に勝れる可能性は残されているのである。少なくとも、より劣った才でしかなくとも、並び立つ結論に至ることは可能なのである。

 そしてやはり哲学とは考え方のパターンなのだ。
 カントのいうように、哲学では世界の真の姿を捉えられないと証明されてしまった。その役目は科学に委ねられていると言って相違ないだろう。
 先程も出た「ここがロドスだ、ここで跳べ」というのは確かヘーゲルの言葉だったか。

「理想がどうとか真実がどうとか、ここに無い、用意できないものを考えてる暇なんかあるか
 今この社会を良くするためにどうすれば良いのか考えなきゃ始まらないだろう」

 そういった文脈の言葉だ。
 俺もそれに同意する。だからこそ、俺は哲学が好きだ。
 哲学というのは考え方のパターンだ。
 人体の構造によって体の動かし方もある程度のパターンがあるように、人間社会の構造によって考え方にもある程度のパターンがある。
 現代社会は何かと心理学が持て囃されるが、あれは考え方とはまた別種のものなのだ。あれは統計学か生理学の亜種と言った方が近い。
 点と点を繋ぐ因果関係を説明する類のものだ。
 対して哲学というのは流れと時間経過のある線なのだ。
 相対速度何kmで、バットをどの角度どの位置で当てれば、そして気温気圧風向きが幾らであればボールがフェンスを越えるのか。それは学問だ。
 だがホームランを打つのに必要なのは計算ではなく素振りだ。
 そして思考の素振りの中から自分の癖や人間の癖を得られるのが、哲学なのだ。

 だからなんというか、そういう意味では哲学の中に似たような記述を見つけるというのは俺にとって、とても安心感のあるものなのだ。
 素振りの成果が出ているというか、うまく使って考えられていると、再確認できる瞬間なのだ。
 そしてそれを再確認出来た時、それはとても説明の助けになってくれる。同じ軌道を通っているのであれば、それを真似すればまだ説明が甘い所を修正出来るのだから。
 だからなんだという話でもあるが。

「だから」という凶器

 最後に、前回長々と書いた内容を改めて説明しなおしてみようと思う。

 人は言葉によって情報を伝達する。
 だが言葉によって伝えられる情報というのは限られる。それは言語化の時点で多くの情報が削ぎ落されているという制限だけでなく、口や文字で伝達するのにかかる時間という制限でもある。
 その中で効率よく情報を伝達するために、人は前提となる共通認識を用いる。
 それは.zipなどの圧縮ファイルを用いるのと似たようなものだ。言わなくても分かる部分を省略して、言うべきところだけを言う。

「鈴木さんにメール送っといて」

 この一言だけで、この前成約した取引先の担当者である鈴木さんに、お礼と経過確認のメールを送ってくれ打ということが分かる。そしてそのメールをビジネスメールのマナーに則って作成し、会社のメールアドレスから送っておく。その後サポートセンターに業務を引き継ぐための各種手続きにも取り掛かる。

 こんなやり取りはビジネスマンにとってはそれこそ日常茶飯事といったことだろう。
 そして部下が自身の個人アドレスから適当なメールを送って満足してしまったとすると、もしかすると上司は「かくかくしかじかするのが常識だろう!」と怒鳴るかもしれない。

 人は効率的に力を合わせる事で、大きな力を発揮する。逆に言えば集団で力を発揮するには効率的であることが望まれる。
 前提となる共通認識が具体的であり強固であれば、分厚ければ分厚い程効率的に力を合わせられる。
 そしてこれもまた裏返せば、その前提となる共通認識を揺らがす存在は力を大きく減衰させるノイズとも言える。
 そういう意味では、前提となる共通認識があること自体は重要なものだし必要なものだし、少なくとも悪いものではない。

 だが、人は時に長い間その常識の中に居続けると、それが当たり前であることに疑いを持たなくなる。
 往々にして省略される前提となる共通認識の中には前提条件が含まれることが多い。
 AならばB(Cを目的とし、D,Fという条件下の場合。その条件を満たす為Dという条件を整える必要があり、Fは基本的に変わらないものとする)
 だがAならばBが当たり前になり過ぎて、Aならば「無条件に」Bと錯覚してしまうのだ。
 そして現代はCを目的とせず、C’についての配慮が必要となり、Dという条件を整えるよりもっとベターな手段があり、Fという条件が時代によって変化してしまっている。
 そうやって以前の方法論が通用しなくなってきているが、何が正しいのか分からず違和感を感じ文句を言いながら依然使っている。

 「だから」という言葉が時には凶器になるのはこういう理由だ。
 説明を省くというのは言外に省いたものは、「言うまでもない」「論を俟たない」とばかりに絶対的なもの、無条件なものであるとの主張でもある。
 そして周囲の誰もがそう主張している中、自分ひとり受け入れられないというのはとんでもないプレッシャーである。
 周囲の全員が「人殺しって楽しいよねー!」って言いながら笑顔で殺し合っていたら自分が危害を加えられることが無いとしても気が狂いそうになるのと、多少暴論であるが似た感覚である。
 それはjpgではなくpngの拡張子を使っている状況や、自分はver1.21のソフトを使っているのにver1.20のデータが皆から送られてくる状況とも例えられる。

分からないという恐怖

 こうした無意識下のズレがどうしてこうも大きなストレスを与えるかというと、それは何がズレているのか分からないからである。
 なまじ普段から意識せずに使っているせいで、自分達が何を省略しているのかも把握していないのだ。見えないものは見比べられないし、見比べられなければ違いは分からない。
 ならどうすれば良いか。それは当然、知る事である。自分が何を当たり前と思っているのか、相手にとっては何が当たり前なのか。
 ここで重要になってくるのが、往々にしてそういった条件というのは経験則によって構築されていくものであるということである。因みに、学問すら再現性の高い経験則と言える。
 何故なら人間は自身の主観でしか世界を観測できず、その主観を用いて論理を積み上げていくのが人の知性だからである。
 手を勢いよく合わせれば音が鳴る。耳を塞いだり、真空中で叩いたりしてやっと音が鳴らない場合があるということを識ることが出来るのだ。
 自分と相手の経験を知り、そこからどういう価値観を得るに至ったかが分かれば、分からないという恐怖は和らぐ。
 勿論相手の全てを知ることは出来ず、それ故に相手の価値観を完全に理解することは出来ない。だが相手と似たような経験をしたことがあれば、その時の感情から相手の価値観を想像することが出来る。

 勿論それは万能の解決策ではない。
 だが、自分と相手の違いを前提条件の違い、そしてその元となる経験の違いと可視化するだけでも、きっかけをつかむことで恐怖は興味に反転させることが出来るのではないだろうか。

 大体そんな感じ。
 以上。

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