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子どもが落ちやすい雲梯

(9997文字)

1/10
プレハブの中で雨止みを待つ間、「ピッチャーをやめても良いだろうか」と将暉は考えた。
激しい雨と、伴って急激に下がった気温のせいで視界は強く煙っていたが、グラウンドの底の視界は明瞭で、降水量が排水能力を上回ってからは、勢いの強い雨粒が水たまりを叩き、跳ね上がる泥までよく見えるようだった。
雨粒が落ちては跳ね上がる泥水の粒が、陰気な途切れた輪を作る。
練習中、もしくは試合中、こんな大雨に見舞われたことは何度もある。泥の輪が生まれては消え、生まれては消えする姿に野球との繋がりを感じたこともあった。
互いに触れあうことの少ないこのスポーツは、点と点が球を通じて繋がって、円を作り得点となるものである。
今日の雨は将暉に決断を要求した。
今の将暉にとり、目の前に広がる景色はグラウンドではなく、泥の池にしか見えない。そこだけ平面から盛り上がったマウンドに水は溜まらず、池で溺れそうな坊主頭の汚い幼児が、必死に頭を突き出して口を開け閉めしているように見える。将暉はその姿に自分を見た。
「やっぱり、ピッチャーをやめるなら野球をやめなきゃダメか…」と呟いた声は、狭いプレハブの中にいる誰かの耳には届いただろうが、誰も、何も言わない。激しい雨粒の音にかき消されて聞こえなかったのか、皆が呼吸を合わせてそういうことにしたのか。
とにかく、野球におけるチームワークというものにはいつも、補助線が必要だと、将暉は感じていた。


2/10
面倒くさい面倒くさいと姉に漏らすのが口癖だった。
姉は彼が言う「面倒くさい」の意味をよく知っているようだった。
丁度将暉がピッチャーを降りる決断をした歳の頃に、姉は人生を降りることを考えたという。
「わかる、私もちょうどあんたと同じ歳の頃に人生やめたくなった」と朗らかに言った。
そんな姉を将暉は尊敬している。
そして、自死について考えながら、いつまでも死なない姉の気持ちが将暉には分かる。死に始めるのが面倒で、だからこそ生きるのが面倒なのだから、死に始める行動力があるのなら、生きる力もあるということだ。姉はこういう理屈を意外なほど大事にする人間だから、原理的に自由に死ねない。
そんな姉の口癖は「あー誰か殺してくんないかな」であって、それを、やはり姉は姉で、無駄に元気づけられたり、理由を問われたり、悲しそうな顔をされたり、怒られたりするのが面倒で、将暉の前でしか言わないものだから、姉の言う「誰か」は将暉だった。
将暉は尊敬する姉を殺さなければならないと感じるが、姉が死に始めることを面倒だと思う程度に殺そうとするのも面倒くさい。
だから将暉は姉の口癖が出ると心を込めてこう言う。
「誰か殺してくれる人が現れると良いね」
同じ理屈で、将暉は野球部を辞めるのが面倒だ。
辞めると決めて、辞めると伝えて、悩むフリをして、やっぱり辞めると決断するのが面倒だ。だから辞め始めるのが面倒だ。ならば卒業まで続けた方が楽かもしれない。人生と違って高校生活は短いのだから。
不動のエースである将暉がピッチャーをやめるということはそれなりの理由が必要であると思うが、将暉にはそれがなかった。
不調に苦しんでいるわけでもなし、打たれ続けているわけでもなし、ましてや自信がないわけでもない。
面倒なだけである。
野球は好きで、楽しいけれど、将暉が投げなければ試合が進まないという事実がひどく面倒だった。
あらゆる始まりや、きっかけや、起点そのものが持つ晴れがましさを将暉は嫌っていたが、ピッチャーが一身に背負わされるそういうものに対する億劫な感情はいつまで経っても拭えない。
なぜピッチャーなんてポジションをあてがわれてしまったのか。放る球が速く、足が丈夫で、冷静だったからだ。将暉は野球がうまかった。こんなに向いていないと言うのに。
姉が言う「面倒」のニュアンスが人に通じないように、将暉の思う「面倒」のニュアンスがチームメイトや監督に通じない気がしている。それは言葉から受け取る印象よりもずっと深刻で身に迫るものであり、字面から感じるよりも親しみのある平坦な感情である。
だから将暉がピッチャーをやめたいという気持ちを人は真剣に取り合うべきだし、姉が人生をやめたいという気持ちを人は大らかに捉えるべきなのだが、残念ながら彼らを取り巻く環境は彼らが期待するほどの弾性を持っていない。
よって、将暉が言う言葉も姉と同じところへ行きつく。
「ああ、誰か俺の腕折ってくんないかな」 


