「だから」という凶器

 「だから」という言葉がある。国語的には接続詞だ。
 あとは「○○だ/から」という断定の助動詞「だ」+接続助詞「から」の組み合わせの場合もある。

 昨日旧来の友人と久しぶりに踏み込んだ話をして、久しぶりに話が通じない感覚を味わった。
 話が通じないというのは語弊があるか。どう言葉にすればいいのか分からず、相手も間違いなくこちらを理解した上で建設的な議論をしようとしてくれているにも関わらず、どこまでも話が上滑りして自分が間違っている気持ちになってくる感覚だ。
 昨日改めて自覚したが、結局のところ俺が社会不適合者であり、真っ当に働くことへトラウマと言っていい程の拒絶感を覚える一番の理由がこれだ。
 相手が極めて真っ当な話を、間違いなく真摯な気持ちで伝えようとしてくれている。自分自身でもその話の内容に確かに頷いているにも関わらず、致命的に自分の意図が伝えられていない事に絶望するのだ。
 そして相手の話す内容が極めて真っ当であるが故に自分の思考も流され、どこに食い違いがあるのかどころか、そもそも自分が何を話そうとして何を話しているのかすら分からなくなる。そして罪悪感と羞恥と絶望にパニックになる。
 相手は悪くないのだ。間違いなく真摯に向き合おうとしてくれていることが分かるからこそ、伝えきれない自分を責めるしかなくなる。
 上滑りしているのを承知で自分の言葉を尽くそうとすると、最後にはこう言われるのだ。

「申し訳ないけど、それはただ甘えてるだけにしか聞こえない」

 この言葉はどうしようもない程に、決定的に俺の心を折ってしまう。
 そう言われた瞬間に、年単位で俺は動けなくなってしまう。

 まぁ昨日はそこまではいかなかったからアルコールで脳を焼くことで難を逃れた。2年前と比べて色々考察が進んでいるというのもあるしね。
 そして改めて考えてみたのだ。何がこんなにも致命的に違うのだろう、と。
 その仮説が「だから」だ。

 「だから」というのは接続詞であれ助動詞+接続助詞であれ、所謂「順接」というものだ。
 因みに「だから」じゃなくて「なぜなら」とか「故に」とかでも同じだ。
 ともかくこの「順接」というのが曲者であるという仮説だ。

「信号が青だから渡る」

 これに違和感を覚える人は少ない。

「風が吹けば桶屋が儲かる」

 まぁこれは順接ではないが同じ文脈だと思う。
 意味が分からないが、中身を聞けば理解は出来る。

「女だから家事をするのが仕事」

 一昔前は当たり前だったが、今やこんなことを言えば批難轟々だろう。

 「だから」というのは、「Aを想定すれば当然に、或いは自然な帰結としてBが導き出される」という時に使われる。そしてそれは「つまりAとBの関係は改めて議論する必要がない」という意味を含んでいる。
 改めて議論の必要が無いと言葉を省略できるのは、両者の間に共通認識があるからだ。共通認識、つまり常識だ。

「北に行った。だから寒い。」

 我々からすればごく自然な文だ。
 だが当然、南半球の人からすればあべこべな文となるだろう。
 人は思考の全てをそのまま相手に流し込むことは(現時点では)出来ない。だからこそ言語を介して相手に伝えようとするのだが、言語化された時点でかなりの情報量が削り落されている。その上で言語による伝達も実用上の制限がある。即ち、長すぎる言葉はむしろ情報伝達を妨げるということ。簡潔な方が情報は受け取り易い。
 情報量を削るために、人は共通認識についての言葉を省く。或いは一つの単語に複数の含意を持たせる。或いは色や配置など非言語的アプローチで情報を添加する。
 例えば

青信号ー通行可能
国会議員ー偉い、公務員、信用ならない
赤いフォントー危険や注意喚起、熱い

 省くにせよ他の手段で代替するにせよ、共通認識がなければうまく話が嚙み合わないのは、至極当然なことだ。
 そしてそれが顕著に表れるのが「だから」等の順接だと思う。

死にたくない。だから飯を食う。だから金が要る。だから働く。
一人では事は成せない。だから人の力を借りる。だから信用が必要。だから肩書が要る。

 これらは、普通に考えればとても当たり前のことだ。確かに議論の余地が無いように思える。
 だが突き詰めると、そこの議論を徹底して自分が納得できない限り上滑りしてしまうというのが俺なのだろう。そして一定数同じような人も居るのではないかと思う。
 しかしそういった共通認識に疑問を呈する行為は、それを常用する人にとってネガティブなノイズとなる。普段使いしている道具の信頼性を疑うようなものだから当然だ。それもあってか、そこで躓いているというか執着している理由が理解出来ない。それは一般常識的にも自身の経験的にも当たり前のことなのだ。にも拘らずその穴を突っつき続ける理由があるとすれば、それはもっと安易な抜け道が無いか探すくらいしか理由が無いと考えるのも、まぁ自然な反応と言えるだろう。

