四つの問いかけ

 ここ暫く、ずっと苦心していたことがある。
 それはあまりに"普通"と乖離してしまった自分の価値観を、他人にどう説明すれば(共感はしてもらえないにしても)言い分は理解してもらえるか、ということだ。
 それがようやっと纏まってきたので第一稿という感じで残しておく。

 なお、収まりがいい形が問いかけ形式になったのでそのまま残す。
 主に「常識や普通に捉われ、そうでない自分を自己嫌悪し続けている人」を相手に(いわゆるペルソナに)想定してまとめている。

何故あなたは死んでいないのか?

 生きていても人生思い通りにならないことばかりだ。
 生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊成苦なんてお釈迦様も言っている通り。きっとこれには誰もが頷いてくれることだろう。
 こうあって欲しい、こう在りたいという願いと、そうもいかない現実とのすれ違いや衝突が、日々を生きる私たちに日夜苦悩を生む。
 きっと楽しかったり嬉しかったりする出来事より、そういった苦悩の方が総量としては圧倒的に多い、そう感じる人は少なくないはずだ。

 トータルで見てマイナスの方が多いと感じ、そう分かっているにも関わらず、何故あなたは死んでいないのか。
 いずれ死ぬことが確定しているのに、何故まだ生きているのか。

常識はあなたの役に立っているか

 そんな考えは、希死念慮に今も苛まれている人でなくとも、一度は考えたことがあるのではないだろうか。
 ここまで明確な言葉にならなくとも、「なんで私は生きてるんだろう」なんてブルーになった経験は大体の人があると思う。
 でも"普通"の人たちはそんな事にクヨクヨせず生きている。
 だって考えても答えが無いのだから。そして、考えなくとも既に答えがあるのだから。

 無意味に生きるには、人生というのは苦悩に満ち過ぎている。
 だから人は苦悩よ無くなれと願い、頑張って生きる意味を求める。
 常識というのは、そんな人たちに示された分かりやすい答えだと私は考えている。
 すなわち、

「科学、そして技術というものは苦悩を解決し、無くしてくれるものだ。
 そしてそれらは金銭があれば、全ての人が手に入れることが可能なものである。
 故にそれらを発展させ生産し、その働きによって多くの金を手に入れること。金によって他者から手に入れること。
 それこそがより善い人生を送る秘訣で、目的であるのだ」

 人の苦悩を軽減し、生きる意味を与える役割を、古くは宗教が担ってきた。
 勿論今も宗教は残ってはいるのだが、科学の進歩によって純粋に宗教を信じきれなくなってきたのは事実だろう。
 だが人の世の苦悩は無くならない。
 故に「科学と技術と経済(金)」という確からしいものが、新たな現世利益を約束してくれる宗教として世界を席巻したのが、産業革命以降の世界の価値観だと私は思っている。
 人の苦悩を軽減し生きる意味を示すことで、人々を答えのない悩みから解放したという意味では、常識というのは宗教と同質のものだと思うのだ。

 だが現代に至り、資源や伝染病の問題に直面し、我々は再び常識を信じきれなくなってきている。
 少なくとも日本においては、ただただ真面目に働いているだけでハッピーな人生を送れる、なんて考え方に頷くのはもはやご老人だけだろう。
 今までの「働けば幸せになれる」という"救い"が信じきれなくなってきているから、あなたはこう思っているのではないだろうか。

「何故働かなければならないのか。苦労し我慢し働いて、一体何になるのか」

自由の意味

 近代の思想において、"自由"というのは非常に重要な概念だ。
 "自由"と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。

 言論の自由
 LGBTQ
 恋愛の自由
 家事からの自由

 色々あると思う。
 ただ今一度思い返して欲しい。私たちがパッと思いつく"自由"というのは大体の場合において「他人に制限されないこと」。一言で言えば「外から邪魔するな」という意味で使われることが多い。
 このように"自由"の意味を解釈するのであれば、自由とは、