3/10
女神が、もしくは死神が、将暉の前に、もしくは後ろに表れたのは、雨の日から間もなくの金曜のことだった。
部活が終わり、バス停までの長く緩やかな下り坂を、将暉は珍しく清々しい気持ちで歩いていた。これから良いことが起こることを知っているかのようだった。
まだ暦上ではギリギリ夏と言って差し支えないはずなのに、やけに気温が低く、月も出ておらず、静かでとても暗い日暮れ直後の夜を、魚のような目で平に眺めながら、将暉は少々肌寒く感じることにも、後ろから近づいてくる音にも気付いていたが、どちらも警戒することなく歩いた。
余裕綽々の足取りで、良い知らせを待つ気分で、その不吉な時間を受け入れた。
悪い予想は期待通りに当たり、後ろから近づいてくる自転車は素晴らしい勢いを持って将暉の下げているカバンの紐に引っかかった。
本当は将暉の反射神経の方が自転車のハンドルにカバンを引っかけたのかもしれなかった。しかし誰が見ても、自転車は無防備な少年の後ろから猛スピードで迫り、何やら引っかかり、激しく巻き込んで事故を起こした。
自転車は倒れ、乗っていた女子生徒の制服の裾は翻る。車輪はまだ盛大に音を立てて回転し、今日出ない月の代わりに光っていたかのようなライトの明かりが静かに萎んでいく。
残ったのは青く寒い夜、銀色のフレーム、白い太ももと下着。全てが冷たい印象を持っていたが、将暉の目にはそれらの組み合わせがとても美しく見えた。
一瞬の衝撃で野球生活が鮮やかに終わりを迎えたこの日、この時間は、将暉にとって記念すべき映像として、匂い付きで心に刻み込まれた。
腕が痛い。腕なのか、よく考えれば手首辺りか、いや肩か。右上半身の全体が熱く、どこが痛いのかよく分からないが、とにかく明らかにもう野球ができる腕ではないことは確かだった。
女生徒は立ち上がり、自身も脛から膝にかけて大きく擦りむいているにも関わらず将暉に駆け寄った。
「三田くん!」と彼の名を呼ぶ彼女は、同じクラスの三好日菜子だった。
小柄で、色が白く、男にモテる彼女は、だからというわけではなさそうだが、一部の女には敬遠されていた。
三好日菜子は人を区別しなすぎる。タイプも系統も価値観も違う人間同士も無遠慮に引き合わせる癖があって、ときたま誰も望んでいない不器用な空間が作られる。そのくせ自分がその空間を取り持つということもせず、自分には関係ないという顔で傍観しているものだから、多くの女子には面倒だと思われている。
マネージャーが言っていた話しを思いだす。
「日菜子がB組の木戸さんと柏倉さんも呼んでたのね」ある日、パジャマパーティならぬ部活ジャージ(ブジャー)パーティがマネージャーの家で催されたのだが、三好日菜子が美術部と吹奏楽部の木戸と柏倉をそこに呼んだ。
部で特別にジャージを持っていなかった二人は学年のジャージを着たが、そもそも二人はジャージを用意していなかったので、一つはマネージャーの私物で、もう一つはマネージャーの去年卒業した兄が来ていた色違いの物だった。
マネージャーは自分のものを木戸に着せることもそうだが、兄のジャージを女に貸すことに抵抗があったらしい。兄のジャージを引っ張り出してきたこと、その労力に対して不快な顔を作っているように見せかけて、兄のジャージを貸さなければならなかったことそのものがマネージャーには不快だったことが、将暉には分かった。
ジャージを引っ張り出しながら、マネージャーは言ったらしい。
「もう、人増やすなら先に言ってよね。二人は良いけど、日菜子、勝手に男子とか呼びそうだよねそのうち」少し棘を含んだ言い方をしたつもりだったが、日菜子は「いやいや男子呼ぶとかはないよー、だって今日女の子だけでしょ? あ、もしかしてそれ押すな押すなってパターン?」そんなこと言って、本当は男子呼んでほしいんじゃないのー?
したり顔でこう言う日菜子への憤懣を、マネージャーは兄のジャージを着ている木戸にぶつけてしまったらしい。
と言っても、木戸が兄のジャージの袖をいかにも持て余してる風にして着ているのが不快で、半ば強引に自分のトレーナーを貸した、という程度のことだったが、将暉はマネージャーの言っていることが分かった。
まだ異性としての男と縁がなさそうな木戸が、男物のジャージにすっぽりくるまって満足そうにしているのが気に入らなかった、ということも、言葉の端々から窺えた。それが自分の兄貴のジャージなのだから、不快感は一層だろうと思う。
「別に悪くはないんだけどさ、違うのは分かるじゃん」
日菜子の話である。
別に悪くはないけれど違うのは分かるので、「そうだな」と将暉は答えた。
「まあ意外と楽しかったし良いんだけどね」
良いのだ。良いのだけど、三好日菜子が木戸と柏倉を呼んだことに怯んで拒否感を抱いてしまった心が知らぬ間にくすんでいたことを知ってしまったような感じがして、マネージャーは気持ち悪かった、のだと将暉は思う。
独善的、と言えば三好日菜子の人間性を端的に表すのに相応しいようだけれど、そんな言葉で断罪したところで虚しくなるのはこちらだった。
将暉は彼女とあまり関わったことはなかったが、苗字に同じ「三」の字がついているというだけで親近感を抱く程度には、彼女のことを好意的に認識していた。
その彼女が将暉に怪我を負わせた運命の女神なのである。
三好が将暉に怪我を負わせたということが知れたら、学校のみんなはどんな反応をするだろうかと考えた。
三好日菜子は慌てた様子で将暉に話しかけている。
しきりに辺りを見回しては、誰かが通り過ぎるのを期待するように、おどおどとした声を出す。
どうしよう、どうしようと呟く彼女は明らかにパニックに陥っていたが、将暉が彼女のそんな様子に本当の意味で気づくのには少し時間がかかった。 
なぜなら、彼女が取り乱す意味を咄嗟に理解することができないほど、将暉は三好日菜子に感謝していたから。
日菜子はやっと携帯電話を取りだす。
ト、ト、ト、とボタンを三つ押すのを見て、指の動きから、ようやく将暉は彼女が救急車を呼ぼうとしていることに気付いた。
将暉は無傷の左手で、発信ボタンを押す直前の日菜子の手を不器用に抑える。
そして絡めとるようにして携帯電話を奪う。
「おいおい、救急車は大げさすぎ」と言いながら。
「大げさって、だって、三田君の腕すごい曲がってるよ!?」
確かに、将暉の右手首は少々不自然な風に曲がっていた。
明らかに折れているが、痛みはそれほど強くない。だがそうしているうちにも肘の辺りまで見る見るうちに腫れて行く。それを見て将暉は少し脱力する。
「脚は全然余裕だから、歩いて行けるよ」
「歩いてって、病院まで?」 
日菜子は心から驚いた顔をする。
「3キロくらいあるんじゃない? そうだ、タクシー呼ぼうタクシー」
将暉はマネージャーの話を思い出して笑ってしまった。
三好日菜子は余計なものを呼ばなきゃ気が済まない子みたいだ、と思った。


