表紙用4

悪魔の境界(10144字)

1/12
ある休日、明日香より遅れて目がさめた僕は、なんだかいつにも増して一人ぼっちだった。
とにかくスマホが見つからない朝でもあった。その時点で何かが違っていた。
覚醒しきらないまま枕元をごそごそ手で探っているうちに、明日香が友達と予定があるから明日は9時には出かけると言っていたことを思いだし、ということは、今は少なくとも9時過ぎているなと予想を立てたが、その推理が簡単すぎることに自分でちょっと笑った。
予想するまでもなく、スマホの液晶を確認するまでもなく、目が覚めた時点でタンスの上にあるアナログの、無骨で、かつどこか近未来的なデザインの置き時計の針は何となく視界に入っていて、まだ昼は過ぎていないけれど朝というには遅すぎる時間だということは分かっていた。
スマホより先に手が見つけていたメガネをかけて改めて時計を見てみると11時10分かそこら。
どうしてこんなにぐっすり寝てしまったのだろうと考えるが、こちらも簡単な話だった。昨夜、遅くまで明日香とはしゃぎすぎたからだった。
早い時間から3度も性行為を繰り返し、合間に話をして、お腹が空いたら適当な食事をして、シャワーも浴びたりして、眠りについたのが2時くらい。明日香の寝息を聞いた記憶があるから、僕が寝付いたのはそれよりも後。
いずれにせよ昨夜は体力を使いすぎて、寝坊してしまったことも仕方ないけれど、それにしても明日香はよく起きて9時に間に合うように出ていけたもんだと感心した。
昨夜の余韻のおかげで暖かな気分でいっぱいだったけれど、その分、明日香がいないのはとても寂しい。
幸せの奥に不安がしみついていて、一人ではとてもそれを無視できない。


2/12
いつだったか二人でバーベキューをして、マシュマロを焼いたことを思い出した。
ほとんど焼きマシュマロを食べるためだけに、とにかくバーベキューをやろうという話になって、申し訳程度に肉と野菜を焼いて食べた。最初に焼いたマシュマロは失敗だった。火力が強すぎてあっという間に焦げながら溶けた。何個か焼いているうちに、真っ白でふわふわのマシュマロの表面がほんのり茶色になって、ほんの少し全体が膨らんで、口に入れると暖かく甘みをますタイミングを掴めるようになった。甘く色づくマシュマロを見ているとき、幸せだけど、まどろっこしいような、ただ、汚してるだけなような罪悪感に捕らえられる瞬間が僕にはあった。真っ白の奥から浮かび上がってくるみたいな焦げ茶色が、僕をそわそわした気持ちにさせた。そのときの感覚と、この朝の感覚はよく似ていた。あまりに映像的な、不安の焦げ付き。


3/12
スマホは、リビングのテーブルの上にあった。
正確には、テーブルの上のティッシュ箱の中。
ティッシュを一枚取りだそうとしたとき、かすかに重みを感じて、中を見てみると僕のスマホがあった。
誰かに隠されたみたいだと思ったが、僕が自分でやってないのならやったのは明日香に違いなかった。
昨夜はお酒を飲んでないので、確かに2時前後は眠かったけれど記憶が曖昧になるほどではない。
僕は直感的に、朝、明日香が僕のスマホをティッシュ箱の中に放り込んだんだと思った。
何故かわからないけれど、明日香の奇行を強くイメージできてしまうような朝だった。
奇行、悪意。
そういうものが先に立つのはどうしてだろうと僕は思った。アラームをセットしっぱなしの僕が休日の朝早く目覚めないように、明日香が急いでいる中、苦肉の昨でこんなことをしてくれたのかもしれないじゃないか。
きっと外に出て、僕にスマホのありかを伝える連絡を残そうと思ったとき、スマホの隠し場所を教えるのにスマホに連絡いれても意味ないじゃん、って一人ツッコミをいれて、まあ、でも分かるでしょ、そのうち気づくでしょって楽観的にすべて忘れて友達のところへ向かったに違いない。そっちのほうが明日香っぽい。だけど僕は、どうしてだかそんな明日香を想像する前に、意地悪な気持ちで、この上ない真顔で、僕のスマホをティッシュ箱の中に入れた明日香を想像してしまったのだった。


