俺の死後、四十九日

※ふと書きたくなった小説です。
 大体俺自身ですが、そのままではないifの想像です。

命日

 俺は死んだ。
 完膚なきまでに死んだ。

 だってなんというか、肉体の感覚が無いのだ。
 何かに触れている感覚、暑いや寒い、空腹も、そういった何もしなくても常に受け取っていた感覚の入力が無い。
 何よりの証拠はほら、目の前にピクリとも動かない自分のむくろがある。所謂幽体離脱という奴だ。
 死因は分からない。昨日はいつも通りに朝方までゲームをして、意識を失うように寝たはずだ。寝る前に色々と考えるあの悶々とした時間が嫌過ぎて、もう何年も決まった時間に寝た事なんて無い。死にたいと思ったことは数多くあれど、自殺が出来る程に根性が据わった男でも無かった。

 まぁ別に死んだことはどうでも良いのだ。苦痛なく人生が終われたことは有難いとさえ普通に思えるのだが、問題は何故俺に意識があるのかだ。
 普通、死んだらそれまでじゃないのか。いや、死んだ後の事は誰も知らないから普通も何も無いのだが、流石にこういうのは想定していない。俺が死にたかったのはこの果ての無い不安と苦しみの悩みから解放されたかったからだ。これでは折角死ねた理由が無い。
 と、最初は思ったが、案外気楽だということに程なくして気が付いた。
 根拠は無いがこの不思議な幽霊状態も、そう長くは続かないという確信があったからだ。
 もう生きてはいないから何かを頑張る必要も無い。生理的な欲求も無いから何かの必要性に追われることも無い。ただぼーっと、意識が消えるその時まで観測者を続ければ良いだけだ。
 何かに追われることの無い観測者の立場というのは、生があった頃のそれと比べて随分と気が楽だった。

 そんな感じで俺は、30回目の誕生日を迎えることなくその生を終えた。

死後一日目

 あれからぼーっとあれこれ考えていたら一日が経っていた。
 そしてあることに気が付いた。いや、死を自覚した後最初に脳裏に浮かびはしたが目を逸らし続けていたことに、いい加減目を逸らせなくなったというべきか。
 そう、俺の死体が未だベッドの上にあるということである。

 俺は所謂ひきこもりであり、ニートだ。
 当然働いてなんか居ないし、近所付き合いなんてしてない。
 数年前に東京に働きに出て一人暮らしを始めて、そのまま親との連絡を絶ち生活保護で飯を食いながら社会の雑多さに紛れて安アパートで生を継続していただけの肉袋だ。
 そんなわけでリアルの友人どころか、知人すら全然居ない。
 ネットでは話したことがある人も幾らかいるが、そもそも逃げ癖のあることで知られている俺だ。数日連絡が途絶えたり、Twitterで何も発言しない日が続く程度何も不思議なことではない。
 俺が消息が途絶えたところで、誰も気にも留めないのである。

 少し焦った俺は、なんかポルターガイスト的なことを起こそうとした。
 が、無理だった。当然だ。現世に対するあらゆる干渉力を失うことを死と呼ぶのだ。そういう意味では、俺は死ぬ前から死んでいたのだろう。
 暫く気分だけ大声を上げてみたり、ほぁぁぁと唸りながら(呻る喉も無いが)念じてみたりしてはみたが、ま、諦めた。
 実際腐臭が残ったり曰く付き物件になってしまったりと、大家さんには申し訳ないなと思う気持ちはある。だが所詮は俺が死んだ後の世界だ。何が起ころうと起こるまいと、俺に出来ることは何もない。
 俺に出来るのはただ観測することだけだ。そういうのには慣れている。

 引きこもりにとって、窓の外もディスプレイの中も大差無いのだ。
 どちらも別世界の話であり、綺麗で、羨ましくて、醜くて、憎い、手の届かないものだ。
 窓の向こうのリアルも、windowsの向こうのフィクションも、大差無い。
 ただディスプレイを通して情報を入手し、己の頭の中であれこれこね回す。そしてそれを誰かに伝えることも無く、自ら行動することも無く、何ら社会に影響を与えることも無く虚空に消すことを繰り返す日々。
 生きていても死んでいても、俺に出来るのはただ観測することだけだ。そういうのには慣れている。

