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母親って、何なんだろうな。

Twitterでたまたま流れてきた第一話を読み。
続きが気になって無料サイトで第二話まで読み。
それだけで、課金するに値すると判断するのには十分でした。

『の、ような。』というタイトルです。
主人公は30過ぎの小説家の女性。一人暮らしで締切に追われていたある日、恋人が、14歳と5歳の子どもを連れてきます。
いとこ夫婦が突然亡くなり、その子ども達を半ば強引に連れてきた恋人に呆れつつ、4人は同居を開始。自分の子どもすら育てたことのない大人二人が、突然二児の保護者になるという、ヒューマンドラマです。

好きポイントが山のようにありますが、主人公の女性が非常に好ましいです。

連絡もなく子ども二人連れてきて成人するまで面倒みたいという恋人に対して、文句を垂れながらも同居を即決。仕事との両立を悩みながらも、できる限り子ども達の望みを叶えようとする姿勢。おそらく小説家という設定が活かされているのですが、言葉の選び方、物の考え方、サバサバとした話し方。かっこよすぎる。

好きな場面も好きな言葉もたくさんありますが、独身女性が突然、二人の子どもを育てる、というところから、「母親」にテーマを置いて、書いてみようと思います。


さて

親を亡くした子どもが別の人と暮らすとなって、イメージするのはどんな物語でしょうか。

私の場合、人生で最初に触れたそういう物語は、白雪姫やシンデレラだった気がします。
親を亡くし、意地悪な継母と暮らす。父親の再婚相手というのは意地悪なものなんだと思っていました。

その感覚が転換されたのが、NHK朝ドラの『芋たこなんきん』を観た時でした。もう、しっかりおばちゃんと言われる歳になった女性が、子どもの沢山いる医者である男性と結婚し、生活していく話です。子どもたちにとっては、その女性は継母。けれど、彼女は天真爛漫な女性で、白雪姫やシンデレラのような、悪役でない継母もいるんだなと思いました。
正直ほとんど覚えていないのですが、鮮明に覚えているシーンがあります。子どものいる男性と結婚した主人公と、友人らが話しているシーンです。「再婚したってことはお母さんになるの?」と聞く友人らに対し、彼女は、「私はあの人の奥さんではあるけど、あの子たちにとってのお母さんは、亡くなったお母さんだけだよ」と返します。彼女は子ども達に、お母さんと呼ばせることはせず、ずっとおばちゃんと呼ばれていました。
母親ではないけれど、保護者ではある。前の母親のことは忘れずにいて欲しいし、でも、自分を家族として受け入れて欲しい。そういう姿勢が、子どもの頃の私には衝撃的でした。

ここまでで、「自分のことを母と呼ばせる継母は悪者、母と呼ばせない継母は良い人」という、固定観念が出来上がります。子どもの頃の思考って恐ろしいなと、今振り返っても思いますね。

そして、ここからさらにひっくり返される作品に出会います。『ベビーシッター・ギン!』という、平成九年連載開始の漫画です。これまた古いですね。幼馴染のお母さんが持っていた漫画で、幼馴染の家に行って夢中で読むのを見て、「そんなに好きなら貸してあげるよ」と、全巻貸してもらった記憶があります。
ベビーシッターと聞くと女性を想像しがちですが、主人公は男性シッターのギンさん。女性の格好をしているのでほとんど男性だと気付かれず、依頼者は男性に子守りができるのかと最初は疑うのですが、赤ちゃんが大好きで、シッターとしても超一流。彼が各家庭に赴き、子どもと親と関わりながら、家族のわだかまりを解いていく、というような物語です。
こちらでも、印象的だったのは、子持ちの男性と結婚した女性と、その男性の子どもとの話。子どもは実の母が亡くなったことが受け入れられず、女性と距離を取ってしまう。女性は何とか子どもに受け入れて欲しくて、「お母さん」と呼んでほしい。最終的にはギンさんが間に入ることで子どもが歩み寄りを見せ、女性を「お母さん」と呼び、女性が泣きながら抱きしめる、という感動的な場面で終わります。
ここでまた、私の固定観念が揺るぎます。「お母さん」と呼ばれることで、ハッピーエンドになることもある。白雪姫やシンデレラの継母のように意地悪でなくて、芋たこなんきんのおばちゃんほど気安い家族でもなくて、愛情を持って、子どもの母親になりたいという感情。家族の形、母親の形って様々なんだなと、色んな作品から教えてもらいました。

で、今回の『の、ような。』です。

独身女性と、その恋人と、そのいとこの子ども二人。前に挙げたどれとも違う、新しい家族の形です。
出会って早々、兄弟の、特に兄の方は戸惑います。兄弟からすれば、おじさんはともかく、その恋人である主人公・キナホは血縁もなく、全くの無関係。しかも同居場所はキナホの家。迷惑をかけまいとする兄に向かって、また、幼さゆえに思ったことをそのまま聞いてしまう弟に向かって、キナホは怯むでもはぐらかすでもなく、正直に自分の気持ちを伝えます。

「お父さんとお母さんじゃないけど、ここで一緒に暮らしていいかな」
「親みたいな事ちゃんとできないかも。ムリだと思うからそれなりに何とかする」
「まだこの生活始めたばかりだしうまくいかない事多いだろうけど、そんなの当たり前だからいいじゃない」
「慣れてない事は大変だけど、一緒にいるのは嫌じゃないよ」

母ではない。親じゃない。親のようにはしてあげられないことも正直に伝えた上で、学校の行事に参加したり、急に具合が悪くなったことに慌てたり、クリスマスプレゼントを買ったり、みんなでご飯を作ったり。
親ではないと言いつつ、保護者である自覚はあって、子どもたちにもこの生活を楽しんで欲しいと願う様子は、親の愛情とほとんど変わらないよなぁとも感じます。

母親の定義って何なんでしょうね。子どもに母と認識され、呼ばれていることがそうなのであれば、白雪姫やシンデレラの継母ですら母親です。でも、それをベビーシッター・ギン!の女性と同じ括りに入れるでしょうか。
愛情が大事と言うなら、芋たこなんきんのおばちゃんやキナホも母親であるとなりますが、彼女らは子ども達から母と呼ばれず、本人らも母親であることを否定しています。
また、婚姻届のような書類が定義となってくると、キナホは途端に母親ではなくなります。保護者ではあるものの、母ではない。何度漫画を読んでも不思議な気持ちです。
逆に、DNA上れっきとした親子でも、母親足りえない人も、残念ながら存在します。産んだだけの人を母親と呼びたくないと思うものの、産む側の母親達にも悲しい事情があったりする世の中を見ると、そうやって一括りに否定するのも嫌だなと思います。

結局ケースバイケースなのですが、衣食住をある程度整えてくれて、時々ぎゅっと抱きしめてくれる人を、母親と呼びたいなと、今のところは思います。思ってはいるものの、キナホは確かに母親ではなくて、保護者でしかないよなとも思います。悪い意味ではないのですが、何でしょうね。子どもらに正直すぎるからですかね。

とりあえず、好きな作品がまた一つ増えました。
読んで欲しい人は沢山いますが、まずは年末帰った時に、自分の母親に持って行ってみようと思います。


ももこ


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