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『君たちはどう生きるか』を観て、素直に書いた感想文

話題のジブリ映画、『君たちはどう生きるか』を観てきた。言わずと知れた宮崎駿作品である。この映画のプロモーションの特異さについては皆さまご存知だと思うので、特にネタバレには気を配りたい。

以下、めちゃくちゃネタバレを含みます。あくまでも個人的な感想であり、考察どころかあらすじの紹介などもないものの、ネタバレはしまくっています。各自お気をつけください。

というか、観ていない人は他人の感想を読む前に自分で観てほしい。そして素直にいろいろと感じて考えてほしい。誰にも邪魔されず介入させず自分の感想を大切にしてほしい。余計なお世話かもしれないけれど。

私もいきもの、あなたもいきもの

いきなり「嫌い」の話から入って恐縮だが、昭和という時代の性質を差し引いても、私は主人公の父親ショウイチに対する嫌悪感がぬぐえない。おかげさまで主人公である眞人にすんなりと心を寄せながら観ることができた。主人公に寄れない映画はだいたい2時間ほど地獄のような体験をすることになる。

ひとまず、主人公の眞人に心を寄せた状態で感想を書き始める。

率直に言って眞人の境遇はキツい。最初からキツい。戦争3年目に入院中の母親を火事で亡くし、戦争4年目に新しいお母さんが現れるだけでもキツいのに、周りに友人などひとりもいない、生活もがらりと変わってしまうような地方に引っ越しさせられる。そこに現れた新しいお母さんはほんとうのお母さんとそっくりだし(実母が姉、継母が妹の姉妹)、新しいお母さんは「あなたの弟か妹よ」と言いながら自身の腹を触らせてくる。キツい。このシーンは正直おぞけがした。

とにかく、まだ思春期に差し掛かるかそうでないかくらいに見える眞人にとって、受け入れねばならない刺激が多すぎる。願わくばひとつずつ、ていねいに気をつかいながら、ゆっくりと順番にきてほしい。こんな刺激の猛ラッシュ、鈍感な大人だって耐えられるかどうかわからない。

何かしらの商売で身を立てているらしい父親は「新しい工場」を持ち、「新しい妻・母」を持ち、「新しい子ども」まで持っている。もちろんすでに手元にある息子も連れて、ここにいる。彼が失ったものに対する悲しみや未練を持たないとは言わないが、劇中ではそういう顔は見えない。この父親に対しては絶対的に『支配・獲得するいきもの』として認識した。ごく自然で本能的な支配と獲得で家族を守る男なのだと思う。それは決して悪いことではないし、役割としてかなり立派なものだ。

ナツコさん、眞人の新しいお母さんになる女性は、とても品のいい大人の女性に見えた。東京から越してきたばかりの眞人に「触ってごらん」「動いたの、わかる?」と腹を触らせるまでは純粋にそう見えた。ナツコさん登場からこのシーンまでは5分もかかっていないと思う。なので、私はナツコさんのことをすぐに『女から母に成ろうとするいきもの』として認識した。

映画って、ファンタジーで救ってくれるものではないんですか?

この父と母と子がこれから共に暮らすのは、ナツコさんとほんとうのお母さんの実家で、とにかく立派なお屋敷だ。玄関には虎が描かれた豪勢な屏風があり、その奥にはいくつかの部屋が連なり、大きな声で呼びかけても家人に聞こえないような広い広い屋敷。数人のばあやと一人のじいやが守るその家は、いわゆるジブリ的な、いかにも不思議なできごとが起こりそうでわくわくする佇まいとは言いがたい。田舎の家らしい薄暗さ、眞人のかたくなな表情ばかりが気になったのも手伝って、嫌な空気の漂うお屋敷にさえ見えた。

今まで、ジブリ映画は数々のファンタジーで光をくれた。実は今回はそれがない。あるにはあるけれども、「いやまぁそれはそうだけどさぁ……」と言いたくなるようなものである。小さくて凡庸で、ともすれば「そんなのよりももっと明るい光を!」と望みたくなるようなもの。

たぶん、私のこの映画に対する大枠の感想としては「素直に正直に、このクソまみれの世の中を生きていこう」という感じだと思う。もちろん、眞人が新しい母親と家族を受け入れるまでの成長物語としても観れたのだけれど、これに関しては塔の世界に行かなくても(ファンタジーを介さなくても)クリアできた部分だと解釈している。