4/12
結婚して二人で住んでいる部屋とはいえ、そこかしこに漂うのは明日香の好みだった。
明日香が選んだテーブルに、明日香が選んだラグマット。文句はないがそれらはいずれも明日香に懐いているようで、僕が一人でいるとどことなくよそよそしい態度をしているように見える。二人きりになると急に笑顔を失う女の子のようで、それは明日香の第一印象と同じで、仕方ないのだけど、どう扱ってよいか分からない。
もっと明るい気持ちになりたくて、何となくテレビをつける。チャンネルをいくら回しても気が晴れるような番組は放送されておらず、想定される視聴者層の中に僕は入っていない、と卑屈な気持ちになった。どうして今日の僕はこんなに落ち込んでいるんだろう。昨日が楽しすぎたのかな。楽しい反動で落ち込むなんて子どもみたいだな、と思う。
やはり明日香の所有物である横文字の雑誌がテレビ台の足下に落ちていたのでそれを適当にめくる。簡単なスペルだけど読み方が分からない雑誌。中にはかわいい女の子も綺麗な女の子もたくさん載っていて、それだけで今日の朝(というか昼前)目覚めたときから今までずっと肌で感じる薄暗さ、よそよそしさがまぎれるようだった。雑誌の薄い紙をめくる音が部屋中に響いて、隣の寝室にまで伝わっていくようだった。やはりどことなく不安な僕は、そのことが気になって仕方がなかった。誰にともなく、何がということはなく、バレる、という気持ちになった。


5/12
そんな感覚に気づかないフリをして、リビングで横になって雑誌を見るともなく見ていると、玄関廊下に続くドアのガラス部分に、ちらちら動くものが見えた。
第一印象は昔主流だった真っ黒のゴミ袋。ペラペラで微かに光沢があり、いやに黒い。
今この地域ではそんなゴミ袋を使っていないし、使っていたとしても明日香はゴミ袋を廊下に置いたりしない。仮に何かの手違いでゴミ袋が置いてあったとしても、ゆらゆら揺れたりしない。
それは目が覚めたときから感じている不安とか寂しさの正体みたいな姿だった。それを見たときに、このせいで僕は落ち着かなかったのだと直感した。
僕は、自分たちの家の、薄暗い廊下を、必要以上に長く感じていた。
玄関廊下に向かうドアの中央には、人が真ん中に立てば丁度幅が収まり、頭から膝が見えるくらいのガラス部分がある。全面磨りガラスなら良いものの四角の輪郭の部分2センチほどが透明で、その内側だけが磨りガラスだった。透明な部分から黒いゴミ袋のような質感の何かが見えて、磨りガラスの部分にまでゆらゆら届く、届く、一旦ガラス部分から引っ込み、また炎のような気まぐれさで透明なガラス部分にまで伸び、磨りガラス部分を撫でていく。
僕はその不気味な黒から目が離せなかった。ドアノブにまで手を伸ばして、こちら側に入って来ようとしているように見えた。ということは、開けちゃダメ、ということだ。この推理も簡単だった。しかし根拠がなかった。あれは何か。見えて良いものか、と思いつつ、目が離せない。目を離した隙に入り込まれそうだし、ガラス部分から中を覗かれるんじゃないかという妄想が止まらない。
無性に苛立った。明日香に会いたい。明日香が、向こう側からドアを開けてくれたら一度にすべて解決するような気がする、と僕は思った。でも、朝の9時に出て、10時前後に友達と会うとして、ランチも食べずに帰ってくるということはないだろう。まだ昼前なので、明日香が帰ってくることはおそらくない。
安心もしていた。明日香が、アレと出くわす危険性は今のところない。そうだ、むしろ、しばらく家に帰ってくるな、と連絡した方が良いだろうか、と思ったとき、「明日香にスマホを隠された」という意識が、文字となって、と言えば良いのか、そう言うしかないほどにはっきりと、まるでそれが真実だと言うみたいに、頭に浮かんできた。
それとあのドアの向こうのアレとどんな関係があるのかは分からなかったけれど、とにかく悪意ばかりが伝染していくようで、いつしか、明日香が帰ってきたらどうしようという気持ちが芽生えていた。
それは明日香を心配するそれまでとの気持ちとは正反対で、明日香が帰ってくることで、なんらかの不利益、なんらかの害を被るという確信によるものだった。明日香に見つかったら終わり、という感覚。明日香にバレたらどうしよう、という感覚。何が問題なのかは分からないが、とにかく、朝から姿が見えない明日香が怖い気持ちと、ドアの向こうの黒いアレを不気味に思う感覚が、強く強くリンクして仕方がなかった。


