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自尊心と自己肯定感

noteさんお久しぶりです。もよです。

最近、「セルフコンパッション」というものを学びました。

セルフコンパッションとは、まだ日本にはそんなに普及しておらず、アメリカなどでは活発に学ばれている分野みたいですが、これを学んだとき、ハッとしたことがあったので、書きたい!

ということで、、、まずは「セルフコンパッション」について解説。

セルフコンパッションとは

「セルフコンパッション」は「セルフ」と「コンパッション」に分けられますが、まず「コンパッション」について。

コンパッション(Compassion)とは

人が生まれつき持つ「自分や相手を深く理解し、役に立ちたい」という純粋な思い、また、自分自身や相手と寄り添い「共にいる」力

『Compassion』 Joan Halifax著より

また、これに「セルフ」をつけた「セルフコンパッション」とは

「セルフコンパッション(self-compassion)」は自分への慈しみを意味し、他者を思いやるように、自分自身のことを大切に思うこと

https://prtimes.jp/magazine/self-compassion/

つまり、人が生まれつき持った思いやりを自分にも向けようってことです。

「自分がされて嫌なことは他人にはしない」とか「他人を思いやる」ってことは幼少期からよく言われてきたし、それが常識として捉えてきたけど、

「他人を思いやるように、自分のことも思いやろう」

これが私の中で結構新鮮で。今まで「他人」に向いてきた矢印が初めて「自分」に向かってきた感覚で、「自分」がびっくりしてたのを感じました。

話は戻りますが、「自分を他人のように扱う」というこの脳の思いやり回路を育む技術のことも共に「セルフコンパッション」と呼ばれています。

もう1人の自分

でも私、自己肯定感めちゃくちゃ低くて。自信がなくて。憧れに近づこうとすればするほど、もう1人の自分が「憧れ」と「今の自分」の間にあるギャップを指差して

「こんなに遠いのに手を伸ばそうとしてるん?こんなに距離あるよ?遠いよー。住む世界が違うって〜」

って言ってくるんです。そう言われると私も「こんなに身分が違うのに、手を伸ばそうとしてること自体、図々しいし、イタいかな。傲慢かな。」

なんて思っちゃう。

例えば、英語を話している時。
もちろん英語はペラペラに話せるようになりたいし、そのためにはとにかく話しまくるしかない、って分かってる。

でも、話そうとしてる途中に、

「ほら、こんなに簡単なことも言えないし、思いつかないじゃん。そもそもポテンシャルないって。」

そう言ってくるもう1人の自分。(せっかくだからこいつに名前をつけてあげよう。んーそうだな。よもぎちゃんにしよう。)
よもぎちゃんにそう言われると、

「英語を話そうとしてる自分」が
「ポテンシャル低いのに頑張ってるイタい奴」に変換される。

そうすると、相手にもそう見えてるかも、とか。
周りからそう思われてるかも、とか。
余計なことばっかり考えちゃって、頑張ってる自分が恥ずかしくなっちゃって、冷や汗が出て、ドキドキしてきて、英語なんて出てくるわけない。

自己肯定感が低い理由

いろんな話を聞いたり、自己啓発本を読んだり、歌をきいたり、いろんな人に会う中でも、自己肯定感が高い方がいい。そうに決まってる。そんなことは分かってるけどさ!!!!!!

なかなか自分が好きになれないし、自分のことを好きになろうと頑張って言い聞かせても、それに頑張ってブレーキをかけてくるアイツ。そう、よもぎちゃん(さっき命名笑)

なんでなんだろうな。自分のこと好きになりたくないのかな。どうしたら幸せになれるかな。

でも確かに、自分のこと好きすぎるのもちょっと気持ち悪いな。

でも、一生一緒にいる自分のこと、好きな方がいいよね。でもなあ、

ってぐるぐるぐるぐる考えてたとき

自尊心と他者批判


自尊心と自己肯定感は違うよ。

ある人から聞いた。
「自尊心は高すぎると、他社批判につながる可能性があるから。」

これを聞いたとき。ずっと抱えていた謎が解けた気がした。

自分を好きすぎると他人を批判してしまうんじゃないか。
自分を守ることで、相手に剣を向けることになるんじゃないか。
って思ってたから、

他人を批判するくらいだったら、自分のこと下げとこう。
そういう思考回路だったんだな。

両親のケンカ

私の親は私が小さい頃から酷いケンカをよくしていた。
夜中に母が茶碗を投げまくったり、棚を倒したり、包丁を持ち出して、自殺すると喚いたり。

私は小さいながらに、泣きながら仲介に入って、
「お母さんはお父さんにこうしてほしかったんだよ」とか「お父さんはこれに怒ってるんだよ」「お互い様だからお互い謝って」と争点の整理をしていた。

だから私は他人とぶつかることが大嫌いである。
ぶつかるくらいなら、「私が悪かった。ごめん」で全てを丸く収めてきた。
もちろん本質的な解決ではないとは分かってはいる。
それでもぶつかることは避けたいと思ってしまう。

話がそれてしまったが、
「私の自己肯定感の低さは平和を守るために必要だ」
どこかで思っていたのかもしれない。

そんな気持ちから生まれてしまったのがよもぎちゃん。自分を下げることで世界平和を保たなきゃと、今日も頑張ってるよもぎちゃん。

自尊心≠自己肯定感

私は今まで自尊心と自己肯定感を混同していたんだ。と気づいた。

でも私が高めるのを恐れていたのは自尊心で、

自己肯定感は高めていいんだ、ってことに気づいた。

もちろんある程度、自尊心も必要だけど、適度な高さがある。

けど、自分を思いやって寄り添う自己肯定感はいくらあってもいいんじゃないか。

親友が苦しんでいるときに自分がする立ち振る舞いを、
自分が苦しんでるときにも同じようにしたっていいんだ。

親友が苦しいときに、「今のままでいいわけないでしょ」「もっと頑張れ」なんて言わない。「そうだね、辛いね」「分かるよ」「じゃあどうしていくと幸せかな」って、うんうん話を聞いて、「私は味方だよ」って相手に伝わるように振る舞う。

それを自分に対してもしていきたい。

今回の学びで、「自分」を「他人」と同じ土俵で考えるのが新鮮だった。
しかもその、「新鮮だ」と思ってる自分に対しても、
無意識に「他人」と「自分」で扱いを分けていたことにも気づいて、驚いた。

必死に自己犠牲の上に世界平和を成り立たせてきたよもぎちゃんのことも、ぎゅっと抱きしめたくなった。頑張ってくれてたんだね。ありがとうって。

「自分」と一生一緒にいる「自分」
この「自分」を1人の人として、親友として、大切にして生きていきたいな。っていうお話。

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