何故なら、眞人は塔の世界に行く前に、ほんとうのお母さんが遺してくれた『君たちはどう生きるか』という本を発見し、読み、意識に変容をもたらしているように見える。その上で、ナツコさんが消えていった森に彼女を探しに行く。本を読む前に、森に入るナツコさん、つわりで臥せっているはずのナツコさんを見ているが、その時点では彼女に声をかけたり他の大人に知らせたりはしていない。

そもそも眞人は物語当初から、健気にも「お父さんが好きな人だから」とナツコさんを受け入れようとし続けていて、ファンタジーを介すより時間はかかったかもしれないけれど、いずれはナツコお母さんと新しい家族を自分の生活に取り込んだと思う。

とにかく眞人はいい子なのだ。不器用でまっすぐないい子だから、静かに溜めた強烈なストレスを自傷行為と嘘に換えて表現するに至った。少しずつ駄々をこねることはしなかったか、できなかったのだろう。

さらには、眞人はこれを「悪意」と呼んだ。溜めた鬱憤が色を変えて誰かに害をなすものとして発露したことを、彼は物語の終盤で、あるいははじめからしっかり認識していた。

けがを負い「自分で転んだだけだよ」と繰り返す息子に、『支配・獲得するいきもの』である父親は「眞人、ほんとうのことを言え。誰にやられた?」と問いつめる。「絶対に犯人を見つけてやるからな!」と学校に乗り込み、300円の寄付で学校の大人たちを抑えて絶対的優位を確立しようとする。「ほんまお前そういうとこやぞ」と外野の私は思う。そもそも教室で眞人の立場が悪くなったのは、父親が「ダットサンで乗りつける転校生」を演出したのも大きな要因ではないか。

一方、ここでナツコさんが受けたストレスも相当なものだったろう。ただでさえ母に成ろうとぐっと堪えているところに、眞人が歪んだコミュニケーションをねじこんできた。彼女は大人の女だから、眞人のように純粋な嘘と後先考えぬ思いきった行動では、注目と気づかいと味方を得るようなポーズをとれない。あくまでも妻として母として、家と子どもたちを守らなくてはならない。常に一歩引いて、妻と母に成り続けなければならない。

しかも、眞人はほんとうのお母さんである自分の姉にそっくりだ。姉にそっくりな自分にもきっとそっくりに違いない。眞人の顔を見るたびに「産んでいないのにそっくりな子ども」からくる嫌悪感が彼女の心を蝕んだんじゃないかと思う。それもあって、頭から血を流して帰ってきた息子をあたりまえに慈悲を向けるべきほんとうの息子だと思えたかというと、そうではなかったんじゃないかと私は思う。

彼女の「母に成り続ける」という一種の背伸びが彼女自身を追い詰めたであろうことは、勝手ながら容易に想像できる。だからこそ、塔の世界の『石の産屋』で、彼女が眞人に「あんたなんか大嫌い!帰って!!」と叫んだところで私は大いに傷ついた。ここで「ナツコお母さん!」と呼び続ける眞人の姿にも相当傷ついた。「大嫌い」をがまんし続けてついにはあふれ出したナツコさんと、それを受けても「お母さん」と呼び続ける眞人の強烈な覚悟の狭間で、私はたいそうな傷を負った。

石の産屋が彼女を守ろうとしてか、ナツコさんを囲んでいた紙垂のような包帯のようなものが大暴れして二人を引きはがしたが、できればあそこでナツコさんにはもっと派手に泣いて喚いてほしかったし、眞人にもそうしてほしかった。そしてそのあと、がしっと抱き合って二人で「帰ろう」としてほしかった。私の代わりに思いきり声を上げて泣いてくれよ!通じ合って同じ方向を見てくれよ!

せめて、あとから「二人で歩く」描写でも挟まれば助かったのに、それすらもない。終盤、世界が崩壊しはじめて逃げるシーンで、ナツコさんは一人で歩いて時の回廊まで来てしまった。眞人はヒミちゃんとアオサギと一緒にいるのに……ナツコさんはおなかの子と一緒に、一人で歩いてきた。

ヒミちゃんという、偉大なる『母』

私はこの映画でヒミちゃんが一番好きだ。炎属性の時点で少しひいき目が入るのだけれど、それを差し引いてもいい子だし、好きだ。(塔の世界のキリコさんも好き。墓の門の前でタバコのような火のつく棒みたいなやつで煙の結界を張ったの、かっこよかったなぁ)

