「丁寧な生活」と言わせてくれ

かろうじて「朝」と呼ばれるような時間に起きる。耳をつんざくアラームの音に叩き起されるのではなく、陽の光によって自然に目覚める。とても気持ちが晴れやかである。


顔を洗ってリビングに行くと、うさぎがケージに前足をかけて食い物をねだっている。
何よりもまず先に自分が水を飲みたかった。その意識をスッと引っ込め数分かけてニンジンを食わせてやるまでの自然な流れに、母性の萌芽を感じた。


朝食はトーストと決めていた。
6枚切りにスライスチーズ、そしてブラックペッパーをお世辞にも少々とは言えない程にかける。
酒によって開発された味の好みが朝食にまで影響を及ぼしていた。もう戻れなくなった。


夕食を作るよう言い渡されていた。
豚キムチに使う玉ねぎを切る。どうせ今日は家を出ないからとメガネで過ごしていたら大泣きする羽目になった。
それ以来ずっと目が変である。見えているものが時折ぐにゃぐにゃとして、なんだか目自体もツンツンチクチクと刺激を受けているような気がして、目を瞑ってしまいたい感覚がずっとあった。
特に必要のない小葱も刻んだ。ヤケクソだった。しかし小葱を入れた納豆は比べ物にならない程美味いのである。


おかずが豚キムチと納豆だけではなんだか食卓がクサいばかりで寂しいだろうと、冷蔵庫を掻き回した。
死にかけの茄子があったので、想像だけで煮浸し的なものを作った。想像や感覚で料理するのは得意な方である。うちにはずっと、計量スプーンやちゃんとしたキッチンスケールがない。
茄子にしこたま切れ込みを入れて、いい感じに油でぐにゅっとして、醤油とみりんと砂糖とダシ的な味が染み込んだらそれっぽくなる気がしていた。
マッタクその通りで嬉しくなった。少し醤油が強かったかも、という感覚は「初めてだから」という言い訳で包んで棄てた。


洗濯物を畳む、仕舞う。
毎度の事ながら思う。畳んで仕舞うのがめんどくさいから、干してあるのをそのまま着るようにすりゃイイのに。金もかからない。
実際、それでは満足できずに何種類も下着を揃えたい自分がいる。せっかく可愛らしい下着を選べる体なのだ、気分に合わせて選びたいと、一つ一つにそこそこの金をかけて所有する自分がいる。
将来金を回す為に働きたくはないといいながら、結局シホンシュギの世の中でキリキリと舞っているに過ぎないのが私という人間である。


カタツムリの住処を綺麗にして、新しい葉っぱを据える。
群馬の何処ぞの畑でヌメヌメとしていた所を住処である小松菜ごととっ捕まり、都会のスーパーへ輸送されてしまった彼は、次に私の母にとっ捕まって2ヶ月弱の間飼われている。
敵に怯えない環境と、際限なく食い這いまわれる環境のどちらが幸せだろうか。
思考などないであろうヌメヌメに対して、我々人間が幸せの度合いを推し量る。実際にはそれこそが最も乱暴な行いなのかもしれない。


花瓶の水を変える。
花はかつ開きかつしぼみ、毎日姿を変える。今日の彼らをいちばん綺麗に生け直す。
生花はだいたい何かしらが置かれるようになった。うさぎとカタツムリと花と沢山の鉢植えとデカい人間と。そう言えばこの家は生きものだらけである。


前日に撮影でいじくり回した部屋を片付ける。
色褪せたドライフラワーは棄てた。生花が活きるよう、ドライフラワーは飾らないことにした。
部屋の白い部分が以前より増えた。それだけで人間もろとも清廉な心の持ち主になったような気がするからフシギだ。


油の飛んだコンロ周りを掃除する。
名の無い家事は存在すると知る。



掃除機をかける。
家中のゴミもまとめた。


ようやくコーヒーを淹れた。
これからは授業を観て、課題のショートエッセイを書いて、本を3冊読む。自分の時間だ。おやつにサブレも用意した。
なんだかいつもより丁寧にコーヒーを淹れている。
「生活」をしたからかもしれない、と思った。


「生活」。
私が勝手にカッコで括っている。
つまり特別な事であり、いつもの状態ではないのだ。
私が個人的に呼ぶコレは要するに「家の中で様々な行動(主に家事)に対して精力的に取り組み、1日を通してそこそこ頭を回した極めて人間的な」状態のことである。



「生まれてこのかた実家育ちでして、甘やかされた生涯を送ってきました」


学校に行き、遊びも人並みにさせてもらい、自分の小遣いの為にバイトもしている。そんな生活の中で手伝った家事は最低限のものだった。
自分ひとりのオキル・クウ・ネル・アソブもどこか流れ作業だった。ひとつひとつの工程内で思考を膨らませ、意識的に取り組む事なんてない。


「丁寧な暮らし」と言われるような意識の高いものではなく、むしろ一般的には当たり前の行動の集まりである。
しかし自分にとっては「丁寧な」という形容詞を使ってしまいたい程にこの集まりは非日常だった。家の中だけの行動を暮らしや生活と呼ぶのではないだろうが、少なくとも家の中の行動全てに対して意識を集中し、それらそのものを楽しんでいた自覚があったからだ。


たまにする、から楽しいのだということは分かっている。あるいは迫り来る課題や何かから逃げるようにして行う、それがまた楽しいのだということも。母親に鼻で笑われ蹴飛ばされそうな台詞である。


「生活」をするのは楽しく、そして厳しくつらい。
たまにするもの、ではないからだ。
継続が苦手な自分にとって最大の敵である。



私の中で「生活」が生活になるのは何時だろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?