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誰かの負担になるのが苦しかった

2005年だっただろうか、千葉県の自宅のリビングで眺めていたテレビに映った地球温暖化。当時、中学生だった私は、温暖化は人間のせいで起きていて、いずれ地球も自分たちも深刻な影響を受けると知り、とにかく「ヤバイ!!!」と思った。

ニュースの人が言うには、自分たちが電気を使い過ぎていることが問題らしく、節電を呼びかけていた。本当はほかの話もしていたと思うが、そのときの私が受け取れたのはこれくらいだ。

変な言い方だが、節電は得意な子どもだった。母親が電気のつけっ放し、水の出しっ放しに厳しかったので、自然と身につけていた。なので、地球温暖化のためにできることを、我が家はやり尽くしていると思った気がする。

一方で、通っていた塾はそうではなかった。節電に敏感だった私にとって、塾のエントランススペースは異常なほど白く明るく、誰もほぼ通らないのにガランとした広さがあって違和感だった。各教室の電気スイッチの横には「こまめに消灯しましょう」と小さな張り紙。トイレにいくと「フタを閉めましょう(便座を温めているため)」という注意書き。(当時の節電と言えば、この二つ)でも、人のいない教室の電気はよく白く光っていたし、トイレのフタは毎回閉まっているわけでもなかった。でもそれが誰の仕業なのか分からなかったし、注意しようとする大人にも会わなかった。

本当は誰も節電しようなんて思ってないんだな。

地球温暖化という自分たちの問題が、自分たちの行動によって起きているというのに、誰も向き合っていないように見えた。ニュースで日本中に呼びかけている人がいるのに、私の周りには実践する大人どころか、話題にする人もいなかった。自分の行動の結果に、人は冷たく無関心なのだと思った。世界を苦しめているのは自分なのに、無視するとはどういうことだろう。人に迷惑をかけて生きていいの?結果大変になるのは、自分たちなのに。

こうした疑問を抱えていたにも関わらず「電気はちゃんと消そうよ」と友だちにすら言えず、孤独を感じていた。実は、地球温暖化を救うのが節電というちっぽけな行動であることには懐疑的で、その正義を振りかざすのに躊躇していたのだ。なにより、個人と世界との関係性が見えず、個人というちっぽけな存在のちっぽけな行動に意味があると思えなかった。周囲の大人が世界に無関心である様子に憤っていたくせに、私は誰にも相談することなく、その調べ方も分からないまま疑問を抱えて、孤独を深めていた。

「自分の行動が、世界がよくなることと関係するのか分からない」
無力感が大きかった。

当時、今村家が暮らしていたのは仮住まいのマンションだった。生まれは大阪だが、父親の転勤で千葉に移り、長年住んだ家の土地が突然売却されたとかで、急遽、隣町の6階建のマンションにいたのだ。元々転勤の多い仕事だった父親は、子どもたち(姉、兄、私の三人兄弟)が中学校に進学してから単身赴任をしてくれて、たしかその時は九州にいた。それで今村家を切り盛りしてくれたのは母だった。食事も洗濯も風呂掃除も毎日全部やってくれて、思い返すと全く頭が上がらない。そんな母親の毎日の日課は、家計簿をつけること。私たち子どもがお風呂に入る時間帯に、一人でダイニングテーブルに座り、鉛筆を持ってレシートと家計簿に向き合っていた。

「お金がない」

そう言って、頭を抱える母を見た。最初はあまり気に留めなかったのだが、何日か続くのでさすがに気になった。深刻にため息をつく母に、声をかけられなかった。というか、親の悩む姿を見るのは初めてだった。どうしていいか分からなかった。

お金がないとは、どういうことだ。当時の私は、何不自由ない生活を送っていた。一日三食、好きなだけ食べた。部活もやっていた。毎年家族でキャンプ旅行もしたし、誕生日のお祝いもした。たしかに、外食はほとんどなかった。お小遣いも少なかった。ゲームも買わなかった。服はお下がりが多かった。安いものを選ぶクセは身についていた。水泳部を選んだ理由の一つはそれだったし、たまの外食も親が選んだものより値段の高いものは選ばなかった。子ども3人とも贅沢を言わないタイプだ。これ以上なにが負担なんだろう。