ヒミちゃんは明るくて勇敢で、節度があるタイプ。私は、例えば「女だからってナメるんじゃないわよ!」と無鉄砲に立ち回り敵に捕まる系のキャラクターがどうしても苦手なのだけれど、ヒミちゃんはぜんぜんそんなんじゃない。行くときはガンガン行くけれど、ときによっては「私の力はここでは制限される(から気をつけて)」とか「(今は危険だから)私なら入らない」とか、自分の性質を冷静に捉えたうえで勇敢に行動する。ジブリ映画はそういう意味で安心感がある。

このヒミちゃんには、絶対的な母性を感じられる。眞人の実母であり、ナツコさんの姉という正体もあるが、いわば『女から母に成ったいきもの』、もしかすると最初から女を超えて『母といういきもの』なのかもしれない。

眞人に飯を食わせ、守り、導き、救い、そして産む。時の回廊でそれぞれの世界に帰ろうとなったとき、「その世界に帰ったら火事で死んじゃう」と眞人に言われても、「眞人を産むなんて素敵じゃないか!」と死を恐れず眞人を産みに行く。そういう世界へと旅立つ。塔の世界のキリコさんも、おそらくヒミちゃんが眞人を産むのを助けるために、一緒に行く。

劇中で眞人に飯を食わせたのは、元の世界のばあやたちと、塔の世界のキリコさんと、ヒミちゃんだ。ナツコさんも眞人のためにお茶とお菓子を用意したけれど、眞人がそれを食べた描写はない。ナツコさんと二人で食卓につくシーンもあったが食事は映らなかったと思う。ナツコさんの少しの説教(大叔父さまの塔に近づいてはいけない、という旨)のあと、眞人は「わかりました。ごちそうさまです」とすぐに席を立ち、食卓を離れる。

母たちは食わせる。子は食う。共に食事をする。この「飯を食わせる/食う」という関係性にも、私はまた傷ついた。この傷もしっかり引きずったまま、先述した石の産屋のシーンで大けがを負ったのだ。

ファンタジーが徹底的に私を見捨てていく

わらわらの存在も辛かった。白くてふわふわ飛ぶなんかかわいいやつ、わらわらは塔の世界のキリコさんに世話をされながら、熟すときを待つ。熟すと飛ぶ。らせんを描きながら空へ向かって、上の方へと飛んでいく。塔の世界のキリコさん曰く「上の世界で眞人のように産まれる」らしい。

私はここで堪らず号泣した。もののけ姫のコダマみたいな「THE・ファンタジーの塊」だと思ったのに、なんと人間の素だったとは。

だいたいの場合、ファンタジーは私たちを救う。クソまみれの現実を忘れる魔法を一時だけでもかけてくれる。ジブリ映画のファンタジーに救われてきた人たちもたくさんいるはず、なのに、わらわらはいずれクソまみれになる人間の素だった。

さらに救いがないのは、純粋にかわいくてファンタジーないきものがわらわら以外出てこないことだ。鳥たちは抜かりなく気持ち悪くて怖いし(この辺りはタカノ氏の感想文を参照されたい)、魚は魚で虫は虫だ。冒頭からの眞人の父親への嫌悪感からはじまり、ナツコさんの「成ろう、成ろう」という姿勢と葛藤、眞人のひたむきな覚悟に傷ついてきた私には癒しが足りない。「かわいい~」と無邪気に言いたい。これまで現実逃避の先として「コダマになりたい」と言ってきたように「わらわらになりたい」と言わせてほしい。言えないでしょう、わらわらは人間の素なんですよ。

わらわらがペリカンに食べられるのを見た人間たち、眞人と塔の世界のキリコさんはペリカンに憎悪を向ける。彼らは上の世界で人間として産まれることになんら疑問を抱いていないのだ。

そしてヒミちゃんはペリカンを追い払うために火柱を立てる。わらわらごとその炎で焼く。

眞人は「やめろ!わらわらを燃すな!」と叫ぶ。塔の世界のキリコさんは「おかげでペリカンはしばらく来ないよ、あのままじゃわらわらは全部食われていた」と言う。わらわらを個と捉える眞人と、わらわらを種と捉える『母といういきもの』たちの違いが見える。ヒミちゃんと塔の世界のキリコさんは、いずれも大きな意味での『母といういきもの』なんだと思う。

大叔父さまの箱庭

そもそもこの塔の世界は、眞人の先祖である大叔父さまがこしらえた世界らしい。理想の楽園をつくりたいままつくれていない大叔父さまを眺めながら、私は何年か前に体験した「箱庭療法」を思い出した。

