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愛した姿はそこになく

 この部屋が昔、音楽室として使われていたことは、ほんのつい最近知った。よくよく見れば、錆かけの本棚の中に、薄汚れた楽譜が何冊か、積み重なっている。まあ、そんな物を見つけていたところで、きっと私は全部先輩の持ち物だと、勝手に勘違いしていただろう。片足の無い机の上に置かれた電気ケトルも、棚の中に置かれたオルゴールも、なんだかよくわからない分厚い本も、全て先輩の物なのだから。
「祖父の教え子がね、この学校で音楽を教えていたんだよ」
 少し濃いめに出したアールグレイを、ゆったりと飲みながら先輩は答えた。
「へえ、じゃあこの部屋は」
「この部屋は昔部室としてもらったものを、生徒会の厚意でお借りしているだけだよ」
 少し冷たい声色で、でも目を細めて嬉しそうに、先輩は言った。
「昔、祖父に連れられて一度だけ来たんだ。この部屋半分ぐらいはあるんじゃ無いかっていうグランドピアノが、そこにおいてあって」
 ゆったりとした動作でティーカップを置き、立ち上がった先輩は窓辺に近づき、両手を前に伸ばした。
「なんの曲だったかは全然わからないけれど、その曲がずっと忘れられなくてね」
 見えない鍵盤を奏でるように、両手を動かした。それに合わせて、先輩は小さな声で、旋律を刻む。
「ムーン・リバーですね」
 ピタリと、手が止まる。
「知っているのかい?」
「ええ。映画好きなので。オードリーが口ずさんでいるのが印象的で、曲名を調べたんです」
 そうか、そう言って先輩は俯き、指先を眺めた。何か不味いことでも言ってしまっただろうかと思いながら、恐る恐る近寄れば、先輩は顔を上げ、柔らかく笑った。ふわり、と肩口で切りそろえられた髪の毛が揺れる。その姿は映画のワンシーンを切り取ったみたいに、美しかった。
「そうだね、彼女は、オードリー・ヘプバーンが好きだった。そんなことも忘れていたのか、私は」
 切なく笑う先輩に、かけるべき言葉が見つからなかった。ただ、下を向いて持参した焼き菓子の包装紙を指で弄んだ。
「ひなたは、レッドな気分になった事はある?」
 見えないピアノを指先でなぞりながら、先輩が聞く。きっとその言葉は、私に向けられたものじゃ無い。誰か、他の人からの。先輩もわからない、その問いに、答える言葉は持っていなかった。ただ、一つ以外は。
「ティファニーに代わるものは用意できませんけれど、ブルーな気分の対処法で良ければ、私のおすすめを準備しますよ」
 そう言って笑えば、応えるように先輩も笑った。

(お題bot* @0daib0t より 「密室、先輩、ショートヘア」)

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