6/12
そこまで疑心暗鬼が進んだ段階で、ドアの向こうの黒いアレは、少しずつ姿を変えていこうとしているようだった。ゴミ袋の端がチラチラと風でなびいているように見えていた動きに、少し芯ができて、しかし骨というほどのものでは決してなく、植物のような意識を持ったように見える伸縮。それはもちろん、指に見えた。長い指。まだ長さを決めかねている指。
質感は、噴水から溢れ出る液体のようだった。細胞が一カ所にとどまることなく、常に動きながら、いびつではあるけれど一定の形を維持している。様々な色の黒が、地獄の底から溢れて、あそこは紙吹雪のように、あそこは鱗のように、あそこは油のように、あそこは光彩のように、見えたり、見えなかったりするのは、はっきり見通せるガラス部分の面積があまりに小さいからだった。限られた視界から見え隠れする部分の目まぐるしさから、ドアの向こうで行われている、活動への執着がうかがえて気味が悪い。
全体像は決して人の形も動物の形もとっていないけれど、生き物として動きつづけている。
指に見えるところだけが、次第にはっきり指になり、手になり、腕になっていくように見える。何かを掴もうとする意志ばかりがはっきりした形になって、僕の方へ忍び寄ろうとしている。
この恐怖と不快感から僕は目を離したいと思ったわけではないのに、気付けば僕は、表面上はまるでそれを気にも留めていないという姿で雑誌をめくっていた。目を離すつもりなんかなかったのに。


7/12
視界の端でははっきりと、その黒い腕がドアノブに手の先をかけていることに気付いている。心の中ではこのままではマズイということも考えている。しかし体が動くのが遅かった。恐怖からというよりは、圧倒的な面倒くささからだと自覚している。あんなものと向き合ってしまったら、せっかくの休日も、明日香との生活も台無しだという予感が腰を重くしていた。
災害から逃げ遅れる人の心理がわかったような気がしたが、災害という言葉がわいたとき、体中で非常用アラームが鳴った。膝で歩きドアに近づき、ゆっくり下り始めるドアノブを押さえた。そのまま立ち上がり、向こう側からかかる重さを膝で押さえる。力でかなわないことを知り、走る絶望感。
最初から逃げるべきだった。明日香との生活も、明日香も、全部放り投げて、後先考えず、気持ち悪いと思った時点で窓からでも飛び降りて逃げるべきだった。
膝の力が抜け、その場でしゃがみ込んだ。腰に強い痛みを感じ、尿が漏れるような感覚が下半身に広がった。声になっているのかどうか分からないうめき声をあげているような気がする中で、自分が漏らしているかどうか確かめる余裕があるのが不思議だった。幸い漏らしていないようだと確認したとき、頭に浮かんできたのは明日香の顔だった。よかった、部屋を汚さずに済んだよ、と思った僕は、まだ明日香のことが好きなようだった。
真上から顔をのぞき込まれていた。黒い腕を持つ悪魔が、どうしてだか、僕の顔からメガネをはずそうとしているようだった。眼鏡がダメなのか? とうわごとを言った気がする。なぜかそいつに気を使うような口振りで、僕は半ば自分で眼鏡をとった。よく見えない方が良いと思ったのかもしれない。眼鏡を失い、視力がぼやける僕の顔を改めてのぞきこむようにして悪魔は、果実のような赤いトゲトゲした眼球で僕の目を射抜こうとするようだった。果実の種のような黒くて小さい何かが僕の目の奥を探っている。心や、哲学や、嗜好をすべて、赤いトゲトゲした眼球の中にある無数の小さな黒い目に写し取ろうとしていることが分かった。
薄れゆく意識の中で、ああそうか、こいつは僕の体を乗っ取ろうとしているんだ、と思った。
ならば当然、明日香に危害が及ぶことは避けられない。
帰ってくるな、帰ってくるなと唱えるけれど、その気持ちもすべて、悪魔はかっさらっていこうとしているようだった。何がおもしろい、何がおもしろいと僕は、自分の中に入ってこようとする悪魔に向かって叫んでいたが、声が出ていたかどうかは分からない。


