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余ったり 足りんかったり 買ったり 捨てたり

拝啓 みなさま足りてますでしょうか?
足りて足りて、むしろ余りがちでしょうか?


さて、今回も照明の話ではなくですね、あかりっ子(わたしのフォロワーさん)たちには申し訳ないのですが、こちらの記事を読んで“そうそう〜”ってなっちゃったもんで、まずはmidori doremiさんのこの記事のご紹介を。


さて、とても流行っている“持たない暮らし”や“ミニマリスト”という考え方について、それでも手元に置いときたいものも、きっとあるんでしょ?という話です。

この記事を読んだ時、それはもう深く深くうなづきました。うなづき過ぎて危うくもう少しでウナ頭巾ちゃんになるところでした(謎)

なぜこんなにうんうんなったかというと、何を隠そう、わたしはものを作る側の人間でして。でへへ。
どちらかと言えば、これをお読みいただいている皆さま(あかりっ子言わんのかーい)の“暮らし、ないしは手元に置かれるもの”を作っているわけなのです。

誤解のないよう先に申し上げておきますと“だから、ものを持たない人やミニマリストを応援出来ない”とかいうことでは一切ございません。むしろ、わたしも要不要を明確にして、整理整頓するのはかなり好きです。
ただ、職業柄、どう捉えたらいいのだろうと結構考えてきた部分なので、ウナ頭巾ちゃんになりかけたのです。

足るを知る

これ「たるをしる」って読みます。場合によっては「知足(ちそく)」なんて言うこともあります。
元々は中国の偉い人“老子”の言葉で、意味としては、「今のあなたには必要なものが十分に足りている、その事を知りなさい」つまり、現状に満足し、それをありがたいと感じなさいというような言葉です。

これ、はるか昔の本当に人々が貧しかった時代に生まれたものだと思うと、言葉の重みは比べものにならないのですが、今のミニマリストさんたちの精神性を表現するのにもよい言葉だと思っています。
ただ、意識しすぎて極論みたいになっちゃうのはちょっと危ういなと思っていて、例えば「わたしは持っているものの9割くらいは捨てました」なんて言われると、別の理由があるんだろうなと思ってしまう。インパクトはありますが、ちょっとゾッとしてしまいませんか?

たとえば、照明器具。市場でも世界でもいいんですが、あたりを見回すと照明なんていくらでもあって、物体としては充分に足りているわけです。色んな種類、素材、形状、そして、なんなら売れているものをコピーしてまで増幅させている。
この考え方でいくと、照明どころか、もはや生活する上で足りてないものなんか、何もないんですよね。
今の世の中、物体は足りまくってるわけです。

つまり、何が足りないとか足りてるとか言いたいかというと、その物体とともにある“心”の問題だということが分かる。
要不要というのは、その心、つまり“思い”が決めているということだと分かります。そして、思いがのっているものが他ならぬ、皆さまの“お気に入り”と言われるものたち。

ここで再び登場するのが、ものを作って誰かに買ってもらっているわたしです。
考えて考えて、思いを込めて設計したものを皆さまにお届けする。
しかし誤解を恐れずにいうと、もしかしたら自分が作ったものは実はナニモノでもなく、資源を使って増えた“ただのモノ”では、、、なんて苦しさのようなものを感じることがあります。なんたって足りてるんですもの。
なので、いくら精神論であっても、生み出すわたしがおいそれと「足るを知る」を口には出来ひんなぁ、と何度も思うわけです。

たとえば、家族に料理を振る舞う(料理出来ないんですが)とか、それこそ気持ちや心の充足のためにする対話の時なんかは言えると思います。

でもやっぱり、今こうしてこのnoteで発信しているわたしは、ものを作る側であり、ものを増やす立場です。そんな立場からこれを言ったら、途端にわたしの作った照明器具たちはまさにハリボテになってしまう。
でもなければ、わたしが作ったものこそ“それ”に足るものなんですよ、なんて傲慢なニュアンスになるでしょう。
極論に近い発言というのはお坊さんでもない限り、実はただカッコつけたい人か、未熟な危うい人なわけです。だから、やっぱり言えないんですよね。言わないんじゃなくて言えない。

