表紙用

蓼と黄金虫(10028文字)

1/9
ゴールデンウィーク初日、昭和の日の午後3時、私は一人職員室で、6月の頭に控える小中合同運動会のプログラムに合わせた放送の進行表(の叩き台)を作っている。
連休中の宿題、なのだそうだ。
入場行進曲、2分23秒、児童・生徒の整列が終わるまで繰り返し。

「放送コメント:

                              」


2/9
北海道の春は遅く、桜前線はまだ届かず、世間は五月病で騒ぐか騒がないかという時期に、私はやっと緩んできた寒さにようやく深く息を吸えるような気持ちでいる。
だからと言って憂鬱じゃないなんてことはなく、一番奥の窓を開けるために教頭の椅子をわざわざ力を込めて押しのける程度には憤懣が溜まっている。
春の花粉くさい風が末席の私の席まで流れてくる気持ちよさで、今は十分ごまかしがきくというだけ。
私が放送係と新聞部の顧問に任命されたのは見た目のせいだと奥田先生は言った。
国語の先生の奥田先生。
口先が達者でいらっしゃり、面の皮は薄く、笑顔は豪快で、私なりの冗談も、それ良いんじゃないとか適当なこと言いながら返してくれる彼は、きっと私のことが好き。
大学時代、「私は私のことが好きな男の子のことが分かる、そういうのにはすぐに気付く」と言っていた処女のアサミちゃんのことを何人かで馬鹿にしていたけれど、アサミちゃんが言っていたことが私にも分かる気がしたのは奥田先生と会ってからだった。
奥田先生は私が好きなのだという確信的な自惚れを抱いてからというもの、私の方も奥田先生のことが気になる。私のことが好きだという確信があるから、私は奥田先生の前で遺憾なく自分の得意な会話の形式を持ち込むことができた。
先月の飲み会で、私はスルメ式の会話を得意としていますと言った。だから、と続けようとする私の声を遮って、奥田先生はあーと言った。俺そういうの好きなタイプかもと、確かにそうだわ、宮下先生確かに噛めば噛むほど味が出るかもしんないって言った。
こう、おしゃべりじゃないけど実は一言一言が鋭いっつーか、顔に似合わずけっこう毒舌だよね?
そう言われたとき、私は気持ちが良くなった、この人は私のことが分かっている、そう、まさに私はそのタイプで、「だから」一緒にいればいるほど楽しくなるタイプで、仲の良い友達は私が口を開くと心なしか注意して耳を傾けてくれている気がする。ツッコミがうまいって言われたこともある。確かに、テレビで漫才とか見てても、もう少しあるだろって気持ちになることは多い。
でも私は放送係と新聞部の顧問に任命されたのはあくまで見た目が理由だと奥田先生は言った。私の言葉選びのセンスが買われたわけでも、文才が見初められたのでもなく、黒縁メガネと黒髪を後ろで結んだこの見た目が、身体が膨張して見えがちな灰色のスーツを好き好んで着るこの野暮ったさが、まさに中学校の新聞部顧問で、放送室とかにいそうだから、顧問に選ばれたのだと言う。
「文才や言葉選びのセンスで選ばれるのなら俺がやるべきところ、宮下先生が任命された理由はそれしか考えられない」と彼は例の面の皮の薄い笑顔を見せて言った。
「確かに私の文才もなにも、奥田先生以外の人が知ってるわけないですもんね」と私は神妙な顔を作り言った。
「いやおいおい、ここでこそツッコんでよ宮下ちゃん、俺がマジで自分の文才に自惚れてるみたいになっちゃうじゃん」
「恥ずかしいですか?」
「恥ずかしいですよ。もう、ツッコんでくれると思うから安心してボケれるっていうのに、分かんないかなあ」
「でも大丈夫だと思います」
「大丈夫って何が」
「いえ、別に」
そういって私は含みを持たせた顔を作り、奥田先生にちょっと咬みつくように睨む。大丈夫、私は分かっていて、あえて意地悪したんです。そういうことをしたくなってしまったんです、という顔だ。噛み合っていない会話に見えて、二人には通じるものがあるよね、という顔だ。
奥田先生は「おっ」という顔をしたと思う。
「おっ」というのは、私の女らしい部分、異性として彼を見つめる目に晒されたような気分を表している。奥田先生は私を異性として意識しはじめているに違いなく、私としても、初めての彼が、奥田先生だったら良いと感じる。
これまでは彼のために青春を取っておいたのだ、少しも目減りすることのなかった私の青春は、この歳の中学校から始まるのだ。文字通り、周回遅れの青春が始まろうとしているのだ。
一向に進まない原稿を一応視界にいれながら、私はぬるくなったコーヒーを淹れなおすために立ち上がる。