8/12
目が覚めたら、明日香が帰ってきていた。
「なあに、ずっと寝てたの~?」と、すごく呑気そうな声で僕の周りに散らかっている雑誌や、お菓子の袋なんかを拾い集めている。リビングにかかっているアナログ時計を見ると、4時半になるかどうかというところ。
次々とゴミを拾い集めていく明日香を眺めながら、朝起きてからお菓子なんか食べてないぞ、と思う。僕じゃない僕が、勝手にそれを食べたのかと、僕は当然そう思う。僕じゃない僕がいるぞ。僕じゃない僕が生きているぞ。僕じゃないぞ、僕は僕じゃないぞ、にげろ。
しかしそれは昨夜の夜、明日香と一緒に食べたものだったことを思いだし、取り乱さずに済んだ。雑誌は確かに僕が手にとって、ぱらぱらとめくってそのままにしておいたものだった。
何も変わっていることはなさそうだし、体調も悪くない。もちろん尿も漏らしていないし、何かが体内にいるという感じもしない。明日香の様子もいつも通り、ということは、悪魔に乗っ取られたというのは夢か何かで、すべて僕の思いこみだと思った。
顔を洗うようにこすって、僕はようやく恐ろしい事実に気がついた。
メガネをかけていないのにはっきり見えるアナログ時計、明日香が拾い集めるお菓子の袋だの空箱だのの文字が一瞬で読みとれる。こんな風に目が良い状態なんて、たぶん小学生のとき以来だ。少し薄暗い感じはするけれど、時間を見れば納得だった。もう日が暮れ始めているのだ。
悪魔に目をのぞき込まれ、あの果実のような、赤く充血したような目から何かをそそぎ込まれ、僕の視力が回復している。これは僕の目なのか? 僕の目が良くなったのか、それとも悪魔の目と入れ替わったのか、分からない。
取り乱しそうになりじっとしていられなくなって、立ち上がろうとすると足がよろける。
明日香がとっさに手を差し伸べてくれる。明日香に怪しいところはない。
「ありがとう」と言って僕は、明日香の手を自分の腕から引きはがすようにしてトイレの方へ向かう。
トイレのある玄関廊下の方に向かいたいのだけど、廊下に続くドアを開けるのが怖かった。あの黒い、悪魔みたいなやつの痕跡が頭の中に残っていて、奥から染み出してくる汚い恐怖感で足がすくむ。
足に力が入らないのは、この精神的な抵抗もあれば、ずっと狭いリビングで足を窮屈に曲げて横たわっていたからだ。
体の機能一つひとつを、僕はこうして確認しないでいられなかった。これは僕の体か? これは僕の意志か? この動きに、この精神の働きに矛盾はないだろうか。自分の感情と、自分の意志であるという確信をもてるだろうか、とずっと、明日香に何を言われても、その言葉すら、僕はどういう風に理解できているかを確かめるので精一杯で、ろくに返事もせずに、呻いているだけだった。そんな風におかしい自分も自覚できるから大丈夫だと思っている。明日香に心配されている。「ねえ!ねえ! 大丈夫? 病院いく? 声出ないの? ねえ!」とかなり慌てている。このように明日香が何をしゃべったのかは一つひとつ理解できている。それも仕方ないと思う。心配するのが当然だ、僕はいままともに返事できていないのだから、明日香が心配するのも当然。そういう論理が頭の中にきちんとあるのだから大丈夫、ただそれどころじゃない恐怖におそわれているからちょっと返事は適当になってしまっているだけだから大丈夫。