死後二日目

 自分の死体のことを諦めると、別にこの部屋に留まり続ける意味が無いと気が付いた。
 そう思うと、自然と移動することが出来るようになった。
 どう説明すれば良いのか分からないが、この状態、目が無いのに自我の座標自体は点なのだ。目が無いのに視覚情報は得られるが、目が無いから360度全方位の情報を得られる。音も同様だ。そしてその点である座標に自意識が滞空しているような感覚なのだ。
 で、移動なのだが足が無いから歩けない。だが歩かなくても移動できるのは非常に素晴らしい。例えば近くのコンビニに行こうと思ったら、次の瞬間には自意識の座標がコンビニにある、といった具合だ。
 なんかこの感覚に覚えがあるなと思ったらあれだ。googleマップのストリートビューで、マウスでクリックするとビューンと移動して、360度グルグル回って周囲を見渡せる感覚だ。
 折角だからアメリカに飛んでみよう、と思ったがそれは出来なかった。少し試した感じ、生前の自分の生活圏内というか、自分が行けると思っていた範囲内でしか移動は出来ないらしい。
 ただその表現もイマイチ正確では無いのかもしれない。女子トイレにも入れたしね。因みに試しに街で見かけた可愛い女の子の後をつけてみたら普通にその子の家の中にまで入れた。透明人間になったぞと調子に乗ってその子のお風呂まで覗いてみたのだが、すぐに自分の家に戻った。なんというか、罪悪感が凄いのだ。自分の小心者さを再確認しただけだった。しかも肉体が無いからかイマイチ性欲も湧いてこないのが質が悪い。

 まぁそんな程度の曖昧なものだった。兎も角、俺は地縛霊ではなかったというだけで十分有難いことだろう。
 色々歩き回って、ではないか。動き回ってみたものの、やはり俺は霊のような存在らしい。好き勝手フラフラしてたら、傍を通った時にギョッとした顔で周囲をキョロキョロしていた女性が一人だけ居た。だが一方で同業者というか、同じような霊体の方と出会うことも無かった。墓場に行ってみたが同様だ。俺が特別なのか、霊同士は認識できないだけなのかは分からない。もはや知り様も無い。
 そう、俺はネット検索も出来ないのだ。スマホもパソコンも操作出来ないのだから当然だ。意識を直接ワールドワイドウェブに接続できないか、とか考えたが、残念ながらそんな機能は搭載されていなかったらしい。

死後三日目

 そんな風に前日は動き回ったのだが、もう飽きた。
 そもそも俺は引きこもりであり、そうでなくてもインドア派だ。そこまで活発に動き回るような人間では無いのである。
 そう思って自室に戻りはしたのだが、暫くして場所を移すことにした。ただでさえゴミの散らかった汚部屋なのに、今はそれに加えてベッドの上に粗大ゴミが横たわっているのである。居て気持ちのいい場所とはとてもじゃないが言えたもんじゃない。
 折角なので少しだけ居場所を探しに動き回り、元自室近くの高級マンションの空き部屋を逗留場所とした。
 腰を落ち着けようとした途端に丁度ガチャリと玄関が空いて焦ったが、どうやら内覧だったようだ。家族連れとスーツの男性が十分くらい部屋の中を見て回った後、何事も無かったようににこやかに出て行った。良いんですかー? ここ幽霊が居ついてますよー? まぁ入居が始まったらちゃんと退くけどね。お幸せに。

 死んだことを自覚して、色々と状況把握が終わって、がらんどうの部屋の中で静かに漂う。
 改めて自分に問い直してはみるが、やはり死んだこと自体は然程ショックでは無かった。なんて言うか、勿論別に未練が無い訳では無いのだ。好きだったゲームの続きはやりたいし、何も成せないまま、誰にも認められないまま、その生を終えてしまったことを悔しいと思う気持ちはある。
 だが、それだけだ。その程度だ。そうやって、他人事のように論評できる程度のことでしかない。