3/9
職員玄関のチャイムが鳴る。コーヒーカップを片手にインターホンを取って応答すると、少しの間のあと、相手の男はこの中学校の卒業生だと言った。
直感で嘘だと分かった。
この中学校が改築されて今の場所に移築されたのはほんの5年前で、5年前に卒業した子だとしたらようやく二十歳。
確証はないけれど二十歳の声ではなく、察するに私よりも年上だとすら思う。
でも待てよ、移築前のこの中学校の卒業生というだけで、この校舎に通っていたわけじゃないけど一応卒業生であるのは本当で、そう名乗るのが無難だと踏んだだけかもしれない。
職員室の扉のガラス窓から、職員玄関の方を覗いてみた。
玄関の曇りガラスの向こうには白い上着を着た背の高い人の影が見え隠れしていて、顔は見えなかったけれどやっぱり二十歳の卒業生が遊びに来たという感じはない。
第一、二十歳くらいだったら仲間数人で来そうなものじゃないか。
嘘を暴いても仕方ないし微妙に恐怖を感じたので私は、「今誰もいないですけど」とインターホン越しに言う。
「え? あ、はは! いやいや、あなたがいるじゃないですか」と訪問者が言う。
「いや、私がいても仕方ないでしょう」と投げやりに言うと、「面白いこと言いますね」と言うので、私はちょっと心を開く。
「だから、あなたのこと知っていそうな古株の先生とか今日来てないし、学校入っても仕方ないですよ」
「あーなるほど。でもほら、ちょっと懐かしの校舎を見たいというか、せっかく連休で帰ってきたところだったので……」
そう言ってしばらく黙る。
私も明らかな嘘に慄いて黙る。脱力しかけて、少しだけ残っている中身をこぼしそうになって、片手にコーヒーカップを持っていることを思い出す。
相手に私が怯えていることが伝わったのか
「すいません嘘です。卒業生じゃありません。実はこの学校の先生にお聞きしたいことがあって今日は来ました」
「ちょっと、何堂々と身分騙って学校に入ろうとしてるんですか」
「はは、すいません」
「はは、じゃないですよ。警察沙汰になってもおかしくないことしてますよ? 分かってます?」
「えっ、警察。それは勘弁してほしいです。ほんと怪しい人じゃないんですよ僕」
「だったらもう少し怪しくない人らしく振舞ってくださいよ」
「先生、初対面なのに厳しいですね。毒舌って言われません?」
まあ仲間内では毒舌キャラで通ってましたけど、とは声に出さないけど、そう思う。
「対面してませんけどね。そんなこと言われる筋合いもありませんし。まず、あなたはどちら様なんですか?」
「あ、申し遅れました? わたし、大橋ミッチェルと言います」
「ふざけてますよね? 警察か、少なくとも誰か男性を呼びたいのですが構いませんか?」
「いやいや警察は勘弁してくださいほんと。それにミッチェルは本名です。僕は日本生まれですがアメリカ人で、父の苗字が大橋なので、日本では大橋ミッチェルと名乗ってます。今はアメリカに住んでいますが、父の帰省に合わせて日本にきてます」
確かに、名前がミッチェルだったからふざけてるは言い過ぎた。だが、相手がアメリカ人と言ってから急に発音が片言っぽくなった気がするのが気になる。私の耳が変わったのだろうか。
「それは、失礼しました」と私はとりあえず謝る。日本人らしくない名前をすぐにおかしいと思うのは、教育の現場でも危ない。今は簡単には読めない名前の子や、海外の方と働く未来を考えて英語でも発音しやすい名前を付ける親は多い。
「先生は? 名前なんて言いますか?」
「わたしは、宮下と言います」言ってから、なんで名乗ってしまったのかと後悔する。なんか、観光地で海外の人と話してる感覚で答えてしまった。やっぱりわざと片言っぽく話してる気がする。
「Oh,ギヴンネームは?」
「は、ぎぶん……?」
「下の名前です」
「ああ! アカネです。アカネ」
「アカネ先生ですか。良い名前ですね」
バカか。英会話の授業のような流れで怪しい人にフルネームを教えてしまった。職場も、そして裏にある教員住宅に住んでいることも、容易に突き止められてしまうだろう。
自分の危機管理能力の無さに驚いたが、それでも気を取り直して、私は毅然と振舞おうとした。
「ご用件はなんでしょう。私に答えられるかどうか分かりませんが、一応お伺いしておきます」
「あ、はいはい、ご用件ですね。ご用件は、実は、今年の新一年生のクラスのことなのですが」
新一年生。奥田先生が担任のクラス。
「一年生のクラスがどうかしましたか」
私は奥田先生と関わりがある話だったらと思い、興味が湧いていた。それに、今日これから、奥田先生を学校へ呼ぶチャンスかもしれないとか、考えた。
「いや、今年の一年生のクラスだけ、人数がとても多いですよね?」
そうだった。奥田先生も普段十数人のクラスばっかだったから、急に30人以上のクラスで戸惑っているというようなことを言っていた。
「はあ、それがなにか」
「いや、一学年だけ人数が倍以上っておかしいですよね?」
「さあ、おかしくはないと思いますけど」
これあれか? 経済破綻しかけている私立中学かどこかの教師か、教材を売り込むセールスの人か? と思った。いやでもアメリカ在住って言ってたし。
しかし、もし入学者の増加に何らかのからくりがあると思っているなら、完全なる誤解である。
うちは普通の市立中学だし、他所の町や地域からわざわざうちの学校に通ってきている子はなく、全員が純粋に地元の子だった。今の一年生の学年が際立って人数が多いことは小規模なベビーブームということで当時地元の新聞のニュースになった、と聞いている。
「あ、そうですよね、おかしくはないです。おかしくはないんですけど、何があったのか知りたいと思いません?」
「何があったのかって何ですか?」
「その前にちょっとお聞きしたいんですけど、一年生のクラスで双子や三つ子が多いとかいうわけじゃないですよね? そのせいで人数が激増してるということは」
「いえ、そういうわけじゃないですけど」
「今の一年生が生まれる前年に何があったのか知りたくありませんか?」