4/10
とは言え、確かに病院までの道のりを歩いて行くのは楽ではないのは確かだ、と思った。
しかし、確実に野球生活を終わらせたい将暉は、一刻も早く処置をしたいなんてまったく思っていなかった。むしろこの終わりをゆっくり噛みしめたいと思っていた。
次第に激しくなっていく痛みを冷静に噛み殺しがなら、将暉の頭の中では野球は終わったけれど、その代わり始まるものがあることに、やはり「面倒」だという感情が芽生えていた。
痛みが始まり、治療が始まり、友人たちからの事情聴取めいた質問攻めが始まり、慰められる日々が始まる。表面的には野球を諦め、気持ちを入れ替え、まったく新しい進路を探る前向きな姿勢を作っていかなければならない。
ピッチャーをやめるという意志を聞いていたはずの何人かは、将暉がそれほど大きなショックを受けていないことに気付くかもしれないが、純粋にこの痛々しい姿だけでとりあえずは同情してくれるはずだ。将暉の真意が測れず、気を使われたりする。そんな日々が始まる。
終わりは常に始まりであり、この繰り返しから逃れることはできない。何かを終わらせても何かが始まってしまって、始まったものは必ず終わりに向かっていくのだが、いつも終わりは途方もない未来にある。
少しずつ熱く、痛くなっていく腕を眺めながら、将暉は姉のことを思い出す。
姉はこんな痛みを抱えながら日々、生きているのだ。
今日腕を包帯でグルグル巻きにした姿を見せると、姉はどんな顔をするだろうと将暉は考えた。
きっとよくやったという顔をするに違いないし、将暉の腕をこんな風にした日菜子のことも歓迎してくれるに違いない。 
それと。
これから始まる日菜子の罪悪感と、もしかしたら非難に塗れるかもしれない日々を思うと、将暉は彼女のことをしっかり守らなくてはと感じたし、嫌味に聞こえないような、心からの感謝と親愛の気持ちを伝え続けなければと思った。
この始まりについて、将暉は「面倒」な感情を持っていないこと、清々しさすらを感じていたことを、今日、夜、姉に話そうと思った。 


