2019参院選

2019年参院選を前に――【見当識と素材を取り戻すための自主ゼミ】で学んだこと

2019年7月16日

「見当識と素材を取り戻すための自主ゼミ」

水谷 八也 + 清田 隆之

人間を役立つ/役立たないで分別するdoingの世界

 「見当識と素材を取り戻すための自主ゼミ」という名前で私的な勉強会を始めたのは2015年でした。第1回目のチラシの中央には野田秀樹の『南へ』(2011)の最後の方に出てくる「いつまで夢遊病者のままなんだろう僕らは。……おい、日本人、僕は誰なんだ?」という南のり平の台詞が引用されています。この言葉は、2019年現在でも、私たちの胸に突き刺さる言葉だと思います。

 2015年から始めたこの自主ゼミは憲法のこと、福島県立いわき総合高校の演劇のこと、シベリア抑留、特攻、沖縄戦などの戦争のこと、東日本大震災での亡き人たちとの出会いのこと、さらに2017年は「DoingとBeingの世界と基本的人権」から始まり、「存在」していることの重さを考えようとしてきました。その流れで、追手門高校で表現教育を実践しているいしいみちこ先生をゲストに迎えた回もありました。そして2019年度は「弱いい派(★)」に焦点を当てています。様々な領域のことを扱ってきましたが、常に関心の根底にあったのは「生きる」ということに尽きると思います。

★「弱いい派」とは──その物語の中心にいる人々の社会的な立場は弱い。でも「それが何か?」と言っている。「弱くて結構、弱くていいよ」という、逆転から来る物語性。開き直りではなく、負け惜しみでもない、平らかな場所からの言葉。それらの傾向を持つ作品を私は「弱いい派」と名付けることにした。(徳永京子、「震災、やまゆり園、〈弱いい派〉」、『現代詩手帖』2018/11 月号より)

 自主ゼミでは、自分の「生」を文字通り捨てざるを得なかった時代にいた人たちや、社会の周縁に押しやられ、まるで存在していないかのような扱いを受けている人たちのことをドキュメンタリー映像で知り、そこからのメッセージに耳を傾け、現在の自分の存在を顧みる中で、私たちは「Doing/Being」という視点に出会いました。私たちは現在、何か「できる」ことが大きく評価され、「できない」ことが無能で、役に立たず、存在価値がない、という評価軸を当たり前のこととして身につけ、その尺度を無意識のうちに様々な領域においても大前提にしています。

 しかし、そのような視点だけで人間を評価していけば、人が持つスキルや能力面(=doing、多くの場合、数値化できる)だけを見ることになり、その人の人間らしい部分(=being、数値化できない側面)が切り落とされ、見えなくなり、生産性を重視する世界に必要な人とそうでない人に分別されてしまいます。もちろん生産性は重要です。しかし、それ以上に「人」が「生きている」ことそのものが一番重要なことであるはずです。そしてそのことは現行の日本国憲法ではきちんと保証されているはずのことです。その諸権利を備えた「人」のことを「個人」と言っているのだと私たちは考えています。

人類が多年にわたる努力で獲得した「個人」という存在

 2016年の参院選前に私たちが書いた文章でも触れましたが、この「個人」に基本的な権利を認めた基本的人権という概念が生まれ始めるのが、英国の名誉革命(1689)からフランス革命(1789)の頃であり、そのおよそ100年の間に近代憲法──つまり国家の力を制限する、国家が従うべき法体系としての「憲法」という意味が徐々に出来上がってきたのであると、OED(Oxford English Dictionary)には書かれています。つまり、この「個人」という言葉の意味は歴史の中で作り上げられてきたものであり、「個人」は近代憲法の成立に不可欠の要素となり、以後の近代社会の基盤を作る極めて重要な意味を担ってきたわけです。

 そして日本国憲法も、その歴史的な意味を十分に理解していました。そのことは、第11条で「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」と記し、第13条で「すべて国民は、個人として尊重される」と個人を明記し、第10章第97条で「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とその歴史性を重く受け止めています。これは歴史、つまり人類がこれまで経験してきた成功や失敗や発見や闘争の上に「現在」があることを受け入れており、「過去」に対して敬意を払っている憲法だと言えます。

 しかし、この「個人」という感覚は、当然のことながら、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」で始まる大日本帝国憲法には存在していません。敗戦後の1946年公布の日本国憲法に「個人」はやっと盛り込まれました。しかしそれにもかかわらず、日本ではこの言葉の歴史的意味がなかなか根づかず、そのまま21世に入ってしまったように感じます。特にここ数年、「人」がふつうに「生きている」ことが保証されず、弱い人はガンガン切り捨てられていき、それは現在「貧困」という形で広がりつつあります。また時には、その貧困が様々な犯罪の原因となり、あるいは「自殺」という最悪な、悲惨な末路に向かうこともあります。日本の自殺者は21世紀に入って2万人を超えることが常態となり、年によっては3万人を超えることもあります。

 このような現実に合わせて憲法を変える必要はありません。憲法は国が目指すべき理想であり、指標です。ですから、現実を変えるしかありません(これは自衛隊に関しても言えることだと思います)。私たちは、今こそ、単なる「人」から歴史的に獲得されてきた「個人」になるべきではないでしょうか。一人一人が「個人」として覚醒すべきときではないでしょうか。「個人」としての「私」という「現実」を、大切にすべきなのではないでしょうか。そしてその「個人」を、他人事ではなく自分のこととしてよく考え、「個人」という言葉を実体あるものにする最大のチャンスのひとつが「選挙」という場なのです。