いつだったか、当時勤めていた会社で「足るを知る」の話をしたとき、それ何か深イイ感じで消費者好きそうやんけとばかりに、早々に翌月のインタビューかなんかで代表が語っていたのを思い出しました。それだけをそれっぽく言うのが一番よくないと気付けた瞬間です。

それを踏まえて言いたい事

こういう事を小難しく考えるとき、とてもじゃないけどわたしの脳はクリエイティブとかとは程遠いんじゃないのかといつも思ってしまうのですが、そんな脳みそで出した結論が一つあります。

それが「足るを知って、足すことも知る」です。
なんか、こんな話の延長で言うと、足るも足すもおんなじ漢字なのが不思議に思えてきます。

デザインは引き算、なんてもう古典でも言わんわって感じですが、結局、わたしたちつくる人間が提供するのは、根本的に「足す」事なんです。
ちょうど照明なんかは、暮らしのために、どうあかりを“足す”かが大事になってたりします。逆でも言えるんですが、足すことを知ると、足ることに至るというか。

足す事を通じて、楽しさや喜びなんかを体験してもらう。そして、それを特別と思って満足いただけたとき、そばに置いておいてもらえるんです。

足りていることを知った上で、足してもらえるものをつくる。
わたしが言えるとしたら、これなんです。


たびたび引用して本当に申し訳ないんですが、深澤直人さんの言葉があります。

「僕はそぎ落とした簡潔なものを作ろうと、自分には言い聞かせてやってきたんだけれど、今となってはそれだけじゃダメだなと考えるようになりました」

道具の足跡—生活工芸の地図をひろげて

これは一般の方が読むと、デザイナーの発言なんだから“意匠”についてだと思いがちですが、その実、それを含めた行為(それをデザインという)についておっしゃっていると解釈しています。

世の中のトレンドとは別に、誰でもその人のタイミングでトレンドってきますよね。それを経験と呼んだり、学びと呼んだりするんじゃないでしょうか。世の中のトレンド(流行)が、その人のトレンド(学び)のきっかけになることはかなり多いのです。

何をもってミニマリストとなるかは、他ならぬその人次第ですが、中には情報が多すぎて、整理整頓も難しくて、いっそのこと考える必要のない状態にすればいいという人もおられるでしょう。

要不要というのは、白か黒かをはっきりさせたり、1か0かを決めることが潔いと思うような、その誤差や曖昧さを無視していく作業とも言えます。
ところが、1と0や、白と黒の“間”にも多くの数とたくさんの色がちゃんと存在している。わたしの世代なんかだと、あの歌手とあの歌手に教えてもらいましたよね。うんうん。

だから、心を疎かにして判断をしていると、そのうちとても辛い作業になってしまう。途中でならまだしも、やり切ったあと、もしくはいつの日か気付くことだってあるわけで。その時にはきっと、心をどこかに捨ててきてしまったような感覚に襲われてしまうでしょう。

そんなことにならないよう、ひとつお伝えしておきたい事があります。
今、それがあなたのトレンド(経験や学びのタイミング)だとして、その“間”にあるものを美しいと思える日、そして残しておく理由を探さなくてもいい日は必ずきます。
ですから、手元にあるものを無理に分別してしまわず、今はどうぞただ眺めてみてください。

最後に

やっぱり素敵な言葉だと思います。
「手放さない、美徳。」
midori doremiさんのおっしゃったこの感性が備わっていることこそ、足るも足すも知った正真正銘のミニマリストではないかと思います。

自分が何になりたいかより、自分が何を感じて今に至るのか。
人生を振り返った時、そんなことを思い出させてくれるものたちに囲まれていたいと、わたしなんかは思うのです。

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