5/10
それはそうだと姉は言った。
それは恋に落ちたということだから、と言い切った。
恋?
折れていたのは手首だけだった。上腕には打撲を負っていた 。
恋と聞いて、固定されているはずの腕が抜けてしまいそうな感覚になった。
姉の口から恋なんて言葉が出るとは思っていなかったが、姉が言うのならそうかもしれないと将暉は思った。
確かに、三好日菜子に好意的な感情はある。
それはよくよく確かめてみれば、名前に三の文字がついているからという親近感とは別の感情だった。
将暉は、自分に追突した自転車が三好日菜子で良かったとどこかで感じていたのだった。
三好日菜子が彼の腕を折ってくれたこと自体にも感謝の気持ちがあったけれど、なにより、将暉の念願を達成してくれた女神が三好日菜子だったことに感謝していた。いや、三好日菜子だからこそ、女神だなんて思ったのだった。
「そうか姉ちゃん、俺は三好のことが好きだったんだな」
「間違いないよ」と姉はふんぞり返って言う。
姉が心から陽気なことに将暉は驚いた。一番驚いたのは、陽気で前向きな姉の姿を見て嬉しくなって、楽しくなっている自分に対してだった。
恋なんて、人生に疲れている姉に言えばそんな七面倒なことを一蹴されてもおかしくないようなものだが、姉は恋を歓迎すべきもののように扱い、丁寧に慈しんでいるようだった。
恋って覚悟も準備もなくいつの間にか落ちてるよね、と姉は夢見心地に言った。
「三好が俺の腕を折ったことはみんなに内緒なんだ」
少しいつもの姉らしくないと感じた将暉は、話題を逸らしたくなってそう言った。
「そうか、それが良いかもね」
三好日菜子が将暉の腕を折ったことを内緒にする理由について、詳しい説明をする前に姉がすべて納得してしまったので、将暉は少し不完全燃焼な気持ちだった。
「恋ってさ、なんで落ちるって言うんだろうね」
姉はまだ恋の話がしたいらしい。
今まで幾度となく、世間で発せられてきた疑問であり、解決する必要の無い疑問である。
「俺は全然不思議に思わないけど。恋には、やっぱり落ちるだろ。普通に恋をしたって言う人もいるだろうけど、客観的にはやっぱり恋は落ちるものだよ」
「つまんない弟だ」
姉につまんないと言われると将暉は少なからず落ち込んだ。
それから、ああそうか、姉はただ、自分のままならない恋について、俺に打ち明けたかったのではないか、と将暉は思った。