4/9
奥田先生に電話をかけた。
大橋ミッチェルのことはとりあえず職員玄関前に置き去りにして、男性の援護が必要だと考えた。
「すみません宮下先生、僕今ちょっと外でして」
男性教師の中でも、絶対に家にいるだろう大内先生や寺田先生に連絡する気にはなれなかったから、私は危機意識からというよりも、やっぱり休みの日に、奥田先生に会える口実として、大橋ミッチェルを利用しているのだった。
大橋ミッチェルは大人しく職員玄関前に立っている。鍵が締まっているわけではないので入ろうとすれば入れるのに、健気に待っているところを見ると本人が言うように怪しい人物ではないのかもしれないと思い始めた。
奥田先生が来られないなら別にいいやと思った私は多分、大橋ミッチェルを心から怪しい危険人物だとみなしていないのだろう。それも分かったから、とりあえず強風に煽られ寒そうなのは可哀相だし、職員玄関まで入れることにした。
大橋ミッチェルが着ていたのは白衣だった。白い上着じゃなくて白衣。白衣で外をうろつき、自分の母校でもない学校に押しかけてきて、特定の学年について聞いてくるのはやっぱりおかしいと私は思った。取り返しのつかないミス。絶望感。この学校に、一年生の誰かに、もしくは私に何かあったら、それは私の責任である。
「要件を、もう一度お願いできますか? 私、あまり時間がないですし、赴任してきたばかりですから、お役に立てるかどうか分かりませんけど」
「はい、私は、今の一年生が生まれる前年に、この町でどんなことがあったのかが知りたいんです」
「どういうことですか? 今の一年生が生まれる前の年?」
「ええ、先生、ニューヨークの大停電があったとき、出生率が上がったって話はご存じですか?」
「ああ、聞いたことありますけど、噂ですよね」
「きっと、ロマンチックなことが起こったんですよこの小さな町で。大停電のような」
「なんですか? 何言ってるんですか?」
「いやだから、急に訪れたベビーブームの影に、何か素晴らしい光景が隠されてるに違いないと僕は思うのです。こんな小さな町に、素晴らしいことが起きた。それがどんなことなのか、想像すると幸せな気分になります」
「素晴らしいことって、そもそも大停電の何が素晴らしいんですか」
「いや何も大停電というワケじゃなくて、断水とか、豪雨とか、ハリケーンとか」
「どれも全然素晴らしくないじゃないですか」
「違うんです先生。僕が言ってるのは、ほら例えば大停電が起きた夜、何もすることがなくて、ろうそくの灯りを持ち寄ってリビングで寄り添う。そんな美しい光景です。寄り添った夫婦やカップルは、窓からどんな景色を見ていたのでしょう。だから、そういう雰囲気っていうか、男女が寄り添って過ごすような状況が起きたから、そのときだけベビーブームなんてことが起こったんじゃないでしょうか」
「今の一年生の親御さんたちがそういう雰囲気になった理由を知りたいと」
「そうです」
「変態じゃないですか」
「へ? 変態じゃないですよ。僕は純粋にラヴのトリガーが何だったのかが知りたいのです。この町に、それもこの町だけに、何か美しいことが起きたに違いないのです」
「ラブの発音ムカつくんですけど」
「そんなこと言われても困ります」
「だったら新聞か何かで確認すれば良いじゃないですか。大橋さんがおっしゃるようなことが起きたなら、ニュースのひとつにでもなってるんじゃないですか?」
「僕、実は日本語読むの苦手で。漢字はほとんど読めません」
「じゃあお役所かどこかで聞いてきたらどうです。この年に何か素晴らしいことが起きませんでしたかって」
「聞いてもその次の年が丁度ベビーブームだったとしか言いませんでした。相手の方の顔が怖く、それ以上どうやって聞いていいやら迷っているところに、他の方にご迷惑なのでと言われてしまいました」
「同じ轍を踏もうとしてるじゃないですか。そりゃそうですよ急にこんな変な人来たら、追い出されますよ」
「アカネ先生、役所か図書館か一緒に来てくれませんか」
「なんで私が。私もいろいろ忙しいんですよ」
「それじゃあ僕待ってます。あ、何か手伝えることはありませんか?」
大橋ミッチェルを追い出した私は、そのあとほんの1時間ほど仕事をして学校を出た。