 では何故俺がそういった前提共通認識の確認作業に固執するのか。
 それは端的に言えば、思考プロセスの簡略化に危機感を覚えるからだ。

 例えば「たまごの数量限定特売だから買う」といった時、「たまごを買い足す必要はあるか」「他にもっと安く売っている場所は無いか」「自分が買ったから買いそびれる人が出るのではないか」といった懸念事項がある。
 例えば「雨だから傘をさす」といった時、「傘を開いた水飛沫が他の人に当たらないか」「電車に傘を忘れないか」「傘を持って歩くと通行人の邪魔にならないか」といった懸念事項がある。

 まぁ言われてみればそう特別な事ではないかもしれないが、一事が万事というやつなのだ。
 何か行動しようとしたとき、考えようとしたとき、言おうとしたとき、何か見落としている要素が無いかと不安になる。
 当然全部が全部精査し考えている暇はない。だから何か見落としていないかという不安を残したまま事態が進み、積み重なった不安に押しつぶされて動けなくなる。それどころか気もそぞろになった結果無駄に凡ミスが増えることさえ日常茶飯事だ。

 なら何故そんな余計なことをというか、下手したら逆効果なことをしているかというと、至極ストレートな理由として思考プロセスの簡略化によって被害を被った経験が強く残っているからだ。
 例えば誰かの何気ない一言に傷つき、何気ない行為に嫌な気持ちになり、当たり前の議論の中で自分の思いが省略され、当たり前で無い自分の特性を否定され。

「二人組を組んでください」

 ボッチエピソードの典型例だが、そういうことだ。

 悪意に対しては悪意を返せばいい。嫌がらせならば相手を憎めば良いのだ。だが無意識からの疎外に対してどうすればいいのか。あまつさえ好意からの行為であることすらままある。
 そうやって傷つけられてきたからこそ、自分はそうはなるまいと気を付ける。だけど当然どれだけ気を付けても永遠に足りる事はなくて、でもそっちにリソースを吸われた結果更に普通から逸脱していく。
 挙句の果てに、「気にしすぎじゃない?」と気にしなかったことで自分を傷つけてきた奴らに心配され(嘲笑われ)る。

 だから、「だから」という言葉に対して病的なまでに神経質にならざるを得ないのだ。
 「だから」という言葉で省略する前に出来得る限りの言葉を尽くして、

「ここまでは想定して、その上でこういう考察をして、『だから』という言葉で想定と結論を繋げ纏めているんだよ。
 これでも想定は足りる事は無いだろうから、もし抜けているのならこの結論はあなたに当て嵌まらなくて当然だよ。
 俺はここまでを想定して論理を展開できる人間のつもりだけど、逆に言えばここまでしか想定出来ない人間でしかないから否定していいんだよ」

 と必死に弁明せずにはいられないのだ。
 無意識に誰かを蔑ろにすることに怯えて、ここまでは頑張って想定したんだからもし見落としがあっても許してくれと、懇願せずにはいられないのだ。

 せずにはいられないが、それは現代社会において大いに不利だ。全ての動きが遅くなるし、諸々のコストが掛かり過ぎる。
 一般的に言う「配慮」というのはとても大事なものだが、当然のようにバランスの上での話でしかない。配慮に極振りすると、身動きが取れなくなってしまう。

 体系化、ノウハウ、資格、肩書。
 これらは「AならばB」という思考プロセスの簡略化の最たるものだ。
 そもそもの話人間は周囲の環境を変化させることで一定の条件を整え、特定の条件下で特定の現象を任意で起こす、即ち「技術」というものを複数の人数が利用することで繁栄してきた生き物だ。簡単に言えば、望む結果を得るために前提条件を変える事を特長とする生き物だ。
 そういう文脈で、誰もが幸せになるために、前提条件である人そのものを、そしてその根源たる経験を一定にしようというのが学校教育だと思う。

 何が言いたいのかと言うと、カウンセラーの資格と云う者に対して懐疑的な思いが拭えないということだ。
 勿論99%の場合有効に働く対応を学んで悪い理由が無い。
 だが資格というのは基本的に「AならばB」という思考の簡略化を求める人の為に偉い人が保証するビジネスモデルだ。
 勉強自体はやぶさかではない(喜んでするの意)が、資格というシステムの思想への嫌悪感が拭えないということだ。
 まぁこの嫌悪感自体は然程重要なものではないから必要であれば押し殺せばいいだけの話なのだが、現時点では多少のネガティブ要素としてあってしまうという、まぁ言い訳だ。

 つまるところ、昨日出た「まずは簡単な資格を取って説得力を持たせた方が得策では?」という結論への、4000文字に亘る壮大な言い訳が、今回の話である。

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