9/12
数秒経ってきちんと返事をする。
「ごめんごめん、ほんと、体調が悪いわけじゃないんだ、でもすごく怖いことがあって。夢かもしれないんだけど、すごくリアルで」
むしろ体調で言ったらいつもより良いくらいで、と付け足す余裕もあった。視力が上がっているとは言わなかった。かえって心配させてしまうかもしれない変化だと思ったから。
僕がこうなっている経緯をすべて話せば明日香も安心してくれるだろうと思う。
明日香がいない間に起こったこと。廊下にいた黒いヤツ。部屋の中に入ってきて、僕の中に入ってきたかもしれないこと。それで僕は僕の体や感覚が一瞬信じられなくなって、自分の内側で何が起こっているのかを確かめるのに必死で、とてもまともに返事ができなかった、と話した。
もちろん、それで何もかも納得して明日香が安心できるわけじゃないが、これからどうしようか、一応病院で見てもらおうか、とも考えたとき、今のこと、話しても良かったのだろうか、という気持ちになった。
明日香が本物じゃない可能性。
朝、スマホを隠したのは何故だ? 
言い逃れはいくらでもできるだろう。いつもの早い時間にアラームが鳴って、せっかくの休日なのに目が覚めてしまうのはかわいそうだと思ってティッシュ箱の中にいれた。
だけど明日香は僕のスマホのパスコードも知ってるだろう。なぜそんな回りくどいことをする必要があった。
知ってるけど、勝手にスマホの中を見るのは気は引けるから。
なんとでも言える。
明日香が言いそうなこと、明日香がやりそうなことは分かる。
だけどその、明日香がやりそうなことの中に、スマホをティッシュ箱の中に隠すという行為がない。なぜ明日香がそんなことをしたのかが分からないし、面と向かってそのことを訪ねるのも、適当なことを言ってはぐらかされるのも怖い。


10/12
「あ、もう暗いね」と言って、明日香がリビングの灯りをつける。
視界が明るくなって、改めてリビングを見た途端、僕はまた恐ろしくなる。リビングは明るく照らされているはずなのに、すべてがくすんだ色だった。30年前の写真を見ているような。部屋のあらゆるものが地味に見える。これまでごちゃごちゃとうるさいなと思っていた家具も、雑貨も、どれも声を失ったみたいに生彩を欠き、すべてが枯れた植物のように取り返しのつかない色をしている。
これまでとは違う視力、これまでとまるで違う景色に頭が追いつかず、激しい吐き気がこみあげてくる。
実際に僕は吐いてしまう。朝からろくに何も食べてないはずなのに、水分すらろくにとってないはずなのに、胃を絞るようにしてこみ上げてくるものがある。拒絶! 拒絶! と胃が叫んでる。僕が叫んでる。拒絶! 拒絶!
明日香が盛大に泣きわめいて、僕の背中をさすりながら、病院いこ! 病院! と、自分のバッグを探る。スマホを探している。そんなときも、僕のスマホを隠したくせに、という悪感情が先に立ち、背中に触れる明日香の手も煩わしく感じる。無駄に熱い手、背の皮を剥ぐようにさする手が不愉快で仕方ない。
どうして、どうして、と僕の中にある理性が叫ぶ。昨日はあんなに仲良く過ごしたのに、昨日はあんなに愛おしかったのに、今は明日香のことを信じられない。自分のことすら信じられない。
悲しくなったらそれまでの疑心が少し引っ込んで、冷静さが戻ってくる。
冷静さが戻ってくると、悪魔と交わした会話を思い出す。あのとき、僕は確かに悪魔と会話をしたのだった。
悪魔に目をのぞき込まれているとき、僕は悪魔の言葉を理解し、それを受け入れた。安心すらした。この悪魔は悪い悪魔じゃない、僕のために来てくれた悪魔だったのだ、と思ったほどだった。悪魔が僕に何をしたのかが分かった。
視力の回復も視界の違和感の理由もすべて分かった。


11/12
優しい、女のような声だったことを覚えている。丁寧なしゃべり方、恐ろしがる必要のない美しさを覚えている。
言葉とは違う、はじめに鉄が軋むような音。車輪が鳴るような、響きわたる不快。それから鈴のような音、風が過ぎる音、蝶が花に着地するような音。次第に落ち着きを知り、それらに意味が乗り、僕の頭に語りかけてきた。独特の文法で、独特の声で、僕の中と直接会話をした。

 ひとつに・ぁリィい※存在ガ
 とけグゥおんデ混ざってしま★※×グュ存在が
 ※◆▲○◆×××
 あな×の×▲ない境◆を
 わたしがはがしてさ○※げる
 あなたがいらない境界を
 わたしがもらってさしあげる