「沢山ある苦悩のうち、外的要因によってもたらされる邪魔から解放されていること」

 と定義できると思う。
 だとすれば、だ。当たり前と言えば当たり前だが「幾ら自由を得ようとも、それだけでは全ての苦悩が無くなるわけでは無い」と言える。

 技術が発展し科学によって苦悩が解決され、
 文明が発展し自由によって苦悩が除去された現代。
 でも未だに人々は全ての苦悩から解放されることはない。
 むしろ科学や文明の発展によって新たな苦悩が生まれることさえはっきりと知ってしまった。
 人が人である限り、どこまで行っても苦悩が無くなることは無いのだ。

 だからこそ、どの選択を選び、どの苦悩を背負うことにするのか。
 それを選ぶことこそが自由、厳密に言えば"自由意思"と言えるのではないだろうか。
 自由には責任が伴うとは言うが、責任を選べることこそ自由意思なのだと、私は思うのだ。
 しかし勿論、いわゆる自己責任という奴だ。自由な選択をするためにはそのための知識と考える力が必要である。

 あなたには自由意思があるか?
 自由でありながら、知識と考える力を持ちながら、無難を選ばされてはいないだろうか。

生きる意味

 先常識というのは人々が答えの出ない悩みにハマらないために、昔を生きた先輩方が善意から予め用意してくれている答え、なのだと思っている。
 ただし、全ての人に当て嵌まる答えではない。

 常識というのは人々が答えの出ない悩みにハマらないために、昔を生きた先輩方が善意から予め用意してくれている答え、なのだと思っている。
 ただし、それは過去の答えである。

 きっと常識によって大多数の人が余計な苦労をせず生きることが出来ているのだと思う。それはとても有難い事だと思う。
 だが「個性を大事に」だとか「ニューノーマル」だとか言われている時代だ。
 当然合わない人も出てくるだろうし、いずれ古いものとなってしまうだろう。
 故に、"常識は絶対ではない"。
 常識は本来善意のものであったはずだ。ならば合わないなら断るのもまた誠実な向き合い方だと思わないだろうか。
 なのに違和感を感じつつも、否定されない、恥ずかしくないように生きて、無難に死ぬことが目的となり、常識に縛られていないだろうか。

全て私自身のことだった

「早くこの世から消えたい」
「なんで皆は平気で普通な顔して、身を粉にして働けるんだ」
「でも普通はこうすべきなんだから、そうならなきゃ」
「なのに普通になれない自分は不良品だ」

 全て私自身のことだった。
 これまでの四つの問いかけは、これらをひっくり返して突き詰めていったに過ぎない。
 今では"生きる目的に達して無いから死にたくない"から死んで無いし、"常識とか俺にはあわないからお断り"って思ってるし、"自分の生きる目的のために有益か有害かって視点で切り分けている"し、"自分なりのカッコいい生き方をするのが生きる目的だ"と言えるようになってきた。
 ここまでやってようやく、自分本位の生き方を取り戻すことが出来た。

 この考え方はあなたに響いただろうか。
 "普通"から外れないように、色んなしがらみに縛られながらも泣きそうになりながら生きているあなたに響いただろうか。
 所詮人生経験も少なく、別に哲学専攻だったわけでもない引きニートの言葉だ。信頼性なんて低い低い。
 だけど俺は信頼性なんてクソくらえだと思っている。多くの人を救うのは"普通"な"常識"的な言葉に任せればいい。
 その"普通"な"常識"がフィットしなかったあなたに響いて、自分を取り戻すための"劇薬"になれれば、それが俺の本望なのだ。

 俺の言葉は"劇薬"だ。そう在らんと書いている。
 もう元の常識に戻れなくなるかもしれないし、道を外れた果てに世間から白い目で見られることになるかもしれない。
 でもこの"劇薬"が響いた人に伝えたい。

 "普通"は、"常識"は、多くの人に効く人生の処方箋だ。
 だがその善意がもしあなたの生き方に合わないのであれば、丁重にお断りしよう。
 そして自分で「何故死なないのか」「常識は本当に役に立つのか」「自由意思は持てているか」「何故生きるのか」を考えよう。

 とはいえそう簡単に常識を手放せないだろう。
 だからまずは手始めに、常識を徹底的にこき下ろすところから始めようか。

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