 物心ついた時から、俺は三人居た。
 誰かと笑い、気を使い、何かを行動し、腹が減り腹が立つ、肉体に宿る俺。
 そんな俺を操る俺。冷静にモニタリングし、何をすべきか何をしてはいけないかを制御する、理性に宿る俺。
 そうやって自分を律しようとする俺を、滑稽なものを見るように無感動に観測する、魂に宿る俺。
 時々物語でもそういう描写があるということは、そういう人は多少珍しくともそれ程レアな人でもないのだろう。別にそこを思い上がって自分が特別だ、なんて言うつもりはない。
 でも、そうだな。だからこそ今のこの状況を殆ど違和感無く面白がれているというのは間違いなくあるだろう。

 三人の俺を例えば、アクター、コマンダー、ウォッチャーとでも呼ぼうか。
 端的に言えば、アクターが上司であるコマンダーのパワハラに耐えかねてボイコットしたが故に引きこもったのが俺なのだ。
 何かを頑張ろうとしても、アクターはコマンダーの理想通りの働きと結果を出せないまま思い悩む。
 だが、俺の自意識はあくまでウォッチャーなのだ。アクターの苦悩は自分事ではなく他人事である。アクターの事を表向き可哀そうと思い、頭ではその重要性を認知し、口では励ましの言葉を吐きつつもその性質故に本心では蔑んでいることを自覚せずにはいられない場所に、俺の司令部はある。
 悲しいことに、アクターもまた俺なのだ。司令部を出入りするのだ。そして、自分がコマンダーからもウォッチャーからも蔑まれていることを理解せずにいられないのだ。
 だから彼はボイコットした。
 ゲームの中ではアクターの役割をゲーム内のキャラに押し付けることが出来ているかのように錯覚できる。そしてそのアクターの代役は、ちゃんと活躍できるようにゲームとしてデザインされている。
 物語の中ではアクターの役割を物語の中の主人公に投影することが出来る。そしてそのアクターの代役は、思い悩み足搔き苦しみ、しかしその果てにその本懐を遂げる。そんな結末を代替の場合安心して信用できる。
 だから俺はゲームが好きだ。物語が好きだ。
 そしてそれを、自覚している。
 くだらないと嗤っている。

 今俺は亡霊だ。
 肉体を失いアクターは消え、現実と将来を失いコマンダーも役割が消えた。
 残ったのはこのあやふやな魂的なものに宿ったウォッチャーだけなのだ。
 元々三人の俺は同一である一方で、別に不可分ではなかった存在だった。
 こうして明確に分かれてしまったとしても、既に予行演習は閉口する程に繰り返していたのだ。

 幾らアクターを蔑もうと、現実問題アクターが居なければコマンダーもウォッチャーも現実の問題に干渉出来ないのだ。
 そんなことはずっと前から分かっていた。だが俺は遂に死ぬその時まで、アクターを再起させることが叶わなかった。
 とっくの昔から、俺はやはり死んでいたのだろう。
 何を願おうと、何を望もうと、何を欲しようと、アクターを失った俺には手に入らない。
 そしてその責は紛れも無く自分自身にある。分かっていて尚変われなかったのだから。
 それは生前も死後も、変わらない。

死後四日目

 考える事にも飽きてきた。
 悩む必要性も失い、ネットを使えず新たな刺激の入手も出来なくなった今、同じ材料からは同じ思考しか生まれないのだ。
 ふと時間をスキップさせることが出来ることに気付いた。肉体が無いので、意識を凍結させれば実質的に時間から解放されるのだ。
 故に俺は元自室に戻って意識を凍結させた。

死後十五日目

 どうやら死体が発見されたらしい。
 冬だったので腐敗の進みが遅かったのは良いことなのか悪いことなのか。
 隣の佐々木さんと大家さんが驚いた顔で連絡すると、暫くして警察が来た。
 別に自殺では無いんだけどそういうのって解剖とかで分かるのかね?