6/10
その夜、姉弟でパジャマパーティをした。将暉が姉の部屋に布団を持ってきて眠る。
姉が中学に上がるときに部屋が別々になってから、たまにやることだった。 将暉はいつもTシャツに短パンで寝ているが、このときはパジャマを着る。姉がパジャマパーティなのだからパジャマを着るの、と言うからだ。
将暉は長袖のパジャマしか持っておらず、ギブスが邪魔なので、姉が袖をばっさり切り、袖口に縦に鋏を入れた。ほつれ放題の袖口に閉口しながらやっと身に付けた。
パジャマパーティと言えば、三好日菜子の話をせずにいられない。
将暉はマネージャーから聞いた話に少し尾ひれを加えて姉に話した。
可愛い子だね、と姉は言った。
その反応はよく分からない、と将暉は笑ったが、姉にそう言われて嬉しかった。きっと彼女のことを可愛いと思いながら話したから、そういう印象になったのかもしれないと将暉は思った。
話しは尽きない。
野球が終わり、三好日菜子に恋をして、浮かれた将暉はかつてないほど興奮した夜を過ごした。
何かが終わり、始まる前の、この空白の夜に、いつまでも留まっていたいと思った。
真夜中過ぎ、おそらく2時頃、「落ちる姿って美しいよね」と姉がまた気味の悪いことを言い出した。
俺が骨を折ってから姉ちゃんは少しおかしいと、真暉は思う。
この頃にはもう眠気が強くなっている。
雨も、花びらも、涙も、太陽も、落ちる姿は美しいけど、なぜ悲しみを含んでいるのか。
姉がそんなことを言ったのは、真暉が眠りに落ちる寸前のことだった。
確かに、この眠りたくない夜、落ちる瞼、落ちる意識、それらを自覚するのは悲しかった。何より、まだ眠れない様子の姉の声。姉を置き去りにするような気持ちが切なかった。きちんと聞いてあげるべきだと思ったが、自然に眼球が裏返った。
将暉が聞いていようが、いまいが、関係ないという様子で、姉は、落ちるものを数え上げ、今まで自分が落ちてきた恋の数を丁寧に数えているようだった。 姉の恋にはやっぱり、悲しみを含んでいるのだろうかと、将暉はどこかで考えながら眠った。


7/10
土曜の練習は、監督に電話で事情を話し、休んだ。不満げな沈黙が2秒ほど流れたが、若干面倒くさそうに明日も無理しないで良いぞと言われたので、日曜も家にいた。月曜の昼休み、監督に呼ばれて詳しい話をすることになった。
 三好日菜子のために嘘をつくことに決めていたし、三好日菜子には余計なことは誰にも何も言うなと言っていたので、将暉の腕のケガのことはまだ誰も詳しくは知らないはずだった。
監督にきちんと嘘をつければ、それが部員に伝わるだろうと思った。
将暉は家で電球を替えようと脚立を使ったところ、バランスを崩して落下し、咄嗟に手首をついてしまったと言った。
監督は、自覚が足りない、練習でならともかく、野球に関係のないところでケガをするのは悔しくないか、というような話をしたが、将暉の心に何も届いていないことを察したのか、昼休みが終わりそうなことに気付いたのか、それ以上のことは言わなかった。
今日も検査があるので、部活には行きませんと監督に言った。つかなくても良い嘘だったが、部活に顔を出すのは億劫だった。
火曜日、退部することを監督に伝えた。そう早まるな、今からケガを治せば3年の夏には間に合うかもしれないし、ケガをしていてもできることはあると言われた。
もう少し考えます、とりあえず、今はジッとしていても痛いので、しばらく部活は休ませてください、と言えば、いくらか満足そうな顔をした。
何日か部活を休み、今日もまっすぐ家に帰ろうと支度をしていると、マネージャーが将暉に近寄り、いじけてないで出てきなよ、と見当違いなことを言い出した。
自分だけは将暉の本当の気持ちが分かってるとでも言いたげな、お節介な表情だった。
「いじけてるわけじゃないよ」と言ったのは本当のことだったが、マネージャーはそれを真実として受理してくれない。みんなも心配してるし、三田が出てくれるだけで士気上がると思う、というようなことを繰り返すが、将暉の心には届かない。
将暉の心に届かないことに、マネージャーは気付かない。
 