歴史を“なかったこと”にしてしまうことの罪

 ところが現在、この「個人」(individual)が大きな危機を迎えそうな形勢です。というのも、自由民主党が憲法改正草案でこの言葉を重要な個所から消そうとしているからです。現行の日本国憲法では先ほども触れた第13条で「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利ついては、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と述べています。しかし憲法を変えたくてウズウズしている自由民主党の改正草案では、ここは「全て国民は人として尊重される」となっています。

 なぜ、わざわざ「個」という言葉を削ったのでしょうか。英語だと現行憲法は“All of the people shall be respected as individuals.”となっていますが、自民党の改正草案だとどうなるのでしょう。「個人」という歴史的な意味合いのある言葉を「人」に変えるのですから“individual”は使えないはずです。ならば“All of the people shall be respected as persons.”となるのでしょうか。憲法学者の長谷部恭男は「海外の研究者がまず参照するのは、英文の日本国憲法である」(『日本国憲法』岩波文庫、2019、P.150)と書いています。日本が世界の中で輝くのであれば、ちゃんと人類の歴史に敬意を払い、尊重し、それを踏まえて世界史の中に日本の歴史を置いて考えてみる想像力が必要なのではないでしょうか。ここはやっぱり、personではまずいと考えます。

 歴史(=過去)というのは、記録の文言や死者に敬意を払い、謙虚にそれらに向かい合うことで初めて意味をなすものだと思います。しかしこのところの日本は、歴史や過去に対して極めて傲慢な態度を取り続けています。過去に実直に向かい合わないというのは、現実に実直に向かい合わないのと同義です。近いところでは、2017年の南スーダンに派遣されていた自衛隊の日報問題がありました。自衛隊のいた場所が「戦闘地域」であった事実がわかると憲法に抵触するので、日報はないことにされたのでしょうが、この記録や事実や過去に対する態度は、大日本帝国憲法下で軍部が敗戦と同時に様々な記録を焼却して証拠隠滅を図ろうとした態度と全く同じです。自主ゼミでも見たドキュメンタリー『原爆投下』でも、原爆投下機が接近していることを事前に察知していた特種情報部の存在そのものを隠滅するために、敗戦と同時に、情報部の書類をすべて灰になるまで燃やし続けることを命じられた元少尉の話が出てきました。首相の面会記録すらまともに残さない現在は、一体何時代なのでしょうか。

投票によって「個人」になり、世界に対して責任を担う

 また現実を認めようとしない態度は、福島の原発のこと、辺野古の地盤のこと、森友・加計学園のことにとどまらず、女性やLGBTQに対する心ない発言の根底にも人をレッテルでしか判別できず、“個人”を“現実”として見られない態度が根づいていると思います。また教育勅語を復活させようという議員も自由民主党の中にはあとを絶ちませんが、昭和天皇が1946年の元旦に出された“人間宣言”(★)の中で、天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは「架空ナル観念」であると述べ、自らの神性を否定した以上、それを根拠とする教育勅語もまたその意味を失ったはずです。それにもかかわらず教育勅語を復活させようというのは、これにこだわる議員たちがいまだ現実よりも「架空ナル観念」に縛られていることの証左ではないでしょうか。

★「新日本建設に関する詔書」のこと。「天皇ヲ以テ現御神トシ且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニモ非ズ」などの言葉があることから、いわゆる「人間宣言」といわれています。

 このように歴史を無視し、現実を見ない態度のひとつの典型が、2005年、安倍晋三が自民党幹事長代理だったときの「ポツダム宣言というのは、アメリカが原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えたあと、『どうだ』とばかり叩きつけたものです」(『VOICE』2005年7月号、P.58)という発言でしょう。ポツダム宣言とは1945年7月27日に傍受したアメリカを中心とする連合国側からの“最後通告”であり、従わなければ「日本に対して最後の一撃を加える」と明示された宣告でした。しかし日本側は翌28日、当時の首相・鈴木貫太郎がこれを「黙殺する」と発言し、それがアメリカの新聞では“ignore”、一部では“reject”と翻訳されてしまいます。そして国体護持を降伏の条件にすることに軍部がこだわっている間に、広島(8月6日)、長崎(8月9日)に原爆が投下されてしまいます。つまり安倍晋三の発言は明らかな誤認に基づいていたわけです。

 敗戦の歴史の流れ、歴史的事実を捻じ曲げて自分の妄想で暴走するリーダーを褒め称える現在の自由民主党には、あらゆる「現実」が見えていないのだと思います。もちろん「個人」という「現実」も目には入らないのでしょう。彼らにとって「個人」とは自分勝手で、人の言うことをきかない、わがままな奴でしかなく、“自由”勝手に振る舞う御しがたい奴という見方しか出てこないのだと感じます。自由民主党に自由を持った「個人」はいないし、必要ないのでしょう。またその個人を大前提とした“民主(=その国の主権が国民にあること)”も自由民主党には理解不能なことなのだと思います。

 アメリカの劇作家アーサー・ミラーの初期の作品にAll My Sons(『彼らもまた、わが息子』)という戯曲があります。その最後の部分に、「これを機に、この家の庭の外には大きな世界が広がってて、いろんな人がいて、その世界にはここにいる自分にも責任があるんだってことを知るべきなんだ」という台詞があります。2019年の今、私たちは無力な一人一人のように見えるかもしれませんが、投票という行為によって憲法で保障されている「個人」の権利を行使し、実体のある「個人」になることができます。そして自分の外の世界に対し、ここにいる自分もその世界の一部であり、関係があり、責任もあるのだということを投票によって自覚したいと思います。選挙に参加することにより、「個人」を獲得し、この歴史ある言葉に実体を与えようではありませんか。

※画像はすべて『あたらしい憲法のはなし』より引用