5/9
1時間ほど仕事をした結果、生み出された成果は
入場行進曲、2分23秒、児童・生徒の整列が終わるまで繰り返し。
「放送コメント:紅組団長、白組団長の意気込みコメントを読む→休み明けに意気込みのコメントをもらう
児童や生徒の様子を実況する。少し緊張の面持ちの一年生。5・6年生のお兄さん、お姉さんはしっかりとした足取りで、頼もしいものです。中学生、待ち時間長い。ふらふらしてたら注意する  」

これだけ。一時間かけてこれだけ。何も考えられなかった。第一何回音楽がループするかも分からない状況で、コメントを用意しておくというのも無理というかやる気が出ない。アドリブでいいだろアドリブで、というこんな不平不満しか出てこない。


6/9
帰宅すると自分の部屋の前に大橋ミッチェルがいた。
独身女性の家の前で待ち伏せとか、本当に笑えない。
携帯電話を鞄から取り出しながら引き返そうとする私を、大橋ミッチェルは慌てて制止する。
「アカネさん! お願いです。話を聞いて、協力してください! 時間がないんです」
「だから協力しないって言ってるじゃないですか、私忙しいし、つきまとうなら本当に警察呼びますよ」
「もう警察でもなんでも呼んでください。僕は怪しいヤツじゃないし、やましいこともしていない! あ、良いアイデアかもしれません! 警察呼んでくださいアカネさん。もしかしたら当時殺人犯がこのあたりをうろうろしているという噂があって、極端に外出が控えられていたのかもしれない」
「それのどこがあなたの言う素晴らしいことなんですか!」
「いえ、これは可能性の一つであって、あくまで僕はもっとラヴリーな、大停電の夜に匹敵する美しいできごとが、14年前のこの町で起こったと思ってるんですよ! だってベイビーが生まれるようなことですよ?」
「だから何なんですかそれ。マッドなんですよ大橋さん。うちの生徒でやらしいこと想像するの止めてください!」
「うぉーぅふ! そんな言い方やめてください! ぼくは成熟した女性にしか興味はありません!」
「そうでしょうね! 中学生のお子さんがいるような成熟した女性がさぞお好きなんでしょう!」
「どうしてそんな言い方しますか!」

