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タオルケットと駅前留学


窓を開けて眠るのが好きだ。
かつて私の職場は京都市内にあるホテルの一階フロアにあった。
地上6階の建物には屋上ラウンジがあり、エレベーターフロアに続きの客室、面積の半分が屋上でいくつかのテーブルセット、灰皿、防水で木麻に似た布張りのソファセットが配置されていた。一応館内スタッフであった私は夜勤や休憩の折にこっそりそちらへお邪魔した。
客室側の常夜灯や周りの建物のおかげで辺りはうっすらと明るく、大した星も夏の大文字も見えなかったが、野外で人目を気にせずふかふかのソファに横になれる空間が新鮮で心地よかった。
何より地上から聞こえてくる話し声のほとんどが外国語で面白かった。これぞホテル内留学。
夏の夜に響く笑い声は万国共通で朗らかで、むっと息が詰まる湿度に負けず、穏やかな高揚に満ちていた。

同じころの自宅は清水寺近くの観光宿泊施設の密集地域にあり、まだまだ開発が盛んな土地だった。
円安の影響を肌で感じることが出来、大勢の信号待ちで隣を見ると日本人が自分一人であることが当たり前。白人の青年がコンビニで買ったばかりの雪見だいふくを頬張りながら『これめっちゃうまい!』と黒人のガールフレンドへ駆け寄る様子がとてもかわいかった。
夜でも早朝でも、窓を開けてうとうとしているとご機嫌な口笛や異国の鼻歌、知らない言葉で何かを訴える子供の泣き声が聞こえ、地上はたくさんの言語に溢れていた。

微睡の中で遠くに聞こえる声は幼少期に聴いた大人たちの声に重なる。
長期休みになるとよく母方の祖母の家へ泊まりに出かけた。
素麺と手巻き寿司、花火、トランプ、人生ゲームと夢のようなフルコースをどんなに満喫していても必ず22時には布団へ送還された。
閉じられた襖から漏れるぼんやりとした灯り。ぼそぼそとした低い話し声は時折どっと笑い声に変わる。
隣で眠る兄を起こさないようお茶を飲みにいくと、気付いた祖母は私を台所へ連れ冷たい麦茶をくれた。ついでにファミリーパックのピノを一粒、こっそり口へ入れてくれた。

あれから約20年経ち、私は大人になった。
元来一人遊びが好きな方でむしろ快適な質だが、それでも誰かといても寂しい夜やどうしようもなく悲しくなる夜はもちろんあった。

佳境は20代の半ばで、私の場合それらがほとんど一気にやってきた。
父方の祖母の死。一緒に暮らしていた恋人との別れ。両親の熟年離婚を経て実家は売られ、その土地は知らない家族が暮らすという。
ひとの頭は妙に性能が良く都合良く脚色される。いいことも悪いことも。たちが悪い。
書き出すとよくある陳腐な話だがつまり息もできないような痛みと喪失だった。放心して泣き疲れて眠り、目覚めてなんとか乗った電車でぼろぼろ泣きだした自分が信じられなかった。恥ずかしく止めたかったがどうにもならず、濡れたマスクが気持ち悪かった。
あれがどこへ向かうための電車だったか覚えていない。帰る場所を失ってどう生きればいいのか、知らない国へ放り出されたような日々だった。とにかく毎日が怖かった。少しずつご飯を食べて眠り、誰かに会うことを繰り返し気付けば今ここにいる。

起こったことは波のように遠くへ引くことはあっても穴が埋まることはない。
あの時よりずっと大きくなったのに持ち物は減り、大事なことや人も失うばかりのように思う。
思考から抜け出したくなったとき、友人知人へ吐き出すこともあるが、大抵は何もかも放り出してシーツへ身を任せ肌触りのよいタオルケットに包まる。
これが前向きなことなのか、やめられない指しゃぶりのように幼稚な現実逃避なのかわからない。
窓を開けて入ってくる声と風、肌に触れる布、瞼の外で通る車のライトをひたすら追い感覚だけの生き物になればいい。
大切なのは保護されていた頃のこと。
あれは夢だっただろうか。けれど私は舌の裏で潰した薄いチョコレートも、じわりと溶け出したバニラアイスの冷たさもいつまでも覚えている。


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