死後十六日目

 親が来た。
 骨壺に縋って泣いていたが、それを見ても俺は特に何も感じなかった。
 尊敬することも出来ず、恨む事も出来なかったから連絡を断っていたのだ。
 そういえば、死んでから一度も実家を見に行っていなかった。まぁ、つまりはそういうことだ。

 遺書とか書く暇なかったから状況が分からず余計に辛い思いをさせているのは少し申し訳ない。
 だけど別に一人で死んで辛かったよねとか言わなくて良い。死んだことには肯定的だし一人なのは自分の業だと諦めている。勝手に俺の感情を語るな。

死後十八日目

 親の操作するディスプレイを通してネット上の知り合いの動向を見れた。
 案の定特別俺を心配する声は無い。
 こら、余計なことを書くな。「息子は亡くなりました」とか見たら皆微妙な顔するしかないだろ。ほら、形だけの弔意の文句が返ってくる。不快な感情を与えず消えるのが俺の生き方だというのに。
 久しぶりに死んでいることが歯痒かった。

死後二十日目

 父親が仕事に復帰した。
 母親はまだ家で時々泣いている。
 面倒くさいな。死ぬ前から諦めておけよ。

死後三十日目

 遺品の整理も終わった。
 両親もそろそろ気持ちの整理がついてきたらしい。落ち着いていた。
 正直罪悪感は大家さんに対するものが一番大きい。申し訳ない。

死後四十日目

 俺は何のために生きていたのだろうか。
 この執行猶予的幽霊期間も、もう程なく終わるという予感がある。
 総決算という訳ではないが、最期に振り返ってみる。
 そして決算するものが何もないという結果が出た。演算所要時間3秒。
 幼いころは神童で、という奴だ。小さなころは頭も良く色んなものが鮮やかで友達も居た。
 だが歳を重ねるにつれ理想と現実、社会と自分、理性と感情の乖離に心が壊れ始め、上京という最後の踏ん張りから後は全てを諦めた。
 自分を捨てて自室と幻想に閉じこもっていると、時間の感覚がバグってくる。そして同時に自我の連続性も薄れてくる。死ぬ前から既に、壊れる前の過去の自分との連続性は薄れていたのだ。
 だから俺の言う俺とは全てを諦めて現実との干渉を辞めた俺でしかなく、何も変えていないのであれば何も残していない。
 俺が残した最大の腐臭も、程なく清掃業者によってクリーンにされるだろう。

 何のために生きるのか。
 そんな哲学的なことを考えるのは好きだった。

 人が生まれ生きることの目的や意義なんて最初から無い。
 だって最初からそれを用意されているものは道具と呼ばれるものであり、人間はそうでない。
 自らの人生の中で自らそれを定義するのが人という生物の特権だ。

 そんな風にうそぶいたこともある。
 そう嘯いた上で、それを自分に適用することは無かった。それだけだ。

 今の感情を言葉で表すとするとなんだろう。
 別に空虚、という訳ではない。それを感じられる程空っぽ感は無い。というより失って惜しむような感情で心の中が埋まっていることが少なすぎた、という表現が近いか。
 だからもう少し肯定的な、清々しさや安堵感の方が近い。近いが全てではない。ある程度はもの悲しさも含まれている。悲しさでもないか。悔しさややるせなさを微量に含んだ、ちょっとした感傷のようなものだ。

 実は、だからといって生まれてこなければ良かったという気持ちは強くない。皆無ではないがそれ程ない。
 何かが違えばもっと大きく違う生が続いていたかもしれないし、そうならなかったのは自分の不甲斐なさだ。その責は俺自身にあって、産んだ親に擦り付けるものではない。そんな感じだ。

 だから、多分今の感情はあれだ。あれに近い。
 そこそこ人気のゲームを買ってやってみたものの、正直あんまり面白いと思わないけど買ったからやるかーと続けてる時にセーブデータが壊れて、まぁ止める理由出来たしもうやり直すのはやめとこう、って投げ捨てる時の感情だ。
 そして今はサブスクライブ形式のように、後数日はプレイ可能期間が残っている状況だろう。だがこれを最後に、プレイできるとしてももう俺がこのゲームを起動することは無いだろう。

 ありがとう。さようなら。
 正直あんまり面白くなかったよ。

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