7/9
私は大橋ミッチェルと面白おかしく話しながら、斜向かいの奥田先生の家の玄関から光が漏れていることが気になっていた。
玄関の灯りを消し忘れて出かけてしまったのだろうかと理性的な頭のどこかで考え、本能的な頭のどこかでは、彼が家にいるのかもしれないと考えていた。
奥田先生のことを考えていたからなのかどうか分からないけれど、まさにそう感じるようなタイミングで、奥田先生の部屋のドアが開く。
「なに騒いでるんですか」
奥田先生は私を見て少しとぼけた顔をして「あれ宮下先生、そちらは?」と私に聞く。
私は、根拠はないけれど、奥田先生が嘘をついていたと感じる。職員室から電話したとき、奥田先生は部屋にいて、何らかの理由で私の要請を退けたのだった。もちろん、いましがた帰ってきた可能性もあるけれど、奥田先生から感じる非活動的な気配が、その可能性はないと私に知らせていた。
私は少しやけになって、私の要請を退けた「なんらかの理由」を確かめようと思った。確かめようと思ったときには、「何らかの理由」にはほとんど思い当っていた。
「先生! 助けてください」
そう言って、私は奥田先生の部屋のドアに手をかけ、ドアを少し引っ張り、中に入れてもらおうとするような仕草をする。
期待するのは、奥田先生が私を中に引き入れ、自分を壁にした状態で大橋ミッチェルと対峙してくれることだった。
だけど実際彼は、咄嗟にドアノブを掴む手に力を込めて、私がドアを開こうとするのを阻止したのだった。その瞬間垣間見えた女性物の靴の持ち主とはどんな関係なのかは分からないけれど、当然、私にとって都合が悪いケースが第一印象として頭に芽吹く。
「この人、私の家までついて来たんです! ついて来たというか、待ち伏せしてたんです」
私は頭の中で構築されつつある落ち込み案件を一旦無視して、「今」を進めようと集中する。
「待ち伏せ? ストーカーですかぁ? それはそれは」と奥田先生は眉を寄せ、不思議な顔をする。
ダメだ、奥田先生の顔。大橋ミッチェルの問題に集中できない。
被害妄想だと笑われてしまうかもしれないけれど、奥田先生の顔は国語教師らしく、「蓼食う虫もなんとやらですね」と言っていたような気がした。
いつもだってそんなこと、平気な口調で言ってのけそうなものだったが、休みの日の、非活動的な、愛する女性と過ごしていたと思しき奥田先生は少し様子が違った。
今の奥田先生が私のことを「蓼」と呼ぶなら、それは正真正銘そういう意味で、からかいでも軽口でもないのだった。学校の中では社交的な教師として奥田先生は振舞っていて、ただ単に、私のようなタイプの取り扱いもできたというだけだったと知った。
そんな風に思考が落ち込む方向へ爆走していた私をよそに、大橋ミッチェルは大橋ミッチェルでゴーイングマイウェイを貫き、奥田先生相手に何やら弁明している。
「誤解です! アカネさんを待っていたのは事実ですが、僕はどうしても14年前にこの町で何があったか知りたかったんです!」
「14年前なんて宮下先生も僕もここにいなかったですよ。あんまりしつこいと警察呼びますが、確かに、さほど悪い人にも見えませんし、今お帰りになるのなら大ごとにしません」
奥田先生が面倒そうに大橋ミッチェルと話している。
私は彼の社交術と、人をコントロールする力に負け惜しみのような嫌悪感を抱いている。
彼の軽口があったから、結果的に、私はさして憂鬱にもならず、休みの日に一人学校に行って、頼まれた仕事をこなそうとしていた、と気づく。奥田先生のクッションもしくは社交性がなければ、私はもっと憂鬱で孤独で毒にまみれたゴールデンウィークを過ごしていたに違いなかった。
「先生、この人、一年生のクラスだけ多いことが気になるみたいで。14年前、この地域で出生率が上がる何かが起きたに違いない、とかで」
私は誰の味方をしているのだか、何が目的なのだか分からないことを奥田先生に言った。奥田先生を困らせようとしたのかもしれないし、大橋ミッチェルを追い出そうとしたのかもしれない。
いや、「大橋ミッチェルをストーカーではない」と私がきちんと認識していて、だから、私は決して勘違い女ではないということを認めてほしかったのだと思う。
私が男の人に付きまとわれたからと言ってその人が「ストーカー」なんて、普通に考えれば何かの間違いか勘違いだってことは私もよく分かってる。
分かってたはずなのに、奥田先生に好意を寄せられていると思い込み、心配してくれるかもしれないと望んで、思わせぶりな言い方を選んだ私はやはり取り繕いようもなく勘違い女だった。
奥田先生の「お前どのなりでストーカーとか言ってんだよ、勘違いで騒がれる方も可哀そうだよ」という表情と言葉の端々にある間の真実味は、私の脳に響いていた。大橋ミッチェルを指して「怪しい人ではなさそうだ」とわざわざ言った彼の発言の中には「ストーカーには見えません」という含蓄が籠っていた。
奥田先生の頭の中をそっくり理解できた。だってその顔は処女のアサミちゃんを馬鹿にしていた私たちの顔にそっくりだったから。当時私たちがアサミちゃんに言ったすべてのことが、私に返ってきた気がした。