そうして行き着いたのは、自分の学費。日々、十分に節制していることに自負があり、大きな負担になるお金といえば学費しかなかった。

当時、姉と兄と同じように私立の中高一貫校に通っていた。特に私の学校は県内トップ校。東大を目指す人たちが多いような進学校だったのは、高校生になってから知る。でもそんなのは親の子育て計画になかったはずで、小学校のときから勉強しなさいと言われたことも一切ない。計画が変わったのは、私が小学二年生のとき。四才上の姉が、友だちが「じゅけん」するから自分もやりたいと言ったらしい。それで、兄も私も乗っかったのだ。

気づいたときにはもう遅かった。自分という人間にかかる費用を親が負担している上に、彼らは日々悩んでいた。私たちに相談せず。稼げない自分にも、学校を辞めたくない自分にも腹が立った。自分のワガママが、よりによって愛してくれる親を苦しめていると思って苦しかった。誰かの負担になりたくなかった。

その次の年、今村家は一軒家を建てた。子どもたちが学校に通いやすい場所を親は選んだらしく、どこまで子どもファーストなんだと呆れた。引っ越した初日、がらんどうとした一軒家のなかで姉と話した。「これ、どれくらいお金かかってるのかな」「うーん…」結局、二千万円以上するだろうという話になった(本当のことは知らない)。お金めちゃくちゃあるじゃん!という気持ちになるのだが、母の姿を思い出してはたと思い直すのだった。(一般的に裕福な家庭だという自覚はある。)私はその日、通っていた学校で特待生に選ばれることを決めた。特待生になると、年間授業料24万円、高校三年間で計72万円の支払いが免除されるのだった。

家と比べればちっぽけな金額である。でも、負担という存在でしかない自分から抜け出すために活路を見出していた。その一心だった。

小学生の頃から贅沢を言わない子どもだったのは、言い方を変えれば、自分の意志を殺すことも多かった。喉が渇いたとは外出先で言わなかった。ボーリングもカラオケも好きじゃないんだと友だちに言った。ディズニーランドも理由をつけて行かないようにした。クリスマスのサンタさんにお願いするものは思いつかなくなった。誕生日に欲しいものも分からなかった。でも中学生になってからすごく欲しいものも出てきた。修学旅行に着ていくための服が欲しいとか歯を矯正したいとか。それを親に言えるようになりたかっただけだったとも思う。

実際のところ、欲しいものを手にすることへの苦労は変わらなかったが、特待生に三回選ばれて家計は助かったんじゃないかな。

「テレビで貧困の番組は観ないようにしてる。観ると、自分が楽しくなくなるじゃん?」
中学の同級生の言葉が、ずっと心に残っている。

その気持ち、すごくわかる。

テレビの中には貧困、紛争、テロ、地球温暖化やら深刻な事実がたくさんあって、でもテレビを切れば、夕飯を用意されている幸せな自分がいて、その境界で揺れ動いていた。二つの世界は本来一つなんだけど、混ぜちゃいけない気がして(実際、それで怒られたこともあって)、友だちにもそう言われて何も行動できなかった。

でも、自分が誰かの負担になるのがいやな気持ちもなくならなかった。よりによって大切な人を苦しめていることに気づけないことはつらすぎる。自分という存在が世界にどう関係しているのか、自分はどう行動するとよいのか、紐解きたかった。大学で都市環境工学を専攻したのはそれが理由。個人と世界のあいだにある大きな隔たりに興味を持ち、自分の無力感に向き合おうとしていた。そこから一つずつ、紐解いてきた。

いま、世界の一部として生きようとする自分がいる。この言い方で伝わるだろうか。世界は完璧じゃない。親も完璧じゃなかった。世界の未熟さを批判したり、反抗したり、閉じこもったりするのはもうやめた。自分が世界という大きなシステムの中の一つであると腹落ちしてから、やることが見えてきている。世界の歪みに目を向け、疑問を投げ、人と語り、行動していくのである。

世界に対して無関心を装うのは、やめよう。一人ひとりが世界をつくる当事者であることを思い出せるような文化を作っていく。

今村桃子

本記事は、自分を観察する目的で書き記した。
以下は、個人と世界の関係性を紐解くのに役立ったものたち。


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