箱庭療法とは、箱の中にさまざまなモチーフを好きに置いてひとつの世界をつくり、そこから心理状態を読み解きケアに役立てるものだと説明を受けたように記憶している。

私はそこで大叔父さまのように楽園をつくった。塔の世界へ転がり込んできたばかりの眞人を食おうとしたペリカンたちのように、門の前には兵士の人形をたくさん置いた。

大叔父さまの楽園像の全容やディテールはうかがい知れなかったけれど、私は私の楽園を連想した。だから、大叔父さまが崩壊する世界に巻き込まれておそらく死んだとき、私はヒミちゃんと一緒に泣いた。それまでも傷を負いすぎてずっと泣いていたのだけれど、さらに泣いた。ここで流れたのはわりと素直な涙だった。なんなら、世界の崩壊を決定づけたインコの王様に対して「短絡的に動いてんじゃねーぞ鳥ィ!!」と素直な恨みを向けた。(ヒミちゃんは何も恨んでいないと思う)

かくして塔の世界は崩壊し、眞人とナツコさんと元の世界のキリコさんと大量の鳥たちは元の世界へ帰った。なんだかんだあって眞人の友人となったアオサギも鳥たちと共に自然へ帰っていった。アオサギ曰く、眞人は今こそ塔の世界から持ち帰ったモノの力で記憶を留めているが、そのうち全部忘れるらしい。

大叔父さまは血のつながった者にしかファンタジーを与えない

この映画でほんとうにファンタジーが必要だったのは、眞人ではなくナツコさんだったのだと思う。「あんたなんか大嫌い!」と本人に激しく吐露できたことは、彼女のたましいにとってたいそうなインパクトだったに違いない。その暴言さえも、おそらく眞人に忘れてもらえる。アオサギの言うとおりなら自分だってきれいに忘れられる。ただそこには「あんたなんか大嫌い!」と叫んだ事実だけが残る。最後の最後までナツコさんが眞人の『母に成った』描写は見つけられなかったけれど、彼女がそれを叶えるためには、大叔父さまの塔がくれたファンタジーは大いに役立つと思う。

あの父親は最後まであの父親だった。行方不明になった妻と息子を救うため勇猛果敢に塔へと向かい、しかしながら塔の世界を欠片も体験せぬまま(塔の世界からのインコとウンコにはまみれたけれど)、大団円を迎えた。そう、この父親にとっては平和で喜ばしい大団円のはずだ。こいつはここでも無事に「失いかけた妻子を獲得した」のだ。クソ。

そういえば、眞人が塔の世界で鳥にまみれている間、父親は元の世界で鳥をつくっていた。おそらく一人乗りの、鋼でできた鳥。やはりこいつは支配し獲得し続けるのか、と思った。

ジブリ作品、宮崎駿作品という前提をおいての、『君たちはどう生きるか』

私たちがよく知っているジブリ映画の「ファンタジー」はあまりに美しく豊かで、風がひとひら抜けるだけでハッとするような、そこに生きる喜びを再発見するようなものだった。あまりに美しくあまりに豊かに表現してもらってはじめて気がつく喜びがある、と、現実世界ではアタリマエに塗りつぶされて見えないものがある、と教えてくれるものだった。

ここまで繰り返し書いてきたように、この映画で私はたくさんの傷を負った。なんせジブリ映画の、宮崎駿作品のクオリティをもって、「現実」をまざまざと見せつけられたのだ。子どもの頃から今までずっと信じてきた、もちろん今も信じているジブリ映画のクオリティで、リアルな現実とファンタジーの軋み、さらにはその崩壊までを見た。最後まで理想の楽園はつくられないままに崩れ去った。そして私は救われない。

塔は突然空から降ってきて、とりつかれた大叔父さまがそれを建物で覆って中に籠ったそうだ。もしもこれが、天が創造の力を地に降ろし、とりつかれた人間がそれを大切に祀り上げそこに籠ったのだとしたら、これは他人ごとではない。創造しない人間はいない。問題はとりつかれるかどうかであって、その可能性は全人類が秘めている。それに、劇中で大叔父さまは自身の血を引くものだけを招いたが、現実世界での血はほんとうの血でなくともいいはずだ。

最後に添えておくと、私はこの映画について誰かから「どうだった?」と訊かれたら、「エンターテインメント映画を観たいなら外れると思う」と答える。「楽しみたいならマリオ映画の方が断然オススメだよ」と付け加えて。

この映画は、『君たちはどう生きるか』というタイトルに真正面から心臓を握られたい人だけが観に行けばいいと思う。


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