勘違い一本で生きてきた
モテ子のセンサー知覚過敏
経験豊富な処女
妄想オカズにお米食べすぎ

私は私が恥ずかしい。

「1年生は先生の生徒さんでしたか! それだったら先生、何かご存じでは! いやこうなったら、生徒さんの親御さんに直接インタヴューできないでしょうか!」
「インタビューの発音ムカつくんですけど」
「そんな! そんなこと言われても!」
「はは、すみません、冗談です。とにかく、そんなこと言われても、はこちらのセリフです。熱意は受け取りましたが、いろいろな意味で無茶を言ってるのは分かってもらえるはずです。これ以上は本当に警察を呼ばなければならないので、お引き取りください」
奥田先生と大橋ミッチェルは何となく仲良くなっており、大橋ミッチェルも奥田先生の毅然とした態度に、引き下がるしかなさそうな態度で、しょんぼりと肩を落としていた。
半ば二人とも締め出されるような形で、奥田先生はドアを閉め、残った私たちも何となく居たたまれない感じになった。
「それじゃあ、そういうことで」と私は自分の部屋のドアを開けたとき、大橋ミッチェルは「アカネさん、どうも、ありがとうございました」と言ったから、「いえいえ、お役に立てず」とだけ言って彼と別れた。


8/9
ゴールデンウィーク開けの朝、職員会議で問題になったのは、私が窓を開けっぱなしにして学校を出たことだった。私はすぐに名乗り出た。
用務の小林さんが気付いて閉めてくれたので問題なかったが、戸締りには責任を持つようにと叱られ、白衣を着た不審者がうろついてるという噂については、ついでのように語られた。
職員会議が終わったあと、「窓なんか開けっ放しにしたりするから、あんな嵐みたいな、変な虫が入ってくるんですよ」と奥田先生は、いつもの調子で私に言った。
「大丈夫、大橋ミッチェルのことは二人の秘密で」と、社交モードの彼は、知ってか知らずかまた私を翻弄しようとする。
久々の教室にたどり着いて、今朝の職員会議であった話の中から生徒に伝えるべきことを伝える。
不審者がうろついているという噂があること。
登下校はできるだけ複数人で。
怪しい人を見つけても刺激せず、話しかけられたらムシをすること。


9/9
教師じゃない部分の私はこう考える。
もう少し真剣に話を聞いてあげてもよかったかもしれない。
この町のどこかで、美しい光景があったと想像するのは、悪い考えじゃない。
私の目減りしなかった青春時代。
あのとき、世界のどこかは美しかったかもしれないなんて。

いただいたサポートは本を買う資金にします。ありがとうございます。