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雑文 #155

SNSが飽和状態のように思える。

今日一日、これからの社会について考えていた。
いまは何でもSNS発信。
アメリカ大統領の政治方針もツイッター。
著名人が問題発言で大炎上。
遊びで投稿したイタズラが悪質すぎて捕まる。
おもしろ投稿バズって宣伝に利用する。

こんなふうになるって誰か予想できた?

これが良いとか悪いとか言うわけじゃない。
だって一概に言えない。
私もSNS使ってるしこれからも使うと思うし、新しい繋がりができたり著名な人の日常が垣間見えたり、いろいろいいこともあった。
一方で、あちこちで炎上や論争を見ているとイヤになることもあるし、かと言って見てしまうし、見てしまう悪趣味な自分がイヤになる。

私は2009年にツイッターに登録をした。
その前はmixiを楽しくやっていた。
最近はInstagramも。かなり利用していると思う。

けれどこの頃発信したい気持ちが減ってきた。
今年の初めにスマホが壊れ、修理にものすごい時間がかかったのでその間ガラケーを借りて使っていて、手元でネットを見られなかったのだが、それはそれで楽だった。
通勤時間に本を読んだり、スマホじゃなくて新聞を見たり、すぐ必要な件は電話で済まし、他愛もないチャットはパソコンを開いたときのみ。
心が楽だ。これまでなんてネットに縛られてたんだろう。

でもやっぱり修理して戻ってきたスマホはまた前のように見てしまうのである。

「ネットの闇」って言葉がある。
私はそれに関心があるらしい。

最近起きた悲しい事件、川崎市殺傷事件。
いわゆる通り魔。この犯人がその場で自殺して、ネットやテレビなどでいろいろ論争が起こってるわけだが、今日明らかになった東京練馬区の事件を知ったとき私は文字通りぞっとした。
ぞっとするときって本当に背中が「ぞっ」というんですね。

その事件は川崎の事件を受けて、ひきこもりの息子の今後を心配して実父が息子を殺してしまったという事件。
このままでは息子が殺人を犯してしまうのではないかと思ったという…
なんて、なんて悲しい事件なんだろう……

ああだこうだ言えない。
私はひきこもりと言われても致し方のない時期を過ごしたことがあるし、ずっと社会的ひきこもり状態の(でも会えば朗らかな、暴力性など一片もない)親友もいる。
誰が悪いのか?というテーマで議論したとき、いつもどちらサイドかで論争になる。
その人の経験や環境や思想で立ち位置が決まってくるからである。
そして「まず社会が悪い」と言い放ってしまえばその論争はひとまず片がつく気がする。

だけどこの「社会」がとにかく厄介である。
社会は簡単に変えられないのに、変わるときは大きく変わる。
私はなんとなく、日本の社会がいま変わっていく時期だという気がしている。
世界も変わるのかもしれないけどそこまではわからない。
きっと変わるのだ、という根拠のない予感のみがあって、ではどうなるのか?と問われれば答えられないし、考えても曖昧な空想しか出てこない。
ひとまず、2000年代にあったIT革命のようなものがまた来て、SNSで誰でも彼でも発信する文化もどうかなって、まるでビッグバンが爆発するみたいに新しい世界が広がるのではないか?
私が生きてる時代のうちに。

などと夢想していたら、混沌とした現代はこの後とことんシンプルになって、数限られた本当にいいものだけが淘汰されて残るんじゃないかなあなんていう平凡なところで私の想像力は尽きた。

#雑文 #散文 #日記 #ネット社会 #Twitter #SNS


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