8/10
帰宅し、二人の家の中間地点あたりにある公園で三好日菜子と待ち合わせる。
口裏を合わせるため、そして三好日菜子の罪悪感を拭うため。
事故の日から、三好日菜子は自分が加害者であることに心を痛め続けていた。
将暉が野球ができなくなったことによって、マネージャーの機嫌が悪いこと、キャプテンが心細そうにしていること、何より将暉が野球を諦めなくてはならなそうなことが全部、自分のせいだと感じているようだった。
将暉は丁寧に説明した。
本当はもっと前から辞めようと思ってた。たまたまこの地区では通用するが、自分は野球には向いていないし、実は勉強をしていた方が性に合っている。だけどこの腕じゃノートも満足に取れないし、勉強もままならないから、そんなに俺の腕のケガのことで気に病むのなら、ノートのコピーをくれるとか、一緒に勉強をしてくれた方がずっと助かるという話を繰り返した。三好日菜子は多少気を取り直したようだった。図書館でノートをコピーし、公園で渡す日が続いた。
公園には雲梯があり、子どもたちがベルトコンベアを流れる製品のように順繰り上を下を通っていく。
将暉はその姿を見るのが好きだった。
この公園の雲梯のパイプとパイプの幅は広く、子どもたちはよく落ちる。
落ちては猫のように上手に着地し、また初めからやり直す。それが素晴らしい、羨ましいと思った。
落ちる、落ちる。
落ちるのと同じくらいの速度で、子どもたちは飛び上がって雲梯にぶら下がる。
姉の、落ちていくものは美しいという言葉を思い出し、この子どもたちもそれは当てはまるかもしれないと将暉は思った。
姉は落ちる子どもたちを見てどう思うだろう。


9/10
寒くなってきたからという口実で、将暉は公園から彼女を連れ出し、家にあげるようになる。
とは言え二人で遊んだり身体を触りあったりするわけではなく、真面目に勉強をする。ノートが取れないと記憶の定着率が低く、授業に置いていかれがちなのは事実だったし、勉強が好きなのも事実だった。
だんだんと腕が良くなってきてからもその関係は続き、もっと勉強に身をいれるようになった。勉強以外の話もした。進路について、友達について。 
姉は大学生だがよく家にいる。単位はほぼ取り終わったと言う。
姉も勉強が好きなたちで、勉強で苦労しているところは見たことがなかった。
ただ卒論の準備は億劫らしく、なかなか手を付けられないでいることを将暉は知っていた。
三好日菜子が家にあがると姉はいつも喜んだ。
三好日菜子は初めて姉に会った日、「クールなお姉さんだね」と言った。
そのクールなお姉さんに、この間、日菜子の写真データを渡した。
姉はクールとは程遠い喜び方をしていたことを知っているので、将暉はおかしくて仕方なかった。
日菜子の写真はそれほど多かったわけではないが、将暉には一枚だけ、とっておきのの写真があった。
日菜子が将暉にぶつかった日のような、薄暗くて風が強い日。
あの日と違うのは雨雲が遠くの空に立ち込め、立ち昇る黒煙のように坂道を下る日菜子の頭上にゆっくり流れて見えていたこと。
撮った写真はモノクロに編集した。
日菜子の顔は白く、気の弱そうな目と、強い眉が黒い。制服は黒く、仁王立ちするように開いてほしいと伝えた足は白い。将暉は両腕を身体の脇にまっすぐおろしてほしいと言った。カバンを地面に落とし、そのとおりに立つ日菜子はおかしなリクエストをする将暉を疑わしげに睨んで笑う。
挑むように立ち、笑う日菜子は、未熟な死神のように真暉には見えた。
姉に送ったのはそんな写真だった。


10/10
この雲梯のパイプとパイプの幅は広く、子どもでは落ちやすいと将暉が言うと、そうかなあと言って日菜子は雲梯にぶら下がった。
一つも進まないうちに、あほんとだ、遠いよこれと言って笑っている。
「日菜子は子どもとあまり変わらないサイズだからな」と言えば多少悔しく思ったのか、唇を引き結んで腕を伸ばす。
全身を上手に使って鉄のパイプを手繰り寄せるように進む。
その姿も写真に撮る。正面から。
「ちょ、ちょっと! 前から撮らないでえ!」と言って日菜子は、中が見えないように足をスカートに巻き着けながら器用に畳み、必死な顔が見えないように精一杯俯いた。
手を離せば良さそうなものを、日菜子は雲梯から手を放す素振りは見せない。
姉に送るための、日菜子の写真を撮る。
姉ちゃん、死ぬな。
途方の無い恋に負けるな。
過去の恋も、これからの恋も、俺は全部応援する。
日菜子は俺たちの女神だと思う。
携帯電話越しに日菜子を見つめながら、「落ちろ、落ちろ」と将暉は口の中で呟いていた。 


子どもが落ちやすい雲梯(完)

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