昨夜、明日香と愛し合った3度の間、何度も何度ももどかしさを感じた。これ以上一緒になれない悲しさを、これ以上混じることができない不安を、憎たらしく思ったのだった。
悪魔は僕の切実に、つけ込んで。
この視界は明日香のものだ、と知った。
こんなにくすんで見えていた。
こんなに美しくない世界で、こんなに吐き気を催す景色の中で、明日香は僕と過ごしていた。
いつも明るい明日香が、カラフルな雑貨を集める明日香が見ていた世界は、グロテスクなほどに腐りかけている。異臭を放たんばかりに生命力がない。
いつか自分に自信がないと言った明日香を覚えている。
僕は明日香の目が信じられなくなる。その代わり、かつて自分をいまいち好きになれないと言って泣いた明日香の気持ちが痛いほどに分かる。こんな世界で、こんな気味の悪い世界で、自分が映る鏡を見る勇気はない。僕は明日香の目でみる何もかもを気味悪く思う。そんなことないよと、明日香の良いところはいっぱいあるよと言った僕の言葉が、今になって信じられない。本当は明日香が選ぶ家具すべてが気に入らなかったことや、明日香が選ぶそれをさも自分も気に入ったかのように振る舞っていたことを思い出す。明日香は僕を信用してない、という事実が、明日香の視力を通して痛いほど伝わってくる。
同じ世界に生きていない。同じものを見ていない。この孤独、この不快感、この恐怖。同じ場所で同じものを見て、同じことをして過ごした僕らの間に積み上がったものなんて何もない。


12/12
めまいに近い症状を感じた。
めまいなんて起こっていないことは分かっていたけれど、その場で立っていられないほどに、明日香の目を通して移る世界は嫌な空気で充満していた。
視界にうつる不穏な空気から逃れるように、僕は部屋の中をよろよろと歩き回る。
「ねえ! 大丈夫なの? ねえ!」と明日香は相変わらず取り乱した様子で僕の肩にすがるようにしてついてくるけれど、それが煩わしくて仕方ない。
今度は明日香から逃れるように寝室の方へ歩き出す。
「ちょっと気分悪いから寝かせてくれ」とだけ言うも、そんなに体調悪いなら病院いかなきゃダメだよと叫ぶ明日香が見ている僕はさぞ気味が悪いのだろうと思う。
まとわりつく明日香を引きずるようにして寝室に入るとすぐに、タンスの上においてあるアナログ時計に目が向かう。
近未来的なデザインの、銀色の、置き時計。明日香が選びそうにないデザインのその時計だけが、とりわけはっきり見えて、落ち着いていて、頼もしく見える。
明日香の目を通して見た、そのセンスのないはずの時計が、確かに、この視界の中ではやけに洗練されて見える。
この時計、誰からもらったんだろうな、と考えるともなく考えている自分に気付く。
嫉妬感情が芽生えていることが不思議でならなかった。明日香の目を通せば、それが特別なものであることが手に取るように分かった。明日香の感情が視力に乗っている、と思えば嫌悪感はいやました。もう明日香の顔を見るのも嫌なのに。
明日香が自分に自信をもてない理由も分かった。その通りだと思った。心から、僕だって、明日香のすべてに興味がもてない。もう僕には無理だ。僕じゃないヤツと一緒にいた方が良い。こんなクソダサいはずの時計を平気でプレゼントできるようなヤツが良い。
嫉妬が芽生えることが不思議と考える僕はもう数時間前の僕とは別の僕だ。
別の僕ということは、僕はなんだ。元の僕はどこへ。
いくら目をこすっても視力は戻らなかった。目をこする手が、玄関廊下にいた悪魔の、あの黒々とした質感がうごめく指に思えて仕方なかった。本当に僕の腕は悪魔の腕になっている。テラテラと黒く光り、蠅の群のように蠢き、蛇の鱗のように強情だった。
「どうして僕のスマホを隠した!」と言って、僕は振り返りざまに、明日香を殴っていた。ひどくくすんだ色の僕の右腕を、色あせた果物みたいな明日香の頬にたたきつけていた。
「このクソ女! クソがっ!」と叫びながら殴った。
自分を痛めつけているような気がした。
罪悪感はなく、傷つくべき自分が傷ついている景色に安心した。
明日香の顔が腫れ上がっていく。
くすんだ色の明日香の顔が腫れ、痣がにじみ出てくる。
マシュマロのように膨らむ。焦げて、次は、溶けることを知っている。
この記憶。あの日。美しかったのに。不安。
この感情は僕のものだと知っているのに、僕の腕じゃない僕の腕が明日香の顔の上を跳ねるのを止めない。
悪魔め、この悪魔め。


悪魔の境界(完)

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